ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町の杢路子は古刹・修禅寺がある地 

2022年08月13日 | 山口県下関市

        
                     この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         杢路子(むくろうじ)は狗留孫山の麓で、三方を山に囲まれた細長い山間に立地する。中央
        を杢路子川の清流が流れる景勝地でもある。
         地名の由来は平安期の歌人和泉式部が、諸国を流浪して当地に来た時、その子、子式部        
        を捨て置き、その印としてムクロジの木枝を刺し置いたところ、やがて根を生じたのか枝
        葉を出し、花をつけたということから起ったという。 

        
         山口県西部は他地域よりも多くのシカが生息しているといわれている。このように人目
        につく機会も増え、農業被害も深刻のようだ。

        
         古刹修禅寺(しゅぜんじ)は標高616.3mの狗留孫山8合目にある。古来より山岳信仰、
        修験道の霊峰であり、奈良期の741年行基菩薩が修行したといわれる。

        
         駐車地から約750mだが、大半が階段のため長く感じる。

        
         途中に鹿威し(ししおどし)が設置してあるので、手と顔を洗わせてもらう。田畑を荒らす
        鳥獣を音で脅す仕掛けだそうで、流れる水を竹筒に導き、水が溜まるとその重みで筒が傾
        いて水が流れ出し、軽くなって跳ね返ると石を打って音が出るようになっている。
         支持台が石であれば威嚇の音になると思われるが、ここは石でなく竹を打っているので
        柔らかな音を発している。 

        
         山岳信仰、修験道の聖地に入るための無明橋。狗留孫山は明治の初めまで女人禁制で、
        女性はこの橋までしか参詣できなかった。

        
         平安期の807(大同2)年弘法大師が帰朝の翌年当山に登り、本尊である十一面観音を安
        置し
て寺基が確立したと伝える。参道は遊び場もなく上り一辺倒で、つづら折れの角には
        毘沙門堂、紫燈(さいとう)護摩道場、84番札所、地蔵堂がある。

        
         寺は一時廃退したが、鎌倉期の1191(建久2)
年栄西禅師が堂宇を建立して狗留孫山国
        護院観世音寺と命名。寺ではこの栄西を第一世としている。
         石段に変わると右手に宝篋印塔が見えてくるが、1849(嘉永2)年麓の村々の人々が、
        先祖供養と御祈願のため献納造立したものである。

        
         建武の新政の頃、当寺の住職が献上した霊水によって後醍醐天皇の病が平癒し、南北朝
        期の1337年天皇は勅願門を建立。この山門とともに本堂も再建されたという。門内に
        は金剛力士像、山門の右には経蔵(きょうぞう)がある。 

        
         御嶽(おだけ)観音として広く知られ、狗留孫山霊場八十八ヶ所総本寺。狗留孫とは梵語の
        音訳で「実に妙なる成就」の意だそうだ。
         1588(天正16)年毛利輝元より200貫の地を与えられ、寺塔を修補。さらに仁王門、
        本堂を大改修して本堂の裏に通夜堂を設け、堂内には重兵衛茶屋があって、参拝者の宿泊、
        食事の世話をした。(現在、茶屋は公園線入口にある)

        
         鎌倉期の1317(文保元)年長府(現下関市)にあった天台宗の修禅寺を再興して真言宗の
        寺とした。これは遠く狗留孫まで足を運ばなくても参拝できるようにしたが、1749(寛
            延2)
年焼失する。2年後に再建されて毛利家の祈願所として栄えた。
         1870(明治3)年、寺領などの経済的な裏付がなくなった長府祈願所は廃絶され、本山
        に合併して名称を「修禅寺」とした。 

        
         流れる汗が止まるまで本堂の片隅で一時を過ごすが、奥の院までは片道約1㎞もあり、
        残念して1本杉に立ち寄って駐車場に戻る。

               
         山門を下って本堂、通夜堂の下を通り抜けて、約30mの地点に修禅寺1本杉がある。
        この一帯は300~400年を越える老杉が林立し、県立自然公園に指定されている。

        
         狗留孫山公園線と国道491号分岐に重兵衛茶屋があるが、この辺りは毛利元就が防長
        平定時の古戦場とされる。のち、この地を開作したら多くの刀や馬具、人骨などが「カッ
        チン、カッチン」と音を立てて出てきたので、「カッチン原(勝原)」というようになった
        という。
         旧道分岐の大師堂脇に、大きな狗留孫山の案内石灯籠があるが、下関市入江町の田中久
        米吉(女優であった田中絹代の父)が、1905(明治38)年12月に建立したものである。

        
         上杢路子集落。

        
         杢路子川に沿う道は旧長府街道で、街道に突き出た重石(竜石)と呼ばれる巨岩があり、
        長府藩主や幕府の巡見使が通行する際、庄屋が警戒のため村人を立たせたという。
         ここには一里塚があり、萩唐樋札場より13里16町(約52.8㎞)、赤間関より8里
        (約31.5㎞)であった。

        
         重石より40mほど川下に、長くて角い自然石が立てられている。昔、馬主が馬の疲れ
        を取るため川に入れて一休みしていると、猿猴(えんこう、河童のこと)が現れて手綱を自分の
        体に巻き付けて川に引き込もうとしたが、馬にはかなわず、河原に引き上げられた。馬主
        は驚き猿猴を叩き殺そうとしたが助けてやると、猿猴はその恩に「手綱を縛った岩を塚と
        して祀ってもらえば、今後、咽喉の病に苦しむ人を助けます。」と言って立ち去った。馬
        主はその大石を路傍に立てて祀り、いつの時代か咽喉の病になった人たちが、猿猴塚にお
        参りするようになったとか。

               

        
 
         1875(明治8)年杢路子村奥野に開智小学が創設され、その後幾度か名称変更して、1
        935(昭和10)年殿居小学校維新分校としてこの地(小原)に移転するが、1970(昭和4
          5)
年に廃校となる。

        
         廃校後は農家の集落営農を取り組む場として活用されてきた。建物は新築なのか改築な
        のかはわからないが、表札は「杢路子清流館」とされている。

        
         グラウンドの北隅に、1895(明治28)年3月建立と刻まれた道路改修記念碑があるが、
        この地も道路改修は宿願であったようだ。

        
         分校があった付近に数軒の民家が見られる。江戸期の大半の文書には「木工路子村」と
        ある。 

        
         廃屋になって久しいのか葛で覆われている。

        
         三島神社の創建は、平安期の979(天元2)年伊豆国三島より勧請されて泉河内に鎮座す
        る。1909(明治42)年明見八幡宮と奥野の河内神社の3神社が合祀され、旧明見八幡宮
        の跡地に三島神社として鎮座する。

        
         県道豊田粟野港線を田耕(たすき)方面へ向かうと、左手に伝・和泉式部の墓を示す案内が
        ある。
         和泉式部の父・藤原資高が太宰府にいたので、山陰を通ったということで伝説が生まれ
        たともいわれている。なぜこの地に墓があるのかは伝えていないが、道は薮と化している
        ため残念する。

        
         杢路子川の豊田渡瀬橋の袂に「浮石義民直訴の地」と刻字された石碑がある。
         1710(宝永7)年7月10日、西市町本陣を発した巡見使一行が、浮石村市庭から十文
        字原を通り、この橋に差し掛かった時、庄屋藤井角右衛門が差し出そうとしたが、連日の
        疲労と暑さで卒倒し失敗した地である。
         その後、角右衛門らは西海岸の山路を終夜強行し、翌11日に内日(うつい)村亀ヶ原で直
        訴に成功し、農民は重税より救われたが、5名は同年12月22日長府松小田の刑場で処
        刑された。

        
         民家は杢路子川流域に点在する。

        
         鎌倉後期に蒙古軍が豊北町波原に上陸し、田耕(たすき)の五千原で激戦となり、田耕・川
        中曽の鬼ヶ原で、蒙古軍の大将の首を打ち落とした。ところがこの首が杢路子の槇原まで
        飛んできたという。土地の人が首を埋めて塚を立て「飛ぶの本」と言った。後に「塔の本」
        と呼ぶようになり、首塚は現在「荒神」として祀られている。 

        
        
         首塚の地には伊勢の大神宮や猿田彦大神が祀られている。


下関市豊田町の一ノ俣は温泉のある山間集落 

2022年08月13日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。

         1889(明治22)年町村制の施行により、一ノ俣、荒木、佐野、殿居、杢路子(むくろう
          じ)
の5ヶ村が合併して豊田上村が発足する。1912(明治45)年村名を殿居村に改称し、
        昭和の大合併で豊田町、現在は下関市の一部である。

         一ノ俣は粟野川の支流である一ノ俣川の上流域、一位ヶ岳の麓、三方を山に囲まれた南
        北に長い段丘の平地に位置する。既に路線バスは廃止され、下関市生活バスが運行されて
        いるが、1日3便・予約制のため利用するには難がある。

        
         一ノ俣本浴にある日幡(ひのはた)神社は、1909(明治42)年この地にあった朝日神社と
        佐野所在の佐野八幡宮が合併して現社号となる。
         朝日神社の創建年代は不詳とされるが、一位ヶ岳の山岳宗教から生まれ、山岳に祈願す
        る礼拝所として始まったと考えられているとのこと。
         南北朝期の1331年後醍醐天皇が隠岐国へ遷幸される時、その皇子が山陰から逃れ、
        この権現に参籠されて「朝日大権現」と名付けられたと神額の裏面に記されているという。

        
         日幡神社の石段を上ると右手にナギの木がある。ナギは熊野権現の神木で、玉串にはナ
        ギを使い、供物はナギの葉の上に載せるという。分霊を勧請した後に神木として植えられ
        たと考えられるとのこと。

        
         台方付近から見る一ノ俣。民家は点在し耕作放棄地が広がる。

        
         一ノ俣生活バス停前にある鉄筋コンクリート造平屋の建物は、かっての殿居小学校一ノ
        俣分校であったが、1970(昭和45)年3月児童数の減少により廃校とる。
         その後、一ノ俣観光ホテル系列の温泉保養所となったが、現在はこのような姿となって
        いる。

        
         三叉路の一角に「寄合処 湯游」があるが、建物は農協の建物風である。

        
         専学寺(真宗)は大内義隆の家臣であった宗岡佐渡守は、大内義隆が長門の大寧寺に逃れ
        る時に7騎に加わり死する。その子宗岡佐内嘉覚は浪人となって一ノ俣に居住、その子・
        嘉之(喜内?)が本願寺で僧身となって下向し、慶長年中(1596-1615)に一ノ俣の誓観寺とい
        う古跡に堂宇を建立して現在に至るという。

        
         湯の華観音入口(観音堂まで約100m)

        
         一ノ俣集落はこの付近に集中する。

        
         湯の華観音は南北朝期以前に建立されたと伝えられ、観音寺(真言宗)ゆかりの地に現存
        し、入口側に西堂が並列する。

        
         中央は「日露戦役記念の碑」で、従軍者15名、明治41年(1908)12月建立とあり。
        左は高さ2mの「道路記念の碑」には、高額寄付者名と昭和8年(1933)建立と刻む。右は
        「圃場整備記念一ノ俣換地区 平成12年(2000)」の碑が並ぶ。

        
         泉源からのパイプと思われるが、パイプには大衆浴場、もとゆ旅館、保養所などと記さ
        れている。

        
         1966(昭和41)年に観光ホテルが竣工し、同年には一ノ俣集落直営の大衆浴場、19
        70(昭和45)年には保養所が開業し、ホテルや旅館も数軒開業したが、施設の老朽化やコ
        ロナ禍の中で廃業された施設もあるようだ。(建物は廃業された大衆浴場) 

                
         荒木は粟野川上流域右岸の平地と、同川の支流である一ノ俣川下流の右岸にかけて北東
        から南西に長く延びた平地に立地する。
         佐野は粟野川の支流である佐野川流域に立地する。「さ」とは「狭い、小さい、細い」
        という意味があり、狭い野が佐野になったという。

        
         国道491号沿いの上荒木バス停付近に民家が並ぶ。

        
         荒木湯の尻に冷泉が湧き、昔から湯場ともいい、大衆浴場や旅館が建ち、荒木温泉と呼
        ばれていた。一ノ俣入口には荒木観光ホテルがあったようだが、更地化されてしまったよ
        うだ。

        
         現在の荒木自動車工場付近に荒木芝居小屋があったという。起こりは定かでないが戦中
        戦後頃に開催され、当時は珍しい娯楽施設であったという。

        
         粟野川と一ノ俣川が合流する一帯を「木津」という。この「津」は港のことで、荒木の
        木津は、木材を集めるところであった。1871(明治4)年に通船工事が行われたが、18
        86(明治19)年西市~滝部間の道路が改修され、舟運は不要となり廃止されたという。

        
         国道491号から佐野地区に入ると、入口に三界萬霊塔が立つ。

        
         中佐野にあった佐野八幡宮は、室町期の1496(明応5)年に阿座上村の西八幡宮より神
        霊を受けたと伝わる。1909(明治42)年一ノ俣の朝日神社(現日幡神社)に合祀された。

        
         八幡宮旧蹟付近から見る中佐野集落。

        
         山間集落にとって道路の改良は悲願だったと思われる。1974(昭和49)年9月に佐野
        線が改良され、逐次、森ヶ浴線と荒越路線も改良された。1979(昭和54)年に佐野公会
        堂の敷地内に記念碑が建立された。

        
         公会堂から東方向に椎の大木が見える。

        
         巨木の樹齢等はわからないが、数百年は経っているものと思われる。

        
         現在の佐野には「お寺」という建物はないが、1959(昭和34)年まで「塔の丘」と呼
        ばれるこの地に、古洞庵という堂宇があり、仏像も安置されて地区全体の信仰の場でもあ
        った。堂は解体されて内陣全体は公会堂に安置されているという。

        
         堂宇のあった地は空地で、集落内にあった黄幡社、河内社、水神様を合祀した祠がある。

        
        
         上佐野集落は民家が点在する。

        
         大きな庚申塔を見て引き返すが、塔に掛けるものには「ハチマキ」と「サル」の2種類
        がある。ハチマキは塔の頭部をぐるりと巻き、御幣を3本垂らす。注連縄の形をハチマキ
        に見立てたものである。
         サルは「牛の犁(すき)」の先につけるもので、農家にとって牛を使って田をおこすために
        は必要なものであった。この「サル」が塔の前面にぶらさげるようにつけられている。