★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

そして、、、ビャウィストク

2009-08-31 23:51:30 | エスペラント
<世界大会入り口<内部、受付付近<エスペラントとは関係ないらしいけど、気球を上げようと努力している人たち<開会式に挨拶するビャウィストク市長<同じくザメンホフの孫、ザレスキー・ザメンホフ博士<この開会のシンボルになった市庁舎、博物館<エスペラント・カフェ
ビャウィストクでの弟94回エスペラント世界大会
<ザメンホフ通り<ザメンホフ生家の写真<ここに生家があったと言う碑<ザメンホフの胸像の前で、ガイドの@%&?¥さん<ザメンホフ胸像<エスペラント・センターの前に会った碑<閉会式、緑星旗がハバナ市に渡された

ようやくビャウィストクに到着です。
第94回エスペラント世界大会がビャウィストクで行われた理由は今年がザメンホフがビャウィストクで誕生してから150年目と言う記念の年だからです。
既に十日あまりエスペラントでポーランドを楽しんできましたから、もう大会は終わったようなもの、などと不謹慎なことを言いながら登録し、書類を貰いました。
私たちの宿は学生寮で、大会場とは至近距離にあります。気球の写真の背景に見える建物の一つで、歩いて五分くらいです。
プログラムの予定変更があったりして参加出来なくなってしまったのもありましたが、大会を楽しんだことは間違いありません。疲れたら宿に戻って昼寝して、ということも出来るし至近距離を選んだのは正解でした。

徒歩の遠足で市内をまわり多くのザメンホフ縁の場所も見て歩きました。
もの凄く暑い日で、最後には立っていられないくらい疲れたのですが、それでも参加して良かったです。ガイドの@%&?¥さん(聞きなれない名前ということもあって終に憶えることが出来ませんでした)は中学生の頃一年くらい学校でエスペラントを勉強したと言っていましたが、通訳のイレンさんに「みな忘れたんでしょ?」と言われていました。それでも時々説明にエスペラントを交えたりしていました。この遠足の途中エスペラント・カフェで軽い昼食を取りました。名前のよしみで多くのエスペランチストがこのレストランを利用したと思います。当然エスペラントのメニューも置いてありました。

新旧の友人たちと楽しいおしゃべりの時間も持ちました。次は何処で会えるのでしょうね。
帰国したら日本人の友人の一人に「ご主人からの贈り物と思って楽しみなさいよ」と思いがけないことを言われ面食らったのです。彼女は、アルツァイマーの夫を抱え何処へも行けないと嘆いていると或る友人の姿を見て思ったとの事。「彼が私にくれたのは時間だけよ、お金は残してくれなかったの」
「毎日の暮らしで節約すれば良いじゃない」
そんなこととっくにやってます。。。
私が残りの人生を鬱々と暮らすことを夫が喜ばないことは確かです。生前良く口にしていたことでした。そして、彼女の言葉を改めて考えています。
エスペラントで世界の友人たちと笑い合っていた時に私は夫の存在を感じたのです。彼も一緒に笑っていました。冗談の好きな彼と私は良く冗談を言い合って笑ったものです。一種の言葉遊びでした。

数日前、ハミルトンに住むエスペランチストから電話がありました。ビャウィストクに行ったけれど、大会には到着してから申し込んだので「コングレサ・リブロ」に名前は載っていないという人物。でも、「コングレサ・リブロ」に私を見つけ、こんな近くにエスペランチストが居るのを知って嬉しいという風でした。ハミルトンで催しをする際には是非と招いてもらいましたし、参加したいと思っています。

エスペラントの父ザメンホフ
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アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ 死の収容所

2009-08-29 11:00:24 | エスペラント
<1-ビルケナゥの訪問者達<2-見張り台<3-広大な収容所内に敷かれた線路<4-ビルケナゥの門<5-当時の様をほぼ残しているバラック内部<6-門から見下ろす(1)<7-門から見下ろす(2)
アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ 死の収容所
<8-ユダヤ人たちを運ぶ貨車が入ってきた線路<9-証拠隠滅を図った名残<10-ユダヤ人たちの使わされたバンクベッド<11-アゥシュヴィッツ第一収容所<12-居心地の良いアパートにも見える外見<13-死者たちに捧げる蝋燭も売っていた<14-ガス室の外見、内部は撮影禁止

楽しかった休暇の最後の日に訪ねたのは。。。アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ収容所

「機会が与えられたなら訪ねるのが私たちの義務」と思っていただけに、クラコウから一時間程度の距離と知ってなおのことこの機会は見逃せないものでした。
他の人達が「塩鉱山」を訪問している間私たち五人は若い学生が運転する車でアゥシュヴィッツ収容所跡に向いました。
運転手のヴォィテックの英語は分かりにくく且つ私たちの英語もあまり良く理解しないので私のほかに二人英語を話す人が居たのにちょっと苦労でしたが、気立てのいい青年で私たちの希望に沿おうという努力が感じられました。

到着したのは、よく写真で見た大きな門(写真4、写真は内側から見たもの)です。
広大な、ということは聞いていましたが目を見張る広さです。
ナチスは証拠隠滅を図りこの収容所を破壊しようとしたのだそうですが時間が足りず中途半端に終わり私たちが今見られるのはその残骸です。
幾つか残ったバラック内部もメチャクチャに壊されているところが多くありました。
人間の尊厳を完全に奪い(写真5、このような形でトイレを使うことがあなたには出来ますか?)畜生以下に扱った上「」したナチスの行為は「狂気」と表現されていますが、それ以外の表現は考えられそうにもありません。けれどもこの「狂気」は正気の狂気なのです。彼らが証拠隠滅を図ったのは自分たちの行為が罪悪であることをよく知っていた証拠でしょう。

バラックの設計は52頭の馬を入れる厩で、その中に400人もの人間を押し込んでいたと言う事実を考えた時、収容された人々の言いようもない苦悩が伝わってきました。この収容所跡が「負の世界遺産」に指定されていることや入場は無料で公開されていることは多くの人々にこの苦悩を感じて欲しいからでしょう、二度と同じ事を繰り返さないために。

門の上の見晴台から外側を見ると貨車を運んだ線路(写真8)の一部も残されていました。訪問者達の車が散在していてその駐車スペースの小ささに驚くのですが、当然です。貨車で運ばれてきた彼らなのです。そして帰ることもなかったのです。

電気が通って居たであろう鉄条網に野の花が絡むよう(表紙写真)に咲いていました。草を刈る仕事の人が敢えて残していったものと私は勝手に想像しましたが、死者たちに手向けられた花(造花)はあちこちに見ました。

此処はビルケナゥという所にある「アゥシュヴィッツ第二収容所」です。
ここはアゥシュヴィッツではない、アゥシュヴィッツにも行きたいと同行者たちが言うので時間ギリギリに「アゥシュヴィッツ第一収容所」へも行きました。
距離的には車で二分です。アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ収容所の地図を参照して下さい。
こちらは全く破壊されずに立派なレンガ造りの建物が並んでいました。もともとが兵舎として建てられたものなので、一応暖房もあったそうです。鉄条網がなければ人々が平和に暮らしているアパートかコンドに見えます。
展示室には「アンネ・フランク」や「コルチャク先生」の写真もありました。

そして悪名高きガス室の内部も見ました。内部は「死者たちに敬意を払って」撮影禁止なので写真はありません。おしゃべりも禁止です。カメラを持った人々は居ましたが、禁を犯して敢えて撮影する人は居ませんでした。


追加の写真は当収容所初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスが死刑に付された絞首台です。
「身から出た錆」とも言えるでしょうか。

殺害されたのはユダヤ人に限っていません。
一言で言えばナチスが不浄と看做したものはみな、と言っていいでしょう。政治犯、ジプシー、身体・精神障害者、同性愛者や彼らを匿った者が含まれます。

決して楽しい訪問ではありませんでしたが、私はこの機会を与えられたことを感謝しています。そして、みなさんにお伝え出来るブログを持っていることも。

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ドゥナイツァ川下り

2009-08-28 00:28:31 | エスペラント
<オッカナビックリ筏に乗る。<滑らかに、それ出発!<もう、緑星旗がはためき。。。<。。みな神妙に大人しく<対岸はスロヴァキァ側の乗り場<見掛けたスロヴァキァ側のチャペル<石灰石の山はこの公園のシンボル「三王冠」
ピエニニ国立公園、ドゥナイツァ川下り
<岸辺で手を振る泳ぐ人たち<お、誰かさんが筏を逆行させようとしている??<どうにか元に戻して。。<船頭さんも『ホッ』<中々手際が良い、若さかな?<終点が見えてきました<終点で見たDVDの広告、ズバリ良く描けてます

ポーランドとスロヴァキァの国境を流れるドゥナイツァ川を筏で下りました。京都の保津川下りを思い出しましたが、保津川にあったような急流はなく滑らかでした。川の曲りくねりが多く、そこが船頭さんたちの腕の見せ所なのでしょう。
筏は私の知っている筏とは違って、五つの平底舟を一纏めにした形です。
一応説明があって、ポーランド語の出来る人が通訳です。私たちの筏はイスラエルから来たポーランド育ちのマチルダが引き受けてくれました。でも、右の耳から入って左の耳から抜けて行ってしまったらしく殆ど憶えていません。
後で知ったのですが、ここピエニニ国立公園はポーランドで一番小さい国立公園なのだそうです。果てしなく広がる空や、なだらかな緑の山々に色鮮やかな山荘が点在する風景はのびのびとして鬱陶しい浮世のことなど忘れていましたから公園の広さなどどうでも良い事のようです。
この公園のシンボル「Trzy Korony (三王冠)」は海抜982メートルと決して高い山ではありませんが、迫ってきた時には咄嗟にカメラを向けていました、気になる山です。
公園内に生えている植物の種類も多いそうで、歩く機会があったら楽しかったろうなァ、です。

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ザメンホフ・ストラートを読み始めました

2009-08-27 09:55:15 | エスペラント


カルガリーに居る間に、ビャウィストク大会中に買った二冊の本のうち薄い方は読み終えてきました。
というわけで昨夜からもう一冊の方「Zamenhof Strato(ザメンホフ通り)」に取り掛かりました。
既に日本語訳も出ていますが、エスペランチストとしては当然エスペラントで読むべきと思いこちらを選んだのです。日本語で読むようなわけには行きませんからかなりな時間が掛かる覚悟でしたが、読み始めたら引き込まれるようで、意外に早く読み終えるかもしれません。
まだ、ザレスキー・ザメンホフ博士が幸せな少年時代を語っている部分ですから、彼の恵まれた幼少時代を想像しながら楽しんでいます。

私がこの本を買った理由の一つは勿論エスペラントの創案者ザメンホフの孫が語り手であるからでもありますが、聞き手のローマン・ドブルジンスキ氏が話し上手だったからでもあります。
彼とはソンチ地方での休暇中、良く食卓が一緒になりましたが、その都度色々面白い話をしてくれました。この人が書いたものなら。。。という気がしたからです。

ザレスキー・ザメンホフ博士の幸せな少年時代はナチスによって無惨に破壊されるわけですが、多分その部分を読むのは大変辛いことでしょう。でも、頑張って読む心算です。著者のローマンさんと語り手のザレスキー・ザメンホフ博士二人のサインも戴いてきた本ですし。

エスペランチストでない皆さんにも、日本語訳があることだし読むことをお薦めします。
近い内、アゥシュヴィッツ・ビルケナゥ訪問の報告も書きます。

上に掲げた地図はワルシャワ訪問中に貰ってきたもので、ザメンホフ通りには印をしておきました。近く(左上)にはジカ(Dzika)通りの名前も見え、その右手にはザレスキー・ザメンホフ博士の父アダム、二人の叔母が他のユダヤ人たちと共に死のトレブリンカ収容所へ送られた貨車の出発地点の記念碑も見えます。
ワルシャワでのエスペラント縁の地訪問はこちらでご覧下さい。

次はドゥナイツァ川の筏下りです。目下写真を選択中。

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カルガリーから発信

2009-08-21 20:53:25 | 雑  記

涼しいカルガリーからです。
ようやく日本語を書けるようにしてもらえたので試し打ちってところ。

東部の暑さは異常ともいえるもので、私が出発する前日、お向かいのゴルドンさんが南向きの窓のブラインドを下ろし一度も外に出なかったのです。30℃程度の暑さにひるむ人ではありませんし、何かしら外の仕事をしていなと気が済まないような人ですから、これには私も驚きました。
人伝えに聞いた昨日のニュースではトロントのすぐ北の町に竜巻が着陸、被害もかなり大きかったようでした。夏が来ない、夏が来ないとぶつくさ言っていたのにこの暑さには「悪いけど過剰だ」と不平を言っている人だっているでしょうね。
そのことを思うと涼しいカルガリーで一週間を過ごすのが申し訳ない気がしなくもないです。
涼しいといっても日向はじりじりと夏の暑さです。でも木陰に入れば爽やかな緑の風を感じられるのです。昔はオンタリオ南部だってこんな気候だったなぁと過去を懐かしんだりしていました。

ポーランドから帰国して気付いたことですが、急に当ブログの閲覧者数というのが増えたことです。3~4倍に急に増えたのには目を見張りましたが、ポーランドに関心を持っている人たちなのか、エスペラントに関心があるのかそこまでは知る由もないのですけれど、楽しみに待ってくれている人たちがいるというのは嬉しいですね。ご期待にそえる努力をしなければ。。。

報告はまだ終わっていませんので楽しみにしていてください。

発信時間はカルガリー時間です。

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コウノトリ

2009-08-17 18:12:22 | 大鳥 ・ 小鳥

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英語名:Stork
学名:Ciconia ciconia
和名:コウノトリ
エスペラント名:Cikonio

走る列車やバスの車窓から眺める田園風景の中に時々大きな白い鳥がいることに気付きました。コウノトリです。調べていて種類の多いのにも驚きましたが、正しく絵本で見るコウノトリでした。
私には珍しいので「ツィコニーォ、ツィコニーォ」と大騒ぎして写真に撮ったのですが何時も空振り、辛うじて撮れたのがこれです。
ポーランド人には特に珍しいわけではないらしく、私たちカナダ人がカナダ雁を見る程度の冷静さでした。
群れていることは殆どなく何時も単独ということでしたが群れの写真(三枚目)も撮れました。単なる証拠写真です。
一枚目は時々見かけたコウノトリ夫妻の模型ですが、こういうものを作るのはやはりコウノトリへのポーランド人たちの愛着故なのでしょう。
赤ちゃんを運んでくるという伝説の鳥はヒョコヒョコと広い田園をユーモラスに歩いていました。

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クリニツァの鉱泉と養蜂場

2009-08-16 13:55:39 | エスペラント
<何処かの夜店かと。。。<。。思える土産屋街<みな真剣に説明を聞く<鉱泉の大元締め? ガラスで保護されていた<30℃はあったかという日。皆の服装からは感じないでしょう?<養蜂場の教会<養蜂場のガイドと通訳のローマンさん。背後には養蜂の守護神像
クリニツァの鉱泉と養蜂場
<蜂の巣箱ー1<蜂の巣箱ー2<蜂の巣箱ー3<店内に陳列された蜂蜜酒<田園風景-1<田園風景-2<田園風景-3

この日の午後はバスで、この辺りで一番大きい町クリニツァへ。
クリニツァは「泉」という意味だそうで鉱泉が沸いている所です。大きな建物の前の広場にその源泉がありました。建物の中に入ると広々としていて、長い行列が出来ても大丈夫な広さがあります。壁際のカウンターでは鉱泉を売っていました。
「もう飲んだ?飲まなきゃダメよ」などと言われて一応味見。特別美味しいとも拙いとも思いませんでしたが、冷たかったら良かったかなと。
集まってくる人たちはそれぞれ健康のためにこの鉱泉を飲みに来るのでしょう。医者の指示で来る人も居れば、私たちのように単なる観光で来る人も居るでしょうが、やはり鉱泉の「ご利益」は期待してくるのでしょう。ベンチにはそんなノンビリした人たちの姿が並んでいました。

街の中の散歩もしました。ガイドのアナの説明をローマンさんがエスペラントに通訳してくれます。
街を歩いていて目敏く銀行を見つけたドミトリが立ち寄りたいと言い出し、私も含め数人が便乗して換金、ワルシャワの空港より率が良いのでホクホクでした。

その後又バスに揺られて養蜂場へ行きましたが、立派な教会の中での説明はメモしておらず省きます。
お見せしたかったのはここの巣箱。四角な箱しか知らない私には面白くも珍しく沢山写真を撮りました。その一つ一つが丁寧な手作りで木彫りが施されてあるのもありました。
蜂蜜ワインの味見をし、お土産にはそのワインと蜂蜜、ハニー・ディッパー(蜂蜜用の棒)そして蜜蝋で作った蝋燭を貰いました。

帰路バスの窓から数枚の写真を撮りましたが、日本の秋に田んぼで見られた(稲の束を積み上げた「にお」と言ったと思うのですが)光景に似ていて懐かしさを感じたのです。乾し草かな、と思ったのですが、七月下旬なら小麦の可能性も有るでしょうか。

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南ポーランドの休暇

2009-08-15 14:43:14 | エスペラント
休暇の始まり
<バスの窓から見えた家<途中の景色<ゲォヴィタ・ズウォツキ、私たちの宿<私たちへのもてなし、民族舞踊<踊る若者達<バス停のベンチで着替える娘達<朝霧の中を行く馬車

ワルシャワから列車でクラコウへ。そこで他の人達と合流、バスでソンチ地方へ向いました。なだらかな山々に囲まれた保養地で、スロヴァキアとの国境に近い地方です。カナダのローレンシャン地方に良く似ていました。
ズウォツキという町のホテルに到着したのは予定よりもかなり遅れていたので、私たちを待っていた昼食は中途半端でしたが、遅い昼食と夕食と二度同じものを食べた記憶があります。これ、日本人だったら「昼も夜も同じもの?」と顔を顰めたかもしれないなと思ったのですが、そのことで不平を言う人は居ませんでした。
翌日午前中はホテルのお医者の診断を受けました。通訳はローマン・ドブルジンスキ氏です。
診断後処方箋を貰い、それぞれトリートメントを受けるのです。私は指の関節炎を訴えたので「手のジャクジ」。渦巻く温水に両手を入れて毎朝15分間じっとしているのはとても退屈でした。

その日の午後は隣のネストルという町での「フェステヴァル」。
ズウォツキでの予定でしたが市長さんが前日交通事故で亡くなったとかで急遽場所を変えたのです。バンド演奏から民族舞踊といろいろ楽しませてもらいました。
恰幅のいいおばさん達も若者たちに負けず誇らしげに踊っているのは見ていて気持ちのいいものです。丁寧な刺繍を施した民族衣装にも彼等の誇りが感じられました。

終わって帰るときバス停のベンチで着替えの娘たちにはつい微笑んでしまいました。我が子らがハンガリー舞踊を習っていた頃を思い出したのです。パーフォーマンスの後、大人が思い付かない様な階段の片隅とかヘンなところで着替えていたものでした。

早朝の散歩で出会った馬車、なんと牧歌的な光景でしょう。

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ポーポー

2009-08-13 10:08:38 | 樹 木 ・ 灌 木

Coments

英語名:Pawpaw
学名:Asimina triloba
和名:ポーポー
エスペラント名:Papaŭo

久し振りのネーチャークラブでした。
「ポーランド、どうだった?」「ネーチャーを歩く機会はあった?」
「バスの窓からだけど、コウノトリ見たよ」
「野生で芥子の花が咲いていたし」
「あちらの烏は変なカラスだったよ、帽子をかぶってて。。」
と、まァ会話はこんなところ。

で、昨日の「水曜散歩」はセントキャサリンズの「マルコルムソン公園」
メンバーの中にはここでヴォランテァの仕事をしている人たちも居ます。
ここへ来る度に、ああそうだ、と思い出すのがこの木です。
一人で来ることは滅多になく、したがって何時も花の時期を逸しています。もう何年この青い実を見てきたでしょうか。来春こそは花を見に来よう、カレンダーに印しておこうと決意しましたが、果たして。。。
Pawpawの詳細はこちらで。花の写真もあります。

パパィヤと混同するらしく私の英エス辞典にもPapajoと出ています。
北米原産、食用になりますが癖が強く好き嫌いも分かれるとか。。もう少し経って熟れた頃行って見ましょうか。

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ビャウィストク世界エスペラント大会 (ワルシャワ その三)

2009-08-09 10:51:19 | エスペラント

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教えられたとおり180番のバスに乗ってユダヤ人墓地方面に向いました。その時は気が付かなかったのですが、窓に張ってある路線地図(裏写真/赤印は筆者)には英語でユダヤ人墓地その他の所在地も記されてあり、ポーランド語が解らなくても自分の降りたいバス停を見つけることが出来ます。
とりあえずエスペラント通りで降り、歩きました。
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エスペラント通りは人通りも疎らな、庶民的ではあるけれど落着いた通りです。
短い通りなので数分歩けば終わりでしたがその間に一人か二人の通行人とすれ違っただけ、もう夏休みでしょうのに子供の姿さえ見かけず静かでした。
通り名は二箇所で撮ったので雰囲気の違う二枚を重ねておきました。マウスオーヴァーで見られます。




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ユダヤ人墓地もそこから歩いて程遠くないところにありました。我々観光客は何ズローチだったか入場料金が必要です。
ザメンホフのお墓の場所はたどたどしい英語で教えてくれました。そのお墓に到着する前に数人の観光客が写真を撮っている場所に来ました。
児童文学者で、小児科医でもあり、孤児院の院長をしていたコルチャク先生が子供達の手を引いている姿を表した記念碑です。
ナチスに「処刑」される子供達を「子供達だけで死の旅に出すわけにはイカン」と自ら申し出て死の道を選んだという人。トレブリンカ強制収容所が彼の最後の地です。
その直ぐ傍にはナチスに殺された子供達のための記念碑(裏写真)もありました。その記念碑を囲むように建っていた壁の詩には当時ゲットーに押し込められ物資の流通も大方中断されていたユダヤ人達の生活の喘ぎが覗えます。超特急の意訳ですが、この少年の心は伝わってくるでしょう。


The little smuggler

Through a hole, through a crack or a cranny
Starving yet stubborn and canny
Sneaky and speedy like a cat
I daily risk my youthful neck
And if fate will turn against me
Do not weep for me mother;
Don’t cry
Are we not all marked to die?
Only one worry besets me
Lying in agony ; so nearly dead
Who’ll care for you tomorrow
Who’ll bring you, dear Mom
a slice of bread.

Henryka Lazowerl / Ghetto Warsaw 1941
小さな密輸入者

穴や隙間を通り抜け
飢えてはいるが強情で抜け目なく
猫のように素早くすり抜けて
僕は毎日この若い首を賭けているんだ
運命が僕に逆らうなら
泣かないでよ、お母さん
泣かないで。
僕たちみんな、何時かは死ぬことになっているんだろ
死の苦痛に喘ぐ時の
唯一の僕の気がかりは
明日、誰があなたを気遣うのか
大切なお母さん
誰があなたに一切れのパンを運ぶのか

ヘンリカ ラゾウエル/ゲットー ワルシャワ 1941


<>


ザメンホフのお墓はその直ぐ近くにありました。ついに私も此処に来たのだという感慨があります。ザメンホフ夫人クララのお墓(裏写真)はその脇にひっそりと立っていました。ウッカリすると見逃してしまうほど飾り気の無いものでした。ザメンホフ夫妻も三人の子供達をホロコーストで失っています。
後で知ったのですがザメンホフを経済的に援助したクララの父のお墓もこの墓地に有るのだそうです。彼の援助なくしてエスペラントは成就しなかったでしょうから彼はやはり大切な存在です。
Umschlagplatz
ジカ(Dzika)通りにあるユダヤ人が列車に乗せられた駅跡も通りました。過去には彼等の乗った車輌の一つが置いてあったそうですが今は御影石の記念の壁にUmschlagplatzと刻まれてあるのみです。写真は「此処から1942年~1943年にわたり30万人以上ののユダヤ人がワルシャワからナチの死のキャンプに送られた」との英語の説明です。
町を行く人々は忙しそうで、この記念碑の存在すら忘れているようでした。立ち寄るのはやはり観光客でしょう。






Zamenhof stratoそこから間も無くザメンホフ通りに入りました。エスペラント通りに比べるとはるかに大通りです。
何故かこの写真は侘びしいのですが。。。
ザメンホフ、エスペラント縁の地はカヴァーしたところでドッと疲れを感じ、オオ何と足の重いことか。




Warszawa Uprising最後に立ち寄ったのがワルシャワ蜂起の記念碑です。
亡命中のポーランド政府の支援を得ての蜂起ということですが、政治の世界のややこしい取引や駆け引きも絡む蜂起、無残な敗北に終わっています。その後ワルシャワはナチによって破壊されています。
40ン年前、ブダペシュトの世界大会で一緒だったヤニナが宿泊先の建物に残る弾丸跡に眉を寄せた私に「ブダペシュトはこんな程度で済んだからまだいい。ワルシャワなんて酷いものよ」と言ったことを思い出しました。
ポーランド人はその壊された瓦礫を一つ一つ拾いあげ、旧市街を復元したのです。その忍耐強さや諦めない強情さが今のポーランドを築いたのでしょう。誇り高い国民と認識しました。


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原爆記念日によせて

2009-08-07 12:09:02 | 雑  記

もう八月に入っているという実感が無いままにカレンダーを見ればもう七日。
そうか、原爆記念日は昨日だった。。。
その日であったかどうかは判らないけれど、八月の暑い夜、玄関のコンクリートに布団を敷いて家族が横たわった時のことが思い出される。一番のお気に入りの余所行き着を着せられて。
息苦しくて喘ぐ魚のように頭を持ち上げると反対側にいる父の手が伸びて私の頭を布団の中に押し込んだ。玄関のガラス戸は開け放たれ、低空飛行するB-29から放射される鋭い光が私たちを照らす度、恐怖を感じ、でも苦しい。
ピカドンという言葉を始めて聞いたのはそれから間も無くだったと思う。ピカドンの意味も良く判らないままにそれは本能的に恐怖を意味した。

今回のポーランド旅行で、ユダヤ人墓地を訪ねたとき、子供達の墓も訪れた。この子供たちの恐怖は私が玄関の布団の中で感じた恐怖とは比べものにならないだろうけれど、そして私たちはナチスの対象にはまだなっていなかったし(ナチスがあの時点で滅びなかったら、私たち黄色人種も同じ運命にあっただろうと私は思う)、両親と一緒だったけれど、家族とは離れ離れのままで死の恐怖の中に消えた子も居ただろうことを思う。

ピカドンの意味が具体的に判ってきたのはそれからずっと後だった。その残酷さがもっとはっきりしてきたのはもっともっと後である。今なおその苦痛の中に生きている人が居ることを思う時、そして今なお地上のあちこちで殺し合いが続いていることを思う時、我が身の微力さがもどかしい。
だからと言って平和を望む心を人々が捨ててしまったら?
努力だけは続けていかなければならない、何時かその日が来ることを信じて。

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ビャウィストク世界エスペラント大会 (ワルシャワ その二)

2009-08-06 04:18:32 | エスペラント
Palaco sur akvo

旧市街の南の方にあるワジェンスキ公園にも行きました。池に浮かぶ小島の水上宮殿が美しく、これは18世紀にポーランド最後の王スタニスワフ2世アウグストが夏の宮殿として建造したものだそうです。
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此処には数羽の孔雀が放し飼いしてあり、人々の間を巡り歩いてショーを見せてくれました。
孔雀のお尻なんて見たことがなかったのですが、結構綺麗なものです。マウスオーヴァーで、表面も見られます。
ヴィデオも撮ったのですが、残念ながら拡張子が違うので此処では披露できません。
美しい尾の先は引きずって歩くので痛んでいましたが、孔雀自身は特に気になるわけでもなさそうでした。

Chopinワジェンスキ公園にはポーランドの生んだ作曲家ショパンの像もあります。
すごく広いのです。歩き回っている内に出口が判らなくなりました。地図がありましたが、ポーランドは不思議な国でこういう公園の地図に「Vi estas ĉitie / 現在位置」の印が無いのです。
これでは何の意味もありません。巧い具合に公園のお巡りさんが居ましたが、エスペラントは勿論英語もダメ。ドイツ語だったら良かったかも知れませんが、「ドイツ語なら、、」ということも言ってくれなかったところを見るとダメだったのでしょう。多少は気の毒そうにニコニコ笑って手を振っているだけでした。
すれ違った人に聞いたら「あっち」、別な人は「こっち」。結局入ったところからはちょっと離れた場所に出ました。

Kato旧市街のとある通りにこんな猫が居ました。この窓ぶちが彼(大きさから雄と憶測)の昼寝の場所であり、この窓が彼の出入り口らしい様子でした。
と言うのは別な日に路上から窓を目掛けて飛び上がろうとし、失敗していたからです。悔しそうに見上げて再度試みていましたが、何処の猫も同じなんだなぁと思いました。人間とて然りでしょう。

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ビャウィストク世界エスペラント大会 (ワルシャワ その一)

2009-08-04 05:59:55 | エスペラント
ワルシャワの人魚

ビヤウィストクに向う途上ワルシャワで三日間を過ごしました。旧市街に宿を取ったのは歩き回ることが目的だったからです。旧市街のこの広場にはワルシャワの紋章である人魚の像があります。
『伝説によると、ヴィスワ川を遡って来た人魚がワルシャワ旧市街の下方にある河岸の砂地で休息し、そこがとても気に入ったので住み着きました。ある時、地元の漁師たちは漁をしている時に、何かが篭状のワナから魚を逃がしていることに気付きました。そこでそれを捕まえて一生いたずらできないように懲らしめることにしました。しかし人魚の美しい歌声に魅了された漁師たちはそれまでの憎しみを捨て人魚を慕うようになり、人魚はその気持ちに応えて毎晩猟師たちのために歌いました。ところがある日ヴィスワ川沿いを歩いていたある金持ちの商人は、縁日の見世物にするために人魚を騙して捕まえ、木造の小屋に閉じ込めてしまいました。しかし人魚の泣き声は漁師の息子の耳に届き、彼は仲間を集めて夜中にそっと人魚を逃がしてやりました。そのお礼として人魚は、“命の恩人たちを一生守る”と約束しました。それ以来人魚は剣と盾を握り、ワルシャワとその市民を守り続けてきたということです。(ワルシャワ観光案内より)』
この広場の、人魚の後ろに見える建物の裏側の通りが私たちの三日間のアパートメント・ホテルの所在地です。
おお、歩きましたねぇ。足が痛くなりましたが、それでも。。。
無名戦士の墓無名戦士の墓には規則正しく闊歩する衛兵が居ました。そこを通り過ぎ木立の茂る公園をどんどん。
この日はその後文化宮殿に行き展望台から街を見下ろしました。ディスカウント切符が必要ですか?と聞かれ当然イエスと答えたんですが、聞く必要もないのではないかと思ってしまいました。黙ってディスカウントしてくれても問題はないのではないかと。
ミツキェヴィチ
ポーランドが誇る、政治活動家でもあるロマン派詩人
アダム・ベルナルト・ミツキェヴィチの像の周りは公園のように手入れされた芝生で、中に入れるのかと入り口を探して一回りしてしまいました。

スフィンクスというレストランで昼食を食べたのですが、その時アイスティを注文したのです。これが美味しかったですね。レモンの代わりにピーチ(桃)でした。「美味し~い」と言ったらウェーターはとても誇らしげで且つ嬉しそうでした。
皆さんも一度お試しあれ、気に入ると思います。

エスペラントの父ザメンホフ
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