★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

誕生日

2006-02-28 11:15:46 | 夫の入院
今日は夫が逝って九週間、彼の誕生日でもありました。この日は同時に息子の誕生日でもあり当時のことが色々思い出されます。
予定日を過ぎてもいっこうに生まれそうにも無い息子に私はかなりイライラしていました。それは今か今かと何日も過ごすのですから気軽に何処かへ出掛けることもままならないからです。
当時は胎児の性別など予見できませんでしたが、私は男の子と「決めて」いて、医者からは君が勝手には決められないと言われたのですが、長女の時も私の意見が当たって、私に「ホラ、私の言ったとうりでしょう」と言われていたものだから医者としては半信半疑ながら男の子に片寄っていたようでした。
一週間も予定日を過ぎると、我が夫は「この子は僕の誕生日まで待つ心算だ」と言い出し、それを聞いて私も何となくその気になり、「じゃァまだ十日も有る」と落ち着きを取り戻したのです。
予定日を17日も遅れて息子がようやくこの世に名乗り出ようと決めた日、我が医者は休暇で留守。別な医者が見てくれました。明日が誕生日と聞いたこの医者は、この子は明日まで待つ、と言い、「良い誕生日の贈り物ですね」と微笑んでいました。
息子が18日も遅れてようやく産声を上げた日、もみ上げがかなり伸びていると言うので看護婦達が「この子はもう髭剃りが必要だ」と笑っていたものです。
今後は、この子に誕生日をバトンタッチしたのだから、もう僕の誕生日は祝わないと夫は言いました。でも、この考えは無視され、息子の誕生日が来れば当然父親の誕生日でもあり、夫の両親は勿論子供達も祝うことを忘れませんでした。
子供達が巣立ち、二人だけの暮らしになってからは大袈裟にケーキを焼いたりすることも無く、ひっそりと過ごす日になりました。
でも、今年はひっそり過ぎます。
悲しみは心の奥底に澱んでいて、何時どんな切っ掛けで湧き上がってこないとも限りません。このままでは気が狂ってしまう、私の新しい人生を切り開かなければ。。という焦り。
じっと待っていても何も起らない。自分で切り開かなければ。。。
自分から行動を起こさなければ。。。
と言う考えから、とある慈善組織にヴォランティァとして申し込みました。
受け入れられるかどうかは判りませんが、まず第一歩です。

夢。。夢。。夢。。

2006-02-13 17:26:50 | 夫の入院
今朝夫の夢を見ました。
亡くなって間もなく見た夢の中では、私は彼の顔を見ることが出来ませんでした。
モールのような所の何かの待合室のような所に私は座っています。
その部屋の壁は下半分がガラスの「目隠し」になっていて、モールの通路で行ったり来たりしながらイライラ私を待っているらしい彼の様子は腰から下しか見えないのですが、その歩き方から私にはそれが彼だとはっきり判るのです。「もう、行かなきゃ。。」と私は立ち上がりかけますが、そこで眼が覚めました。

今朝の夢では、とある家の中で二人で居ました。私達の家ではないのです。夫の両親の家の様でも有るけれど少し違います。彼は私のためワイングラスにワインを注ぎかけながら何か言いました。私はフト運転して帰宅しなければならないことを思い出し、注がないで、と彼に言っています。何時も一緒で、帰宅するなら彼も一緒な筈なのに、何故私だけ帰るのか不思議にも思っていないのです。台所のテーブルに腰掛けている彼は顔立ちも何も全く別人なのに、夢の中の私は素直に我が夫として受け入れていました。
でも、そこが彼の家で、私は我が家に帰るという何か辻褄の合わない状況を不審に思い始めたところで眼が覚めました。
明日で七週間になるという今朝の夢です。
理屈では判っていながら、どうしても信じられないのですが、もはや彼は我が家には帰らないのだと言う事実を私の感情が受け入れ始めたと言うことなのでしょうか。

隣町に住む音楽家仲間の夫妻から昼食に招かれていました。
この招待を受け入れる気になったのはこの夫妻の思い遣りは私の痛みを理解してくれていると感じたからです。
猫なで声で大袈裟に慰めの言葉を繰り返されたりすると背筋が寒くなるし、そういう人達にはまだ会いたくないのですが。。。
明日はヴァレンタイン・デーと言うことで大きな花束を買う人々の後ろに並んで小型の黄色い薔薇の鉢を一つ手土産に買いました。

サラダと茹でた赤いジャガイモにローストチキン、デザートはブルーベリーをたっぷり散らしたカスタードクリームというシンプルなメニューでしたが美味しい昼食を戴いた後で、夫君が自分で編曲した「ポルカ・メドレー」をコンピューターで聞かせてくれました。まだ題が付けられていなかったのですが、楽譜に彼がタイプするのを見ていたら、我が夫に捧げてくれたものなのです。そのうちに演奏するから、と言う言葉に涙の出る思いでした。心底支えになってくれる人がいるということは何と心強いことでしょう。
また、一人になると孤独感がもの凄いインパクトを持って襲ってきます。
それでも、頑張って生きていけると言う自信が以前より強くなったような気がしています。

結婚記念日

2006-02-06 10:35:20 | 夫の入院
二月四日は私達の38回目の結婚記念日でした。三人の子供達のうちこの日を憶えているのは長女だけで毎年当の私達が忘れていても電話をくれるのですが、今年もさすが「おめでとう」とは言わないながらも電話をくれました。こんな日は特に苦痛だろうとの思いやりで、来てくれたかったようですが足が萎えて運転出来ないのです。
当時のことが色々思い出されて、この日は辛い一日でした。

翌日、日曜日にはトロントの、先日とは別な友人が来てくれることになっていました。運転しない彼女はバスで来るのですが、その彼女を拾い久しぶりに公園の「温室」を訪ね、昼食には中華のバッフェ(ヴァイキング)に行きました。外は吹雪、吹き荒れ、舞い狂う雪を見ながら、2時間あまりねばりました。そして諸々のおしゃべりをしながらたっぷり食べました。
「今夜も夕食は豆腐一丁でいいみたい」と言うくらい。
私が食事も取れないで居るのでは、と心配していたらしい彼女は私の食欲を見て安心したようでした。
死にたくなることがあるけど、生きなければならないと思うから、たまには豆腐一丁だったり、バナナ一本だったりするけど、食事の中味も気を付けているいるのです。
話題が「49日」になりました。死者が三途の川を渡らなければならないのだけれど、残されたものがその頃悲しんでいると渡れないのだそうです。
私の夫は仏教徒ではないので、「49日」は関係ないのですが、このような教えにはそれなりに意味が有るのだと思うのです。何時までも悲しんで居てはいけない、諦めて見送りなさい、と言うことでしょう。そして、その頃にはそろそろ遺された者の心に平和が戻ってきても良い頃だと言うことなのでしょう。

長女のある友人のお母さんはお父さんが亡くなった後鬱病に罹り、正常に戻るのに5年も掛かったということですが、5年と言う歳月は長いです。
自分を暗示に掛けるように励まし励ましの毎日です。
この友人もこれを見届けて安心してくれたようでした。
「日にち薬」と言うからね、と彼女が言いました。
また来るから頑張るのよ、とも。

49日、7週間目はヴァレンタインズ・デーに当たります。
また辛いだろうなァと思いつつ通らなければならない関門に差し掛かっている気がします。
励まし力になってくれる人が何人か居ることを知るだけでも大きな支えです。