★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

心無いお悔み

2006-01-29 10:23:13 | 夫の入院
17歳の息子を事故で失った友人がいます。
車をいじるのが好きでお友達の車の修理を引き受けていた時、ジャッキが外れ車の下敷きになると言う事故でした。久しぶりに日本に帰った時、彼女が語ってくれたことは何時までも忘れられません。
葬儀に出席した客の一人がお悔みを述べた後「もう一人子供が居るから良いじゃない」と付け加えたのだそうです。その時の彼女の憤りと悲しみは想像は出来ても知ることは不可能なものと思いました。
その人は恐らくそういう心算で言ったのではないのでしょう。残されたもう一人の子供があなたの慰めになるでしょう、とかそんな気持ちを言いたかったのかもしれません。でも、「心算」がどうあれ、言ってしまったこの言葉はもはや取り返しの付かない武器になってしまい我が友人を苦しめたのです。

私も経験しました。
電話が鳴り、何気なく受話器を取ると、お悔みを述べた後、今後あなたはどうやって暮らしていくのかと言うような私の懐を心配してくれた彼の古い友人。ここ十年来付き合いが途絶えていた人だけに腹が立ち、「あなたに関係無いことでしょう」と言いたいのを我慢していました。
また、ある人は、「驚いた(サープライズだった)」と言い、「あなたにはサープライズではなかったでしょう」と言ったのです。
それ以来電話を取るのは名前を確認してから、子供達からの電話意外は取らない事にしました。でも、しつこく何度も掛けてくる人が居ます。お悔みをメッセージに残す人はさすがに居ませんが、カード一枚書けば用が済み、私も感謝こそすれ胸を痛めなくて良いのです。電話ではとっさにとんでもない言葉を言ってしまう可能性が有ることを知るべきだと思いました。
強引にお花を届けられたのも辛いことでした。泣き出してしまうので今は人に会いたくないと言っているのに。。。
そのお花は一番目に付きにくい所に置き、水もやらず枯れさせてしまいました。その花を見る度、何故送られたのかを思い出すのが辛いのです。
その後またお花を届けたいと電話してきた人が居ました。お花を見ると辛いから持ってこないで、と言ったら、「(へーッ)お花を見ると辛いの?」と語尾を下げる言い方で腑に落ちない様子でした。会うのも辛いから来ないで、と言うのに「私には泣いてもいいのよ。私に泣いて頂戴」。
もう勝手に来ることに決めているのです。私は泣きたいと言っているのではないのです。
泣かずに済むことを望んでいるのです。
要点を外れている、と子供達もいいます。私の気持ちなど関係なく自己満足のため花を届けたいのです。全て善意から出た行為でも、その好意を受ける側の心境を、しかもはっきり言っているのに、省みないのは心無いとしか言えません。
この人々も私と同じ立場に置かれた時に今の私と同じことを感じるかもしれません。
何故人々は暫らくの間そうっとしておいてくれないのだろうと。

お悔みの言葉の後に付け加えることは実際には何も必要ないのですが、「私に出来ることがあったら何でも言ってください」と付け加える人もいます。これ以外のことを言いたければ数ヵ月後、悲しみも有る程度落着いたかなという頃まで待って欲しいです。
時間を掛けても立ち直りたいのです。心無いお悔みや慰めは立ち直る可能性を常に大幅に後退させます。

あれから既に一ヶ月が経ちました。諦めが悲しみを乗り越えようとしていますが、そういう心無い人々に会うのは恐く、思い切って出掛ける勇気がありません。それでも、この人たちなら会っても大丈夫かな、と思う二、三人の誘いには乗ってもいいかなという心境になり始めています。

その手始めは今日仕事でこちらへ出てくるという20年来の友人が夕食でも一緒にと誘ってくれたので行くことにしました。自分を試す気持ちもあります。



不帰の人

2006-01-15 11:14:52 | 夫の入院
朝焼けの美しかったクリスマス・デーは言い伝えの通り雨になりました。
翌朝、担当の看護婦から電話があり、直腸に出血があったとの報告でした。
電話を受けた息子の話では黒っぽい血だから「good sign」だとその人は言ったそうです。
その日の午後、お見舞いしたいけど行き方が判らないので一緒に行って欲しいと言う若い友人家族を伴って訪ねた時、彼は久しぶりに見る6歳の少年に微笑んでいました。
私にとっても久しぶりに見る笑顔でした。
ほとんど声が出なく耳を近づけても聞き取れないのですが、マリカは朗らかに振る舞い「私一人が喋っている」と言いながらも彼を励まし、テーブルに残っていた食事を食べさせようとしたりしていました。その都度彼は首を振って拒否しています。どうしても食べられないようなのです。その夕方息子が一人でクリスマスの贈り物を持って見舞いました。
クリスマス三日目(27日)、息子は風邪気味で熱っぽく、病院は風邪の人を好まないので行かない方が良いと私一人で出かけました。看護婦がちょうど部屋に居合わせて、「電話しようと思っていたところなの」と言います。「苦しむのでモルヒネを与えた所だから、それで眠っているんです、起しても良いですよ」
モルヒネ、それは私にとって死が近いことを意味しています。でも、折角眠っているのに起すことも無いと私は思いました。「明日又来ますから。。」
半分眼を開けて眠っている彼の顔を痛ましい思いで見ていました。私は子供の頃から良く眼を開けて眠っていると言われていましたが、彼がこんな顔で眠っているのを見たことがありません。
その顔に明日又来るね、と囁いて病院を出ました。重く垂れ込めた雪雲が鬱陶しい午後でした。駐車場を横切りながらフト心に浮かんだのは
    曇天の師走に夫(つま)は不帰の人
という一句でした。死んだわけでもないのにと思いながら、新年を越してくれるかしらと言う思いもありました。一日でも長く呼吸していて欲しいという残される者の勝手さです。
数日前にばったり出会ったブルーナの言ったこと、
「苦しんで生きているより死んだ方がましなんだけれど、殺すわけにも行かないしねェ」
二年ほど前夫に先立たれたブルーナの実感なのです。
その時彼女は「You must be strong, you can do it (頑張るのよ、あなたに出来るわよ)」と私の肩を叩いたのでした。
夜になって電話がありました。
酷く聞きにくいアクセントの英語で、電話セールスかと思ったのですが、その夜の担当看護婦でした。
「Very little vital sign(本当に僅かな生命の徴)」とその声が言いました。
「じゃ、すぐ行った方がいい?」「明日の朝でもいいですけど。。」「すぐ行きます」
風邪気味の息子を促して病院に駆けつけました。夜なので何時も入る裏口は閉まっています。
病院の建物をぐるりと廻って正面玄関へ。病室に駆けつけた時、電話してくれた看護婦が聴診器を当てていました。「No vital sign」と彼女が何度か繰り返しました。痩せ細った肩に手を当てると暖かいのですが、呼吸は止まっていました。
看護婦は私達二人を残して部屋を出て行きました。息子はベッドの脇に膝まづくようにしてうなだれていました。父親の為に祈っていたのでしょう。私はただ呆然と立っていました。
もう見る事の出来ないであろうやつれた、でも安らかな寝顔を見つめていました。唇の色が白く変わっていくのを見ていたのです。死は現実でした。
種々の手配を急がなければなりません。先ほどの看護婦が「宗教は何?」と訊きます。「ローマカソリック」「私もそう、彼の為に祈るわ」と彼女は私を抱きしめ一緒に泣いてくれました。
新年三日目には息子は仕事に戻らなければなりません。もし新年を越えていたら私一人でただオロオロするばかりだったでしょう。

本人の希望でお葬式は無く、お骨も、彼が選んでいた場所に散骨することになっています。
幽霊になってでもいいから帰って来て欲しい。心の準備が出来ていた筈なのに、現実に起こってみれば全く意味の無い心の準備でした。足許から地面が、波打ち際で砂が削られていくように、崩れていくような日があります。悲しみの感情はうねる波のように激しく強く押し寄せて来ることがあります。
それでも私は生きていかなければなりません。彼の残したガラクタを片付けるだけでも長い時間が必要です。子供達が交代で奮闘してくれましたが、まだまだ、もしかしたら何年も掛かるでしょう。

あの日駐車場でふと浮かんだ俳句は、
     曇天の師走や夫は不帰の人
に直しました。

そして、帰らぬ人に毎日話しかけています。