ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町の浮石は浮石義民で知られる地 

2022年08月16日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         浮石(うきいし)は油谷湾に注ぐ粟野川上流と支流である岩滑川と宇内川流域の山間に位置
        する。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、往古、山肌崩壊の時に大きな4尺四方の大石が浮
        き流れて、八幡宮の津の道の中ほどで止まったという。その石は今も当時止まった所にあ
        るという。
         また、浮石八幡宮の伝では,窪田の竜王社傍の地水が清冷で、水中に石が常に浮いてい
        たように見えることから地名になったともいう。(歩行約5.4㎞)

        
         亀尾山神社は鎌倉期の1302(正安4)年に豊田種貞により創建され、明治末までは浮石
        八幡宮と称した。1908(明治41)年浮浪者により全焼したが、翌年に再建された。
         ここでは、1710(宝永7)年2月の真夜中、凶作にともなう過酷な年貢の取り立てに苦
        しむ浮石村の庄屋らが、床下に集まり密儀して直訴を決意し、直訴状もここで書いたとい
        う。

        
         1710(宝永7)年7月10日に庄屋以下5人が幕府の巡見使に杢路子(むくろうじ)川の豊
        田渡瀬で直訴しようとして失敗したが、翌日、内日(うつい)の亀ヶ原で決行して成功する。
        訴えは叶えられたが、当時の直訴は重罪であり、5人は同年12月22日に長府で処刑さ
        れた。1938(昭和13)年に「浮石義民碑」が境内に建立される。

        
         浮石義民の中心人物である庄屋・藤井角右衛門の旧宅跡が、亀尾山神社の東側にある。
        先祖は大内氏の家臣で、天文年間(1532-1555)に浮石村に帰農し、長男が家を継ぎ、苗字
        を許されていた。3男は出家して、下浮石に光安寺を開基する。旧宅は解体されて公園化
        されているが、蔵と井戸が残されている。 

        
         片隅に「義民 藤井角右エ門旧宅」の碑がある。

        
         参道から浮石中心部の家並み。

        
         中心部を西市方向へ進む。

        
         妙伝寺(法華宗)は、1673(延宝元)年に清末藩主毛利元知の発願で、領内の阿内(おうち)
        村(現下関市清末阿内)に福応寺として創建された。藩の祈願所として繁栄したが、明治の
        廃藩で寺門維持が困難となった。この状況を知った浮石の信徒が、移転の議を興し、18
        95(明治28)年に浮石の岡田に移転し、1922(大正11)年に再移転して現在に至ってい
        るという。
         お盆とあって白い提灯には、檀家ごとに「先祖代々之精霊」の札が取り付けてある。

        
         寺から引き返して旧道を滝部方向へ向かう。

        
         豊田西中学校は、1958(昭和33)年豊田中中学校と殿居中学校の統合により当地に開
        校したが、2012(平成24)年豊田東中学校との統合により廃校となり、校舎や体育館、
        グラウンドは当時のまま残されている。

        
         光安寺(真宗)は、天正年中(1573-1592)大内氏の家臣であった藤井信親の3男政治郎が、
        出家して寺基を開いた。 後世、血脈が絶えて一時荒廃したが、15世が美祢郡宝泉寺より
        入寺し、浄土真宗として再興する。
         1708(宝永5)年浮石村は、旱魃で収穫は半作だったが、年貢の取り立ては厳しく、死
        活の瀬戸際にあった村民が、藤井角右衛門の檀家寺である当寺で、何回か打開策の話し合
        いを開いている。

        
         豊田西中学校付近は、昔、浮石村の氏神を宇佐八幡宮より勧請した際に、社殿ができる
        までの間、しばらく仮殿を建てて安置していたので神原というようになったという。その
        ことを表わす碑が下組集会所前にあるが、どの碑なのかは判別し難い。

        
         舜青寺(しゅんせいじ・浄土宗)の開基は寛永年中(1624-1644)とされ、当時は極楽寺と称し
        ていたが、椙杜中務(長府藩家老で浮石は給領地)が祖父である瞬青寺殿の位牌を置いた時
        から瞬青寺と称したという。後年に椙杜氏が給領地を離れた時から、瞬の字の日偏をとり
        現寺号になった。

        
         境内には「浮石義民の墓」がある。
           庄 屋 藤井角右衛門
           副庄屋 奥原九左衛門
           畔 頭 東与市右衛門
           畔 頭 蕨野太郎左衛門
           畔 頭 柳元寺豊吉
         村民は身を犠牲にして村を救った義民に対し、密かに遺骸をこの地に鎮る。畔頭(くろが
          しら)
とは、長州藩の庄屋の補佐役。

        
               浮石の市庭(市場)は、昔、市が開かれていたため市恵比須の小祠が木津川(粟野川)の橋
        の袂にある。この市は藩政時代の初めに開かれたものと思われるが、豊田盆地に東市・西
        市・今市が盛んになると止めになったと思われる。

        
         国道435号線の市庭バス停近くの三叉路から、奈留へ通じる旧町道を100mほど入
        ると、左手に六地蔵と庚申塚が並んで立っている。
         六地蔵は、直方体の石に表と裏に3地蔵が刻んである。庚申塚は道標の役目も果たして
        おり、「庚申」の刻字があり、その下の右側に「此方たうら山(俵山)」、左に「おたけみ
        ち」とある。

        
         亀尾山神社から岩滑の浴に入って道なりに進むと、自然休養村「小谷管理センター」が
        あり、ここを右折すると善龍寺(真宗)がある。寺記によると創立は室町期の1504(永正
          元)
年で、以来数度か移転したと伝える。

        
         豊田町は豊田平野があるものの、周辺部はこのような浴の中に集落が形成されて農地が
        展開する。ここ岩滑集落も奥が深く、岩滑川に沿って圃場整備された農地が続く。 

        
         小谷管理センターの三叉路から左手の道を進むと、岩滑川が合わす地点に庚申塚がある。
        (駐車可)知足の六地蔵へは、庚申塚前の橋を渡り、すぐに右折して農道を進むと正面に見
        えてくる。

        
         知足の六地蔵(石幢)は、昔、農耕馬を洗い、ネムの木の根っこに馬を繋いで家に帰った。
        猿猴(河童)がこの馬を散々いじめたので、馬が暴れて川から上がり猿猴も畦まで引き上げ
        られた。
         そこへ馬主が来ると「水を離れては生きられない。二度と困らせるようなことはしない」     
        と詫びて死んだという。近くの人が死骸を埋めて、「石地蔵」を祀ったという。戦前まで
        は災害の守り神、子供の寝小便封じとして崇められたようで、六地蔵は積石塔の上から3
        番目に彫られている。 


下関市豊田町の八道は旧肥中街道と旧長府街道が交わる地

2022年08月16日 | 山口県下関市

         
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、八道(やじ)、浮石など6ヶ村をもって豊田中村
        が発足し、八道に村役場を設置する。昭和の合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町の
        大字である。
         八道は日本海に注ぐ粟野川と瀬戸内海に注ぐ木屋川の分水嶺をなし、粟野川の最上流域
        に立地する。地名の由来について地下(じげ)上申は、地内に四辻が2ヶ所あり、いずれも往
        還道で、両所の四辻で八つの道になることから起こったという。(中八道の歩行約2.3㎞)

        
         域内へはバス便があるが、JR小月駅からのバス便との接続が悪く車に頼らざるを得な
        い地域である。
         杢路子へ向かう途中にある農業公園「みのりの丘」は、宿泊施設、特産品販売、体験施
        設、昼食が可能な茶屋などがある。

        
         円正寺(日蓮宗)は、1893(明治26)年同地の信者や地区外の協力者があって、現在地
        に創建された。

        
         地蔵は総高71㎝の舟形地蔵で、1780(安永9)年4月とある。浮石原の路辺にあり、
        ここが八道村と杢路子(むくろうじ)村の境とされる。

        
         浮石原は旧豊北町肥中浦と山口を結ぶ肥中街道、俵山と長府・赤間関を結ぶ長府街道が、
        みのりの丘の茶屋の所で十文字に交差していたので、「十文字原(じゅうもじばら)」とも呼ば
        れていた。(見える道は肥中街道)

        
         みのりの丘から国道491号交差点を直進し、呉ヶ畑川手前の四叉路を右折する。橋を
        渡って道なりに進むと藤輪伊佐衛門碑があるが、獣用防護柵があって開閉するのに苦労す
        る。
         説明によると、藩政期の八道は長府藩家老・細川織部の給領地であったが、領主が農民
        を人夫にかり出し、酷使するため畦頭(くろがしら)だった伊佐衛門が使役の軽減を藩に直訴
        した。願いは聞き入れられたが直訴はご法度のため投獄された。処遇が決まらないうち、
        1847(弘化4)年牢破りをして福岡県星野村へ逃亡し、1878(明治11)年病没する。遺
        髪は呉ヶ畑の願成寺原に埋められ、顕彰碑が建立された。

        
         飛松バス停近くの国道435号線と、下八道に向かう旧町道(かっての肥中街道)分岐点
        に道標がある。

        
         道標には正面に「右たきべみち凡(およそ)四里」、左側面に「左くるそん山へ凡三里」と
        あり、右側の上部には「大正8年(1919)7月」と刻まれている。

        
         中八道集落の覚証寺(真宗)は、1567(永禄10)年頃に常阿弥が当村の民家に寄宿し、
        7日後に名号を残して立ち去った。その後、1593(文禄2)年常現という僧が来て、かの
        名号を拝み歓喜して住みついたのが創始とされる。(中八道集落センターに駐車)

        
         境内には15代住職篁(たかむら)研道氏の「研道師之碑」があるが、師は1862(文久2)
        年寺子屋を開いて子弟の教化に努めた。向かい側には氏が建立した芭蕉の句碑がある。
               「ものいえば くちびる寒し 秋の風」

        
         八鷹八幡宮は、1907(明治40)年11月に八道と鷹子の両八幡宮が合併し、現社号に
        改称して旧八道八幡宮の地に鎮座する。
         旧八道八幡宮は、鎌倉期の1202(建仁2)年宇佐八幡宮より勧請、鷹子八幡宮は南北朝
        期の1348年に創建された。

        
         参道に石段がないので車だと拝殿前まで行くことができる。鳥居は明和4(1767)丁亥正
        月と刻まれている。

        
         荒廃農地の解消等に向けた振興交付金で維持されているのか、見事まで管理された農地
        が広がる。

        
         江戸期に長府藩の年貢米を運ぶ道を御米道(ごまいみち)といっていたそうだ。浮石の奈留
        から市庭・下組・中組を通って、金道の田尻から御駕籠建場のある四辻に出て、この道か
        ら鷹子・庭田・阿座上を経由して赤間関街道北道筋につながっていた。今は使われていな
        い場所や位置が移動したり、消滅したところもあるようだ。

        
         旧肥中街道の家並み。

        
         豊田中公民館がある辺りを四辻という。昔は肥中街道と北は浮石方面、南は庭田・赤間
        関方面へ通じる道が交わっていた。

        
         公民館のある地は、削り取られて平地となっているが、江戸期には「御駕籠建場」があ
        り、藩主や巡見使等が駕籠から降りて休息する場所であった。

        
         上八道に移動すると、道路脇に明教寺(真宗)があるが、開基は武門より出家した僧と思
        われるが俗性等はわからないという。

        
         八道窯の案内があったので行ってみるが見当たらず。最奥民家でお尋ねすると既に解体
        されたとのこと。ここでは水瓶や鉢、壺などが焼かれていたそうだが、陶土を掘りつくし
        石州瓦の販売店へと変わっていったという。肥中街道でお会いしたのは鹿の親子だった。

        
         この参道の上に赤崎神社(牛馬防疫の神)だが、上がれる状況にないので残念する。


下関市豊田町の稲見・金道は山間の川筋に集落 

2022年08月16日 | 山口県下関市

                       
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制の施行により、稲見、宇内、金道、八道、浮石、鷹子の6ヶ
        村をもって豊田中村が発足するが、昭和の大合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町の
        大字である。
         稲見(いなみ)は木屋川の支流である稲見川上流域、周囲は山に囲まれた狭長な段丘状の平
        野に立地する。地名の由来について地下(じげ)上申は不詳とするが、和名抄に稲妻(いなめ)
        郷とあるので、その遺名ともいう。

        
                 江戸期に稲見で牛疫が流行して多くの牛が死んだので、豊前坊(牛馬の神)から分霊を迎
        え、山の丘を開いて社殿を造営して祀ったと伝える。

        
         大寧寺で自刃した大内義隆の主従は、その場で殉死した者もいたが、多くは稲見・一ノ
        俣・地吉等を越えている。
         中将姫の墓というのは、この地の谷間で自決した義隆の15歳の息女と乳母・操、腰元・
        小倉の墓と伝わる。場所は稲見下の旧町道に案内があり、民地横の山裾に存在する。

        
         三界萬霊塔の奥に田園が広がる。

        
         1914(大正3)年稲見野中にあった厳島神社と、稲見柴尾にあった須賀神社が合祀され
        たが、両神社の創建年代は不詳とのこと。

        
         河内神社敷地内には小祠、土地改良整備記念碑、林道改修記念碑も見られる。

        
         宇内、俵山、豊田湖への分岐点に地蔵尊。

        
         民家が点在する上稲見だが、鍋提峠を越えれば俵山温泉に至る。

        
         宇内は日本海に注ぐ粟野川の支流である宇内川上流域、東西と北を山に囲まれ、北東か
        ら長く南西に延びた平野に立地する。地名の由来について地下上申は、往古、宇奈井(宇内)
        という人が、この地に住んでいたから起こったという。また、畝の間に家があるので「畝
        内(うねあい)の村」が転訛したという説もある。
         一方、金道(きんどう)は粟野川の最上流に位置し、東西と北を山に囲まれた細長い平野に
        立地する。地名の由来について地下上申は、往古、この谷に金啓庵という庵があり、この
        庵を建立するとき地開きしたところ、細い金の塔を掘り出した。建立後に金塔庵と改め、
        「金塔」という地名も生まれたが、それがいつの頃からか「塔」を「道」に書き違えたこ
        とによるという。

        
         稲見から宇内越えの途中、宇内境に城山がある。鎌倉期に居を構えた豊田氏の支族・宇
        奈井氏が城主であったが、室町期の永禄年中(1558-1570)頃、長府串崎城主内藤隆春が城と
        して、内藤氏の支族を城主したという。この城は東側に遺構がみられることから、街道の
        監視のための城と考えられるとのこと。(峠を越えれば宇内の北東端)

        
         細長い地形の中心は田園と宇内川が流れ、民家は山裾に点在する。

        
         宇内薬師堂の本尊は薬師如来坐像で、13年毎に開帳される秘仏とされる。

        
        
         槙尾(まきおの)神社は、1907(明治40)年に宇内八幡宮と金道八幡宮(金道槙尾)を合併
        して、槙尾神社と改称して金道八幡宮の地に鎮座した。のちに宇内にあった若宮八幡宮と
        金道の秋葉社を合祀している。

        
         金道集落の道は稲見に通じている。(散策時は工事中のため通行不可)

        
         真光寺(しんこうじ・真宗)は室町期の1522(大永2)年、本願寺9世実如上人の裏書があ
        る阿弥陀仏絵像をうけて、寺を開いたのが創始とされる。