★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

新しいベッドを買う

2006-04-10 20:39:43 | 夫の入院
今日は長年の念願だったベッドを買いました。
マットレスは10年に一度は買い換えなければならないのだそうですが、私達のはもうン十年使っています。
もう長いこと新しいのをと要求する私に夫は寝心地はいいから変える気がないの一点張りでした。中のコイルが変形しているし決して寝心地が良いわけはありません。負け惜しみとも取れましたが、つい譲ってしまっていたのです。
今回、子供達が粗大ゴミの始末をしてくれるので序でに古いのを捨ててもらうことにしたわけでした。

ベッド専門店を二、三見て歩き家具屋も訪ねました。
ベッドそのものの値打ちも然ることながら、セールスマンの態度に動かされて決めたのが今回の買い物です。

押し売りがましい態度は避けたいという理由からだろうと思うのですが、あまり詳しい説明をしてくれないのが他の店でした。
こちらの質問に短く答える。つまり、誰かの言葉を借りると「あまり売りたくないような。。。」態度です。
ここのセールスマン、クリスは熱心でした。押し付けがましさは無く、店の方針や試用期間や交換など、一種の「保険」についての説明もしてくれました。
セールスマンですから売るのが商売です。売る気が無いセールスマンでは話になりません。私が選んだのはクリス自身も使って満足しているという銘柄品です。実際に使ってみて、もう少し硬いほうがいいとか柔らかい方がいいとか気が変わったら取り替えることが出来ます。21日の試用期間は新しいベッドに慣れるのに21日掛かると言う統計が出ているからなのだそうですが、他の店ではこのような話は出てきませんでした。

私自身が前もって歩き回り、これと決めていたので、今回は娘が同行、彼の説明を改めて聞いてくれて、配達の日や時間も話し合って支払いをしました。
三週間寝てみて嫌なら取り替えることが出来ると言うのは、大枚を払う立場としてはありがたいサーヴィスです。勿論その必要が無いことを願っては居ますが。
久しぶりの大きな買い物でした。でも、気分は爽やかです。

この一年

2006-04-06 09:58:46 | 夫の入院
Snowdrops

今日は私がこのブログを書き始めて一年目の記念日です。写真は最初に載せたスノードロップス、今年も咲いて萎んで行きました。
当初は撮り溜めた野の花の写真を主に書いていく心算でした。
過去は変えられないけれど未来は変えられる、と聞いたことがあります。これには「ある程度までは」という言葉の挿入が必要ですが。

昨夜いつもの時間が過ぎても息子からの電話が無く、悪い予想が脳裏に浮かび、時間の都合が付かないのだろうとは思いながら、つい彼の携帯電話にメッセージを入れてしまいました。
空を飛ぶ仕事、ニュースは見ていないけれど墜落事故など無かったかしら??という不安です。やはり、予定の変更があり、時間の都合が付かなかったのだそうです。
孤独ゆえにこのような不安に翻弄されるのだと思ってもどうしようもありません。

そして今日は夫が逝って百日目でもあります。ブログを書き始めた当初予想もしなかった未来でした。
昨日食料品を買いに出て、二、三の知人に会いました。
「Adjusted?」夫の居ない暮らしに調節できたか、ということです。
「Difficult, eh?」難しいよね、同情と共に、「次は僕かもしれないんだ、君独りではないよ」だから頑張れ!という励ましの気持ちも込められています。

まだ、完全には信じられなくて、或いは信じたくなくて、何となく帰ってくるのを待っているような自分を情けなく思う日もあります。
「そういう日の繰り返しで時間が過ぎていくのだと思う」と娘が言います。
そういう「時間」に逆らうこともないのだと。

今後の一年がどのように発展していくのでしょう。
私にとって Adjust の期間だと思うのですが、励まし支えになってくれる人々が多く居ることに感謝しながら、このブログも続けて行きたいものです。

お招き

2006-03-22 21:22:18 | 夫の入院
先日届いた友人AからのEーメールに同僚のK氏の健康状況の報せがありました。

「彼も肝硬変で「2期症状」らしいです。**さん(我が夫のこと)のは「4期症状」だと言ってました。何でも1週間に1度、点滴をして体の内部を掃除するのだそうで9月まで続けるとか。」

これを読んで私達の掛かっていた医者の無知(と言うか無頓着と言うか)に無性に腹が立ってきました。このような説明をしてくれたことも無いし、疲れるし食欲も無い、と言ってもただフンフンと聞いているだけだったのです。
血液検査の後で「あなたは地上で最も健康な人だ」とも言いました。それが冗談なのは判るのですが、食欲がどんどん減り疲れが益々激しくなってきていた頃です。
医者を換えようという私の意見を無視した夫にも落ち度があったわけですが、彼はこの医者を信じていたのです。私がもう少し強引だったら。。と思うと口惜しくて、腹の底から泣きました。
電話で子供達と話している時も私の涙は止まりませんでした。
子供達は、ダッディは本気で直そうとしていなかったのだから、どんなにマミが強引にしても結論は同じだっただろうと言います。

こんな悲しい日に先月昼食に招いてくれた夫妻から電話があり、今日のお昼にまたのお招きを受けたのです。私はあまり気が進まなかったのですが「あなたの誕生日だから。。」と言うお招きを拒否するのは友情を拒否するような気がしてお受けしました。

いい医者に巡り合うか否かで私達の命は決まってしまうのよ。とグローリアは言います。あなたのせいではないわよ、とも言いました。でも、私は最善を尽くしたと断言できません。そのことが口惜しいのです。

私を元気付けようと今日を丸々一日私の為に提供してくれたこの夫妻の存在は私にとって大きな力です。色々おしゃべりをして元気付けられて帰宅しました。
先だって編曲していた、我が夫に捧げてくれたポルカのメドレーを額に収めて、これが誕生日の贈り物です。今夜のリハーサルにその曲を使うとも言っていました。

因みに、昼食のメニューは
オードブルにスモークサーモンとクリームチーズ、クラッカー。彼自慢のワイン。
サラダ、蒸したアスパラガス、玄米とワイルドライスの混合炊き、海老をニンニクと醤油でいためたもの。
デザートには先月焼いて冷凍してあったというキャロット・ケーキにろうそくまで灯して。それにコーヒーです。
そして彼のワインを3本も戴いて帰りました。

新しいシャワーカーテン

2006-03-11 10:05:38 | 夫の入院
New Shower curtain

朝から気の沈む日でした。
ふと思い立って、気分転換にシャワーカーテンを新しいのに換えようという気になりちょうど電話してくれた娘に話すと、「良い考え、そうしたら?」と言う返事でした。
今使っているのは気に入っている物なのですがもう飽きるほど長く使っているのです。
先日店をうろついていて見つけた新しいデザインのカーテンリングが気に入っていたので、それとマッチする柄のカーテンを思いついたのです。
それを買って車のトランクに入れたまま忘れていました。

午後は24年前腎臓癌で夫君を亡くしたエヴァが電話してくれ、近くの「ティム・ホルトン」でコーヒーを飲みながら2時間近く話し込み、時間がとても早く流れていきました。
エヴァの夫君、ジュリウスは家の子供達のハンガリアン舞踊の先生で、全くのヴォランテァ活動でしたがとても熱心な人でした。彼が亡くなったあとエヴァは跡を継ぎ、自分は踊らないのですが指導者を雇ってきたり成長した教え子に指導させたり努力していました。
そういう彼女の姿を見て何時も偉いなァと感心していたのですが、親しく話し込むような機会は今まで無かったのです。
エヴァが古い写真を数枚持って来てくれました。下の娘が未だ4歳くらいの時の物で、赤に白の水玉模様のドレスで踊っています。
我が夫の下でヴァイオリンを習っていた子供達数人が同じ行事の中で演奏したことがあり、このドレスを着て舞台に立ったのですが、観客に一礼した後我が末娘はくるりと向きを変え観客にお尻を向けて演奏を始めたのです。これには私共も驚きましたが観客の中から笑いが漏れました。この日のことをエヴァもよく記憶しており、「どうして?と聞いたら、姉の指の動きを見る必要があったからだって。。」などと30年近い昔話に花を咲かせました。
彼女が私に会ってくれたのは、同じ痛みを体験した者同志分かち合えるものがあろうかと思ってのことです。この思い遣りを私は深く感謝しました。
エヴァの方がもっともっと辛い思いをしているのです。余生は一年と宣告されて、11ヵ月後にジュリウスは亡くなったのですが、時間を決められて生きると言うのも辛いものよ、と彼女は言いました。それは当人もさることながら、見守りながら手の施しようも無い妻の立場も辛いものだった筈で、それを耐えなければならなかったエヴァの痛みを思いました。
二人の夫に死別した人のことが話題になりました。
一度こんな辛い思いをしていながら、何で再婚する気になれるのかと不思議に思えるのです。
「あの人の最初の夫は自殺なのよ」とエヴァが言いました。
「??」
「彼女が二番目の夫になった人と情事を持っていたの、それで彼はピストルで頭を打ち抜いて死んだのよ」
「どうして知っているの?」
「ハンガリー系の間では誰もが知っていることよ。彼女は当然のことながら話したがらないけれど。」
そういう過去を持って生きるのも辛いものだろうなァと思います。

夕方息子からの電話で、カーテンのことを思い出しました。
プラスチック製の古いカーテンリングは老けていて、取り外そうとするとみなポキポキ折れてしまいました。
やはり交換の時期だったようです。


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2006-03-04 08:38:53 | 夫の入院
娘のお姑さんから電話がありました。
私のことを心配して掛けてくれたのですが何度かメッセージのやり取りをしてようやく昨日の朝話をしました。
彼女もちょうど一年前夫君を同じ病気で亡くしています。
モントリオール生まれのモントリオール育ち、幼いときからの友人も近くに居てこの困難な時期を共に歩いてくれたようなのです。
売りに出していた家も売れ、近くのコンド(condominium 日本で言うマンションのこと)も買ったので間もなく転居と言う彼女は
「一緒に住んでいた家は思い出が多すぎるし、この界隈も昔と違って一人暮らしは不安な環境になって来ているし。。」
と言い、
「セレナ、ページを捲らなきゃ。。。」
と言います。
私も一年後には同じことを他人に言えるかもしれません。
でも、今はまだそのページが重過ぎます。
彼女の強さを羨ましく思った日でした。

誕生日

2006-02-28 11:15:46 | 夫の入院
今日は夫が逝って九週間、彼の誕生日でもありました。この日は同時に息子の誕生日でもあり当時のことが色々思い出されます。
予定日を過ぎてもいっこうに生まれそうにも無い息子に私はかなりイライラしていました。それは今か今かと何日も過ごすのですから気軽に何処かへ出掛けることもままならないからです。
当時は胎児の性別など予見できませんでしたが、私は男の子と「決めて」いて、医者からは君が勝手には決められないと言われたのですが、長女の時も私の意見が当たって、私に「ホラ、私の言ったとうりでしょう」と言われていたものだから医者としては半信半疑ながら男の子に片寄っていたようでした。
一週間も予定日を過ぎると、我が夫は「この子は僕の誕生日まで待つ心算だ」と言い出し、それを聞いて私も何となくその気になり、「じゃァまだ十日も有る」と落ち着きを取り戻したのです。
予定日を17日も遅れて息子がようやくこの世に名乗り出ようと決めた日、我が医者は休暇で留守。別な医者が見てくれました。明日が誕生日と聞いたこの医者は、この子は明日まで待つ、と言い、「良い誕生日の贈り物ですね」と微笑んでいました。
息子が18日も遅れてようやく産声を上げた日、もみ上げがかなり伸びていると言うので看護婦達が「この子はもう髭剃りが必要だ」と笑っていたものです。
今後は、この子に誕生日をバトンタッチしたのだから、もう僕の誕生日は祝わないと夫は言いました。でも、この考えは無視され、息子の誕生日が来れば当然父親の誕生日でもあり、夫の両親は勿論子供達も祝うことを忘れませんでした。
子供達が巣立ち、二人だけの暮らしになってからは大袈裟にケーキを焼いたりすることも無く、ひっそりと過ごす日になりました。
でも、今年はひっそり過ぎます。
悲しみは心の奥底に澱んでいて、何時どんな切っ掛けで湧き上がってこないとも限りません。このままでは気が狂ってしまう、私の新しい人生を切り開かなければ。。という焦り。
じっと待っていても何も起らない。自分で切り開かなければ。。。
自分から行動を起こさなければ。。。
と言う考えから、とある慈善組織にヴォランティァとして申し込みました。
受け入れられるかどうかは判りませんが、まず第一歩です。

夢。。夢。。夢。。

2006-02-13 17:26:50 | 夫の入院
今朝夫の夢を見ました。
亡くなって間もなく見た夢の中では、私は彼の顔を見ることが出来ませんでした。
モールのような所の何かの待合室のような所に私は座っています。
その部屋の壁は下半分がガラスの「目隠し」になっていて、モールの通路で行ったり来たりしながらイライラ私を待っているらしい彼の様子は腰から下しか見えないのですが、その歩き方から私にはそれが彼だとはっきり判るのです。「もう、行かなきゃ。。」と私は立ち上がりかけますが、そこで眼が覚めました。

今朝の夢では、とある家の中で二人で居ました。私達の家ではないのです。夫の両親の家の様でも有るけれど少し違います。彼は私のためワイングラスにワインを注ぎかけながら何か言いました。私はフト運転して帰宅しなければならないことを思い出し、注がないで、と彼に言っています。何時も一緒で、帰宅するなら彼も一緒な筈なのに、何故私だけ帰るのか不思議にも思っていないのです。台所のテーブルに腰掛けている彼は顔立ちも何も全く別人なのに、夢の中の私は素直に我が夫として受け入れていました。
でも、そこが彼の家で、私は我が家に帰るという何か辻褄の合わない状況を不審に思い始めたところで眼が覚めました。
明日で七週間になるという今朝の夢です。
理屈では判っていながら、どうしても信じられないのですが、もはや彼は我が家には帰らないのだと言う事実を私の感情が受け入れ始めたと言うことなのでしょうか。

隣町に住む音楽家仲間の夫妻から昼食に招かれていました。
この招待を受け入れる気になったのはこの夫妻の思い遣りは私の痛みを理解してくれていると感じたからです。
猫なで声で大袈裟に慰めの言葉を繰り返されたりすると背筋が寒くなるし、そういう人達にはまだ会いたくないのですが。。。
明日はヴァレンタイン・デーと言うことで大きな花束を買う人々の後ろに並んで小型の黄色い薔薇の鉢を一つ手土産に買いました。

サラダと茹でた赤いジャガイモにローストチキン、デザートはブルーベリーをたっぷり散らしたカスタードクリームというシンプルなメニューでしたが美味しい昼食を戴いた後で、夫君が自分で編曲した「ポルカ・メドレー」をコンピューターで聞かせてくれました。まだ題が付けられていなかったのですが、楽譜に彼がタイプするのを見ていたら、我が夫に捧げてくれたものなのです。そのうちに演奏するから、と言う言葉に涙の出る思いでした。心底支えになってくれる人がいるということは何と心強いことでしょう。
また、一人になると孤独感がもの凄いインパクトを持って襲ってきます。
それでも、頑張って生きていけると言う自信が以前より強くなったような気がしています。

結婚記念日

2006-02-06 10:35:20 | 夫の入院
二月四日は私達の38回目の結婚記念日でした。三人の子供達のうちこの日を憶えているのは長女だけで毎年当の私達が忘れていても電話をくれるのですが、今年もさすが「おめでとう」とは言わないながらも電話をくれました。こんな日は特に苦痛だろうとの思いやりで、来てくれたかったようですが足が萎えて運転出来ないのです。
当時のことが色々思い出されて、この日は辛い一日でした。

翌日、日曜日にはトロントの、先日とは別な友人が来てくれることになっていました。運転しない彼女はバスで来るのですが、その彼女を拾い久しぶりに公園の「温室」を訪ね、昼食には中華のバッフェ(ヴァイキング)に行きました。外は吹雪、吹き荒れ、舞い狂う雪を見ながら、2時間あまりねばりました。そして諸々のおしゃべりをしながらたっぷり食べました。
「今夜も夕食は豆腐一丁でいいみたい」と言うくらい。
私が食事も取れないで居るのでは、と心配していたらしい彼女は私の食欲を見て安心したようでした。
死にたくなることがあるけど、生きなければならないと思うから、たまには豆腐一丁だったり、バナナ一本だったりするけど、食事の中味も気を付けているいるのです。
話題が「49日」になりました。死者が三途の川を渡らなければならないのだけれど、残されたものがその頃悲しんでいると渡れないのだそうです。
私の夫は仏教徒ではないので、「49日」は関係ないのですが、このような教えにはそれなりに意味が有るのだと思うのです。何時までも悲しんで居てはいけない、諦めて見送りなさい、と言うことでしょう。そして、その頃にはそろそろ遺された者の心に平和が戻ってきても良い頃だと言うことなのでしょう。

長女のある友人のお母さんはお父さんが亡くなった後鬱病に罹り、正常に戻るのに5年も掛かったということですが、5年と言う歳月は長いです。
自分を暗示に掛けるように励まし励ましの毎日です。
この友人もこれを見届けて安心してくれたようでした。
「日にち薬」と言うからね、と彼女が言いました。
また来るから頑張るのよ、とも。

49日、7週間目はヴァレンタインズ・デーに当たります。
また辛いだろうなァと思いつつ通らなければならない関門に差し掛かっている気がします。
励まし力になってくれる人が何人か居ることを知るだけでも大きな支えです。

心無いお悔み

2006-01-29 10:23:13 | 夫の入院
17歳の息子を事故で失った友人がいます。
車をいじるのが好きでお友達の車の修理を引き受けていた時、ジャッキが外れ車の下敷きになると言う事故でした。久しぶりに日本に帰った時、彼女が語ってくれたことは何時までも忘れられません。
葬儀に出席した客の一人がお悔みを述べた後「もう一人子供が居るから良いじゃない」と付け加えたのだそうです。その時の彼女の憤りと悲しみは想像は出来ても知ることは不可能なものと思いました。
その人は恐らくそういう心算で言ったのではないのでしょう。残されたもう一人の子供があなたの慰めになるでしょう、とかそんな気持ちを言いたかったのかもしれません。でも、「心算」がどうあれ、言ってしまったこの言葉はもはや取り返しの付かない武器になってしまい我が友人を苦しめたのです。

私も経験しました。
電話が鳴り、何気なく受話器を取ると、お悔みを述べた後、今後あなたはどうやって暮らしていくのかと言うような私の懐を心配してくれた彼の古い友人。ここ十年来付き合いが途絶えていた人だけに腹が立ち、「あなたに関係無いことでしょう」と言いたいのを我慢していました。
また、ある人は、「驚いた(サープライズだった)」と言い、「あなたにはサープライズではなかったでしょう」と言ったのです。
それ以来電話を取るのは名前を確認してから、子供達からの電話意外は取らない事にしました。でも、しつこく何度も掛けてくる人が居ます。お悔みをメッセージに残す人はさすがに居ませんが、カード一枚書けば用が済み、私も感謝こそすれ胸を痛めなくて良いのです。電話ではとっさにとんでもない言葉を言ってしまう可能性が有ることを知るべきだと思いました。
強引にお花を届けられたのも辛いことでした。泣き出してしまうので今は人に会いたくないと言っているのに。。。
そのお花は一番目に付きにくい所に置き、水もやらず枯れさせてしまいました。その花を見る度、何故送られたのかを思い出すのが辛いのです。
その後またお花を届けたいと電話してきた人が居ました。お花を見ると辛いから持ってこないで、と言ったら、「(へーッ)お花を見ると辛いの?」と語尾を下げる言い方で腑に落ちない様子でした。会うのも辛いから来ないで、と言うのに「私には泣いてもいいのよ。私に泣いて頂戴」。
もう勝手に来ることに決めているのです。私は泣きたいと言っているのではないのです。
泣かずに済むことを望んでいるのです。
要点を外れている、と子供達もいいます。私の気持ちなど関係なく自己満足のため花を届けたいのです。全て善意から出た行為でも、その好意を受ける側の心境を、しかもはっきり言っているのに、省みないのは心無いとしか言えません。
この人々も私と同じ立場に置かれた時に今の私と同じことを感じるかもしれません。
何故人々は暫らくの間そうっとしておいてくれないのだろうと。

お悔みの言葉の後に付け加えることは実際には何も必要ないのですが、「私に出来ることがあったら何でも言ってください」と付け加える人もいます。これ以外のことを言いたければ数ヵ月後、悲しみも有る程度落着いたかなという頃まで待って欲しいです。
時間を掛けても立ち直りたいのです。心無いお悔みや慰めは立ち直る可能性を常に大幅に後退させます。

あれから既に一ヶ月が経ちました。諦めが悲しみを乗り越えようとしていますが、そういう心無い人々に会うのは恐く、思い切って出掛ける勇気がありません。それでも、この人たちなら会っても大丈夫かな、と思う二、三人の誘いには乗ってもいいかなという心境になり始めています。

その手始めは今日仕事でこちらへ出てくるという20年来の友人が夕食でも一緒にと誘ってくれたので行くことにしました。自分を試す気持ちもあります。



不帰の人

2006-01-15 11:14:52 | 夫の入院
朝焼けの美しかったクリスマス・デーは言い伝えの通り雨になりました。
翌朝、担当の看護婦から電話があり、直腸に出血があったとの報告でした。
電話を受けた息子の話では黒っぽい血だから「good sign」だとその人は言ったそうです。
その日の午後、お見舞いしたいけど行き方が判らないので一緒に行って欲しいと言う若い友人家族を伴って訪ねた時、彼は久しぶりに見る6歳の少年に微笑んでいました。
私にとっても久しぶりに見る笑顔でした。
ほとんど声が出なく耳を近づけても聞き取れないのですが、マリカは朗らかに振る舞い「私一人が喋っている」と言いながらも彼を励まし、テーブルに残っていた食事を食べさせようとしたりしていました。その都度彼は首を振って拒否しています。どうしても食べられないようなのです。その夕方息子が一人でクリスマスの贈り物を持って見舞いました。
クリスマス三日目(27日)、息子は風邪気味で熱っぽく、病院は風邪の人を好まないので行かない方が良いと私一人で出かけました。看護婦がちょうど部屋に居合わせて、「電話しようと思っていたところなの」と言います。「苦しむのでモルヒネを与えた所だから、それで眠っているんです、起しても良いですよ」
モルヒネ、それは私にとって死が近いことを意味しています。でも、折角眠っているのに起すことも無いと私は思いました。「明日又来ますから。。」
半分眼を開けて眠っている彼の顔を痛ましい思いで見ていました。私は子供の頃から良く眼を開けて眠っていると言われていましたが、彼がこんな顔で眠っているのを見たことがありません。
その顔に明日又来るね、と囁いて病院を出ました。重く垂れ込めた雪雲が鬱陶しい午後でした。駐車場を横切りながらフト心に浮かんだのは
    曇天の師走に夫(つま)は不帰の人
という一句でした。死んだわけでもないのにと思いながら、新年を越してくれるかしらと言う思いもありました。一日でも長く呼吸していて欲しいという残される者の勝手さです。
数日前にばったり出会ったブルーナの言ったこと、
「苦しんで生きているより死んだ方がましなんだけれど、殺すわけにも行かないしねェ」
二年ほど前夫に先立たれたブルーナの実感なのです。
その時彼女は「You must be strong, you can do it (頑張るのよ、あなたに出来るわよ)」と私の肩を叩いたのでした。
夜になって電話がありました。
酷く聞きにくいアクセントの英語で、電話セールスかと思ったのですが、その夜の担当看護婦でした。
「Very little vital sign(本当に僅かな生命の徴)」とその声が言いました。
「じゃ、すぐ行った方がいい?」「明日の朝でもいいですけど。。」「すぐ行きます」
風邪気味の息子を促して病院に駆けつけました。夜なので何時も入る裏口は閉まっています。
病院の建物をぐるりと廻って正面玄関へ。病室に駆けつけた時、電話してくれた看護婦が聴診器を当てていました。「No vital sign」と彼女が何度か繰り返しました。痩せ細った肩に手を当てると暖かいのですが、呼吸は止まっていました。
看護婦は私達二人を残して部屋を出て行きました。息子はベッドの脇に膝まづくようにしてうなだれていました。父親の為に祈っていたのでしょう。私はただ呆然と立っていました。
もう見る事の出来ないであろうやつれた、でも安らかな寝顔を見つめていました。唇の色が白く変わっていくのを見ていたのです。死は現実でした。
種々の手配を急がなければなりません。先ほどの看護婦が「宗教は何?」と訊きます。「ローマカソリック」「私もそう、彼の為に祈るわ」と彼女は私を抱きしめ一緒に泣いてくれました。
新年三日目には息子は仕事に戻らなければなりません。もし新年を越えていたら私一人でただオロオロするばかりだったでしょう。

本人の希望でお葬式は無く、お骨も、彼が選んでいた場所に散骨することになっています。
幽霊になってでもいいから帰って来て欲しい。心の準備が出来ていた筈なのに、現実に起こってみれば全く意味の無い心の準備でした。足許から地面が、波打ち際で砂が削られていくように、崩れていくような日があります。悲しみの感情はうねる波のように激しく強く押し寄せて来ることがあります。
それでも私は生きていかなければなりません。彼の残したガラクタを片付けるだけでも長い時間が必要です。子供達が交代で奮闘してくれましたが、まだまだ、もしかしたら何年も掛かるでしょう。

あの日駐車場でふと浮かんだ俳句は、
     曇天の師走や夫は不帰の人
に直しました。

そして、帰らぬ人に毎日話しかけています。

幸運を数える

2005-12-24 09:02:44 | 夫の入院
Ice Bubble

英語には「Count your blessings」と言う表現があります。
エスペラントで言えば 「Nombru viajn benojn」と言うことになるでしょう。
夫が入院してから7週間が過ぎました。少し食欲が出てきたようでもまだまだ体力が無く、アゥシュヴィッツを思わせる状態で私の顔を見ても弱々しく手を振っています。私は私で血圧が上がってきているのか歩いていて眩暈を感じることもしばしば、家で寝ていて見舞いをサボる日もあります。
その日も私は一歩も外に出ませんでした。夕方長女から電話がありました。
先日から足の指が痺れたり、眼が霞んで運転も出来なかったりで検査を受けていたのです。MRIの検査の結果に満足しなかった医者は他の病院のMRI設備を使ってやり直しまでしました。
その結果報告です。「MS」と彼女は言いました。「まさか!」が私の反応です。
この子の親しい友人の一人が二年ほど前からMSを患い、三児を抱えて奮闘しています。この友人のニュースにも私の反応は同じでした。まさか、そんな大病がこんな身近なところを襲うなんて。。。
*MS:Multiple Sclerosisi は脳と脊髄の病気ですが、襲われる場所が違うと症状も違うため一人一人異なると言うものなのだそうです。
友人のシェリールも良い日は階段の上り下りを手すりに摑まるだけで出来ますが、悪い日は四つんばい。家の中を歩くのも、ウォーカーを使っているのです。我が子もやがてそのような生活をしなければならなくなるのか。これこそ、踏んだり蹴ったり。
こんな時思い出すのが上記の表現です。
もっと酷い辛酸を舐めている人も多いことを思い出し、支援してくれる組織のある国で暮らしていることをありがたく思い、兄弟や子供達の協力と友人たちの励ましに支えられていることを感謝すべきだと。


写真は葡萄の房のように見えますが、芝生の葉一本一本に凍りついた滝のしぶきです。

*MSについての日本語の情報はこれしか見当たりませんでした。


小さな力 December 06, 2005 21:15

2005-12-07 11:15:29 | 夫の入院

カルガリーの娘夫妻が3ヶ月の赤ん坊を連れて見舞いに来てくれています。
飛行機で4時間ですが、赤ちゃんにはキツイかもという私達の心配をよそにとてもいい子で他の乗客は赤ん坊が乗っていることにさえ気付いていないくらいだったとか。
初孫の顔を見たら元気が出て、病気がよくなるかもしれないからと娘はかなり強硬でした。
病気がよくなる可能性は皆無に近いのですがそれでも嬉しそうに眺め、何度も「Good Baby」を繰り返しています。
それを見て、やはり来てくれて良かったと思いました。この小さな赤ん坊の力がある程度夫に意欲を与えてくれたかもしれません。今まで殆ど食べなかった昼食のサンドイッチが半分減っているのを見たのです。
加えて、今後のことについての心配を、先日の息子と同様娘もしてくれています。
今週一杯しか滞在しないのですが、今後夫が入る可能性のある養護老人ホームを調べ歩くのも彼女のお陰で歩いています。一人だったら億劫でなかなか行動しなかっただろうと思うのですが、積極的に電話で訪問可能時間を調べ、予約を取ってくれたり。お陰で昨日今日で2箇所、明日も2箇所廻ります。こういうことはもっと早く調べておくべきだったと今思います。全くドロナワなのですが、若くて元気な時は考えないものなのですね。
後日この辺の組織のキマリなどは改めて書くつもりですが、今日は無心な赤ん坊の小さな力の威力を書きたかったのです。


写真は生意気な仕草で母の膝にうたた寝するちゃん。


アタイは猫ちゃん November 30, 2005 21:45

2005-12-01 11:45:06 | 夫の入院

生まれや素性は知る由も無いけど、「クイーン・オブ・ザ・ハウス」と呼ばれるところを見るとそれほど卑しい身分の出ではないみたい。
名前は猫ちゃん。「ツィツカ」なんだけど、これ日本語に直すとそうなるの。
この家に迷い込んで来た時、家人は可愛がっていた猫が死んだばかりで悲しんでいたから、ちゃんとした名前は貰えなかったってわけ。
上の絵はアタイの自画像。下手ァ?猫だもん上等だよね。

ある朝ドヤドヤと聞きなれない足音がして、主人が誘拐されて行ったの。
女主人が「サンキュー」と言っていたから彼女は共犯だったと思う。アタイは恐いので隠れていたから犯人の顔も見ていないし、見ていたとしてもどうしようもないよね。
その後何日か経って、今度は何となく聞き覚えのある足音と声だったのだけど信用出来ないのでまた、隠れていたワ。「ハーイ・マム」と言っていたから息子だったんだ。
それなら一緒に遊んだこともあるんだけど長い間会っていないし、不安だから隠れているのが一番いいと思って息を殺してジッとしていた。でもお腹が空くから皆が寝てしまってからこっそり食べに出て行ったりしていたの。
そのうち、女主人も突然いなくなって息子だけが残ったから変だなァと思ったし、恐かった。
時々ガッタガタと煩い音は立てるし、アタイのベットを占拠してしまい、部屋の戸も締め切って入れないようにされたし、「クイーン・オブ・ザ・ハウス」は宿無しみたいで情無いったら。ま、アタイは隠れ場所を無限に持っているから寝る場所に不自由したわけではないけどね。でも、毎日恐い思いだった。
食べ物はちゃんと貰えたし、リッター・ボックスも掃除してくれていたけど。。。
で、息子も悪い人ではないらしいと判って来たのだけど、やっぱり習慣で隠れてしまうのよね。
何日か経ったら女主人も帰ってきたので、ちょっとホッとしたわ。
今朝、ようやく息子が帰って行ったけど、この長~い長い時間は二週間って言うんだって。
また近い内に誰か来るらしい話をしていたから、寿命が縮む思いよ。「クイーン・オブ・ザ・ハウス」も楽じゃない。
女主人は時々、アタイが食べ物が気に入らない素振りをしたりすると「あんたはアレー・キャットだったのよ、つまり野良猫よ。そのことを忘れてはいけません」って言う。野良猫って何なの?

夕焼け November 26, 2005 23:56

2005-11-27 13:56:18 | 夫の入院
Sunset

一週間ほどカルガリーに行っていました。
到着した翌日の午後娘夫妻がカナナスキスへロッキーの山々を見に連れて行ってくれました。
カルガリーは暖かかったのですが、カナナスキスでは薄っすらと雪が積もり風もあって、ちょっと衿を立てる位の寒さでした。
久しぶりに見上げる雪を戴いたロッキーの山々には不思議な力を感じ、これから続くであろう困難を頑張って乗り越えて行ける気がしたくらいです。
帰り道、走っているうちに空を覆う雲が美しい夕焼けに染まり見事でした。夕焼けも久しぶりに見たような気がします。
後方を振り向くと山の稜線に沿うように掛かっている繊細な雲が見えました。
あれが、串田孫一の言っていた「風の伯爵夫人」に違いない、と思いながら撮ったのがこの写真です。
間もなく消えようという夕焼けの色はドラマチックで、灰色を帯びた雲の翳りは私の気持ちをそのままに不安を感じさせるのでした。