★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

クレーグ・キールバーガーという青年

2006-04-19 21:57:37 | カナダの偉人
昨夜のニュースでクレーグ・キールバーガーが「ワールド・チルドレンズ・プライズ」を受賞したことを知りました。12歳の時ニュースになって以来折々彼に関する報道に接してきましたが、検索すると日本にも彼の起こしたフリー・ザ・チルドレンの支部があります。そこで、日本でもこのニュースが報道されたかどうか興味がありニュースの方を検索してみましたが見当たりませんでした。
日本支部でも活動している子供達、若者達が居るということを考えた時、彼らを励ます意味でも報道して欲しかったな、と思います。
特に日本の子供達は恵まれていて「おしん」は過去のものと思っている向きが多いでしょうから、世界には奴隷のように働かされている子供達がまだまだ沢山居ることや、そのような子供達の権利を取り戻そうと助け合い精神で活動している子供達も居ることを知って欲しかったからです。
そんな訳で、私はこの23歳の青年クレーグ・キールバーガーをカナダの偉人の一人に数えます。
以下はウィキペデイアからの抜粋です。残念ながら日本語では載っていませんでした。

クレーグ・キールバーガー(1982年12月17日生まれ):カナダ人、人道主義者、こどもの権利(特に児童労働)の活動家である。12歳の時非営利組織「フリー・ザ・チルドレン」を形成したことで良く知られる。彼はトロント・スターという新聞にパキスタンのイクバル・マシフという少年が「たこ部屋」を脱走し、児童労働に反対の発言をした為に殺害されたという記事を読んで心を動かされ、この組織を始めた。クレーグはノーベル平和賞に3回推薦されており、多くの他の賞をその活動ゆえに受けている。最も最近の受賞は子供の権利に関するワールド・チルドレンズ・プライズで、現在トロント大学で「平和と闘争」を勉強中である。
彼がフリー・ザ・チルドレンを組織した当時、メンバーはみな18歳以下であった。現在でもフリー・ザ・チルドレンは若者によって動かされている組織で、世界中に広がるネットワークの子供達の数は百万人である。クレーグは兄のマークと幾つかの組織を始めたが、その一つが「リーダーズ・トゥデー」でリーダーシップの訓練と、世界の不公平に対して若者を教育しお互いに助け合うネットワーキングの組織であり、若者達にリーダーとしての能力を与え、憎みあいを止めさせる意味での進歩を目指すものである。


エスペラントの理想と通うものがあります。

平原の巨人。。。

2006-03-14 17:26:31 | カナダの偉人
今週の日曜、月曜と二日にわたって放映された「平原の巨人。。。 トミーダグラス物語」を見ました。
最初の部分を見逃したのですが、それでも彼の人生を大まかながら理解できました。撮影に当たって、3000人くらいのエキストラが必要だったそうですが、ホテルなんかには泊まらず、お互いの家に泊まったりして経費を節約、制作費もとても安く出来たとか言っていました(聞いても右から左忘れます)。
この人たちにとって「英雄」であるトミーダグラスの映画に出演することは誇りだったからです。著名な俳優たちとて同じ思いだったようで、ほんの数分しか出ない役を、見覚えの有る顔が演じていました。
主役のマイケル・テリオーは適役でした。舞台役者だけあって声が良く通るのには感心しましたが、それだけでなく、小柄できびきびしたトミーを良く演じていたと思います。

参考:
http://www.cbc.ca/television/behindthescenes.html
http://www.tommydouglas.tv/indexMain.html
http://blog.goo.ne.jp/serena_2005/d/20050720

LESTER B. PEARSON カナダの偉人-その3  August 25,2005 07:19

2005-08-25 20:19:17 | カナダの偉人
カナダの歴代の首相たちを考えた時、レスター・B・ピアソンほど短い在任期間に多くのことを成し遂げた人は少ない。
彼はカナダ・ペンション、全国的な万人医療組織、二言語主義に関する委員会、二文化主義、メープル・リーフの国旗等の設置を監督した。しかもこれら全てを大多数政府を獲得せずに実行したのである。

1897年メソジスト教会の牧師の息子としてニュートンブルック(現在はトロントの一部)に生まれた彼の子供時代は神、熱心な労働、そして運動(特に、ホッケーと大好きな野球)に満ち満ちていた。

1913年トロント大学の令名あるヴィクトリア・カレッジに入学、18歳になるや第一次世界大戦で戦うべく入隊した。戦後奨学金を得て、オックスフォード大学に入り、後、トロント大学の歴史教師の地位を得る。
彼のキャリアの歴史的転換は1928年新しく出来た外務省に入った時で、その後の20年に亘りカナダの国際的なイメージの形成に大きな役割を果たし、国連及びNATOの造成にも重要な役を受け持った。ピアソンは世界で最も良く知られるカナダ人となり、彼の指導の下、世界はカナダの発言に単に耳を傾けるだけではなく熱心に注目するようになった。

1948年自由党員としてアルゴマ東部の議席を獲得した彼は直ちに外務大臣となり、国連の議長をも務めた。

1956年十月エジプトがスエズ運河を封鎖し、世界大戦にもなりかねない状況になった。英国、フランス、イスラエルが運河をコントロールすべくエジプトを攻撃し、戦争が拡大しそうになった時ピアソンは各国を説得、中立の国連平和軍を設立し、この地域の平和維持を司ることに同意させたのである。ピアソンの平和軍はその後も世界各地で平和維持に当たっている。
この努力により、「世界を救った」として1957年ノーベル平和賞を受ける。

ピアソンは、最低賃金時給$1.25、一日8時間、一週40時間労働そして年2週間のヴァケーションを含む労働法を導入し、農民を保護するために農作物保険を設立、今までに無い改革的で進歩的な法律をカナダ人に提供したが、これらすべてを赤字も出さずに実行したのである。

彼の最も議論を呼んだ行為はカナダに新しい国旗を作ったことであろう。彼にとって国旗はカナダ人全てが、その祖先や人種には関係なく、自分の国の旗として誇るべき物で無ければならなかった。それまで使っていた英国の印の入った赤い国旗に変わり、赤と白のメープルリーフが1964年、カナダの最初の正式な国旗となった。

1967年モントリオールで開かれたエキスポ‘67の際、フランスのドゴール大統領が大衆を前にした演説の中で「ケベックの自由万歳!」を叫んだことは周知のことであるが、ドゴール大統領はモントリオールに入った時ナチから解放された直後のパリに入った時のことを思い出したと言ったのである。ピアソンは大いに憤慨した。フランスをナチから開放するために戦ったのはカナダ人なのだ。翌日ピアソンは応答の演説をした。「カナダ人は解放される必要などない」と。ドゴールは尻尾を巻いてフランスに帰った。

その年の終わりにピアソンは引退を発表して人々を驚かしたが、常に若い才能に目を向けていた彼は、自分が自由党に連れてきた、そうした才能の一人であるフレンチカナディアン、ピエール・エリオット・トゥルドーにバトンタッチした。
ピアソンが亡くなったのは癌と戦った後の1972年12月だった。

彼を称えて、1984年にはトロント国際空港がレスター・B・ピアソン国際空港と改名された。また、オタワに有る外務省の建物もレスター・B・ピアソン・ビルディングである。

FREDERICK BANTING カナダの偉人-その2

2005-07-30 03:44:09 | カナダの偉人
フレデリック・バンティング July 29 14:44
カナダの偉人二人目はインシュリンを発見したフレデリック・バンティングです。
私も詳しいことを知らなかったので、日本語に書き直しながら勉強になったし、この私欲の無い科学者たちの心意気をとても嬉しく思いました。
ツアーの中には時折糖尿病の方がいますが、トロント大学を通りながら手を合わせていた人のことを思い出します。


国内はもちろん海外にもインシュリンを発見した男として何百万人もの人々に知られ、世界中の糖尿病患者に新しい希望を与えたフレデリック・バンティングの、新しい分野を開いた1920年代初期の研究は世界中から喝采を浴び、政府からは終身年金を受け、英国王室からは騎士の称号を与えられ、カナダ最初のノーベル賞受賞をもたらした。
だが、医学界に歴史的な足跡を標す直前のバンティングは第一次世界大戦の帰還兵であり、オンタリオ州ロンドン市のウェスターン・オンタリオ大学で医学を教えながら駆け出しの医業を営み苦労するまだ若い医者であった。
1920年10月31日、医学界のジャーナルに載っていた糖尿病についての記事が28歳の彼にインスピレーションを与え、犬の膵臓からその不思議なホルモンを抽出することを思い付かせたのである。
当時の糖尿病患者は自然に体内で作られ、糖分をエネルギーに変えるホルモン、インシュリンの不足のため長生きは出来なかったし、失明や手足の切断を余儀なくされることもあったのである。研究者達は血液中の糖分の不均衡が原因とは判っていても患者達に飢餓を感ずるほどの節食や毎日の運動を薦めるくらいが関の山であった。
そういうことを念頭においてバンティングは研究室探しに数ヶ月を費やした。ようやく同情的な耳を傾けてくれるトロント大学の教授ジョーン・ジェームス・リチャード・マクロゥドに巡り合う。1921年五月マクロゥドはバンティングに22歳のチャールス・ベストを紹介した。
ベストはマクロゥドの優れた学生の一人で米国から医学の勉強に来ていたのだった。ベストの卒業試験が済むと直ぐ二人は研究に取り掛かった。
1921年の夏中、経験豊かなマクロゥドの助言を得ながら数限りない研究を続けた。その間ジェームス・バートラム・コリップというリサーチャーが人体実験にも使えるようにインシュリンのサンプルの欠点を取り除くことに助力してくれた。
1922年1月23日彼らは始めての人体実験として14歳の糖尿病重症患者レオナルド・トンプソンに投与、結果は上々で、この少年の症状は直ちに好転した。他の患者達に行った試験も結果は良く奇跡的な転換を見せた。インシュリンの投与により、糖尿病患者たちは血液内の糖分をコントロール出来るようになったのである。この発見は、糖尿病の治療ではないとは言え、何百万人の糖尿病患者に新しい健全な生活をもたらしたと喝采を浴びた。
翌年バンティングとマクロゥドは生理学或いは医学の分野でノーベル賞に推薦された。ベストとコリップが除外されたことは議論の余地がある。ベストをこの記念すべき発見の同等のパートナーとみなしていたバンティング自身も彼の除外には悩み、公に遺憾の意を表し、賞金はマクロゥドがコリップと分け合ったように、ベストと分け合った。
私心の無い四人は巨万の富を齎したであろう特許の取得はせず、権利をトロント大学に1ドルで売った。こうすることでインシュリンを必要とする誰もが末永く容易に手に入れられることを望んだのである。
その後20年に亘って、バンティングは成果を見ない研究を続けていた。とは言え、パイロットが高速の飛行に耐える為の最初のG-スーツを作ったのは彼であり、このことは1939年彼が国立研究審議会の 航空医学会会長に任命されることにつながって行った。そんな中でも絵を描く時間を見つけ、素人画家として名前を知られるほどの腕前で、当時「グループ・オブ・セヴン」の一員 A.Y. Jacksonと共に何度もスケッチ旅行に出掛けていたが、50歳になったら医学の方はリタイアして絵の方に専念したいと洩らしていたと言う。
義務の一環として、1941年2月21日、英国に向かう爆撃機に搭乗したが、離陸後間もなく、彼の乗った飛行機はニューファンドランドのマスグレーヴ・ハーバーと言う所に墜落、飛行士だけが生き残った。バンティングは49歳だった。

TOMMY DOUGLAS  カナダの偉人 - その1

2005-07-20 03:12:39 | カナダの偉人
昨年CBC(カナダ国営放送)がアンケートを集めていた「カナダの最も偉大な人物」に14万人ものカナダ人が反応を示したそうです。昨今、選ばれた偉大な人物の伝記が放映されています。トップ10は次の通り。
Greatest Canadians

1 Tommy Douglas
2 Terry Fox(4月の記事をご覧下さい)
3 Pierre Elliott Trudeau
4 Sir Frederick Banting
5 David Suzuki
6 Lester B. Pearson
7 Don Cherry
8 Sir John A. Macdonald
9 Alexander Graham Bell
10 Wayne Gretzky

日本の皆さんには馴染みの薄い名前もあるでしょうが、私自身も気に入っている人物を折に触れて紹介したいと思っています。
その第一弾はナンバー1に選ばれた「カナダの医療の父」として知られるトミー・ダグラス。
俳優のKiefer Sutherland にとっては母方の祖父に当たる人です。
Shirley Douglas参照。
 
"My friends, watch out for the little fellow with an idea." - Tommy Douglas 1961.
「友よ、アイデアを持った小さな奴に気をつけたまえ」-トミー・ダグラス 1961
(彼は小柄な人でした)

Thomas Clement Douglas:1904 - 1986


スコットランド移民の子であるトミー・ダグラスは成長期をマニトバ州ウィニペッグの、政治、哲学、宗教が食卓の話題となるような家庭で過ごした。彼の父は二つの戦争に参加した退役兵で鉄鋳造所にパートタイムの仕事を持っていたが、経済的に厳しくなると、ダグラスと二人の姉妹は家計を助けるために学校を休んで臨時の仕事に働きに出ていた。彼が十才の時4年も前に患った骨の病気のため入院しなければならなくなった頃から、ダグラス家の社会主義的な傾向が固まってきた。彼の膝は何回かの手術を ― そのどれも成功ではなかったのだけれど ― 繰り返さなければならなかった。医者に払うお金の無かったダグラスの両親は息子の脚の病気が酷くなって命取りになる前に脚を切断してしまうのが唯一の手段だと言われたのである。だが、それが実行される前に訪問中の外科医が無料で手術をしようと申し出てくれた。条件はこの外科医の学生達がその手術に立ち会うことである。この外科医は彼の脚を救い、延いては彼の命も救ったのであるが、そして「万人に医療を」というダグラスの夢のインスピレーションともなったのである。
その後間もなくダグラスは1919年の夏、「血まみれの土曜日」として知られるカナダ最初のジェネラル・ストライキの暴力的な終わりを目の当たりに見ると言う経験をした。十代のダグラスは屋根の上からストライキ参加者達に警官が銃を撃ち二人が殺されるのを見た。力ずくで終えられたストライキの血生臭い終焉は彼の労働者に対する献身の思想をより推し進めることになる。
青年時代ダグラスはさまざまな職業を試みるが、1924年バプティスト教会が経営するカレッジに入学した頃真の自分が進む道を見出し、ここで彼の「社会の福音」観念は磨かれるのである。卒業後の数年、不況時代のサスカッチワン州で牧師として働いたが、1935年コーオペラティーヴ・コモンウェールス連盟(CCF当時の政党の一つ、社会主義思想、現新民主党の前身)から国会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出す。9年後サスカッチワン州CCFの党首となり、楽々当選で北米初の社会主義政権を率いる首相となる。
半信半疑の人々を尻目にダグラスは最初の任期に100もの法案を通過させた。舗装道路、下水道設置、農民の権力等々、そして州の負債を2千万ドルも減らしたのである。続く18年余の間、共産主義を恐れるキャンペーンや全州に及ぶ医師のストライキを生き延び、当選は五期、サスカッチワン州民のために自動車保険、労働改革、そして長い間の彼の夢であった「万人に医療」を導きいれたのである。

トミー・ダグラスの残してくれた遺産 -( 社会福祉、万人への医療、老齢年金、母親手当 - 等々の実現にダグラスが貢献した)ひと時は急進的なアイデアと見なされたものが、今では当然のことと受け入れられているのである。




希望のマラソン

2005-04-14 23:38:39 | カナダの偉人
Marathon of Hope (Maratono de Espero)

25年前の四月12日ニューファンドランド州のセン・ジョーンズ市で大西洋の水に義足の右足を浸し、マラソンを開始したのは、まだ22歳のブリティッシュ・コロンビア州の青年テリー・フォックスです。
その三年前、癌のため右足を切断しなければならなかった彼は、その治療中に苦しむ子供たちをも見ました。そして癌研究のための資金を集めることを考えたのです。家族や友人たちの後押しなくしては出来ないことではありますがその考えを実行に移した彼の勇気はその純粋な情熱とともに未だに世界中の人々に受け継がれ、「Terry Fox Run/ 希望のマラソン」は各地で続けられています。
希望のマラソンはカナダを横断しながら寄付を集めるのが目的でした。カナダ人の一人ひとりが1ドルづつ寄付してくれるだけで膨大な研究費が集まるのです。しかしテリーの癌は肺に及び、目的途中でマラソンの断念を余儀なくされました。その年の九月一日、オンタリオ州のサンダーベー市郊外が彼の「希望のマラソン」最期の地となり、彼は翌年六月二十八日癌のため亡くなりました。
彼は日に42KMを四カ月以上走り続けました。その距離は5,373KMです。風や雨の冷たさ、焼き付ける暑さを耐え忍んで走った143日間、びっこを引きながら走る彼の姿は沿道で彼を励ます人々は勿論彼の様子をテレビ放送で見ている人々の心にも強く訴えるものがありました。
このマラソンをしなかったら癌から開放されていたかもしれません。でも、私は思うのです。もしここまでの命なら有効に使いたいと考えたのではなかったかと。
毎年希望のマラソンは各国各地で行われ彼の名の下に集められた研究費は三億六千万ドル以上とのことです。この四月12日、希望のマラソン25年を記念して彼が足を浸した水辺に碑が立てられました。彼を称えて記念の一ドル硬貨も発行されています。政治家でもない一般人としては初めてのことです。
ご両親は彼の夢を続けるためテリー・フォックス・ファンデーションを設立努力を続けています。

英語ですが参考までに。
http://www.terryfoxrun.org/
日本語ではカナダ大使館のページを紹介します。カナダの他の情報も見られます。
http://www.canadanet.or.jp/annv/pa_terryfox.shtml