ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町手洗・中村は豊田平野の中央に位置する農村集落

2022年08月19日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、中村、手洗村、阿座上村、東長野村など11ヶ
        村が合併して豊田下村が発足する。昭和の大合併で豊田町(ちょう)となり、現在は下関市豊
        田町(まち)で旧村は大字とされている。
         手洗(たらい)は木屋川の右岸地域に立地し、豊田盆地の南端をなす。地名の由来は、往古、
        岡田某が井戸を掘り、手を洗ったところ井戸から牛鬼が現われて岡田某を井戸に引き込ん
        だことから、手洗と称するようになった。以後、当地では井戸を掘ることができなくなっ
        たというが、他説もあるという。(歩行約2㎞)

        
         手洗と西長野の境がわからなかったが、三界萬霊塔があるので境と思われる。手洗は豊
        田下村の中心地で、かっては村役場(町営住宅付近)が置かれた地である。右の碑は「田中
        上等兵‥」と読めたが、後は読み取ることができず。

        
         赤間関街道北道筋で一里塚があったとされるが、遺構等は残されていない。(名郷商店付
        近)

        
         三差路の角に永浜商店だった主屋が残るが、多くの民家は更新されている。

        
        
         薬善寺(日蓮宗)は歴史的には深くないが、当地域に日蓮宗の信者が多く、江良の民家裏
        には往古に日蓮宗の寺があったという。こうした関係から信者が創建した寺である。

        
         県道下関長門線に合流する。 

        
         川の瀬音が橋の名前になったというが、江戸期には広い板橋で、米俵を馬の背で運搬し
        ていたが、1854(安政元)年木屋川通船工事が完成すると、東長野沿いの船津から米俵を
        運ぶようになる。
         明治に道路が改良されると再び陸路輸送となり、橋は土橋へ架け替えられる。大正、昭
        和期にも架け替えが行われ、現在の橋は、1992(平成4)年木屋川河川改修による川幅拡
        張により架け替えられた。

        
         東長野の旧若宮八幡宮の階段から手洗の家並みが見えそうなので上がってみることにす
        る。

        
         西長野と手洗の家並みと背後に華山。

        
         若宮八幡宮の創建年代は不詳とのことだが、1770(明和7)年東八幡宮火災後、長府領
        の若宮八幡宮として近辺集落の氏神となる。
         1911(明治44)年神社統合により豊田神社に合祀されたが、豊田神社の御旅所、戦没
        者顕彰碑などがある。

        
         石町公会堂から豊田下小学校に移動すると、宝珠のような形をしたハスの花が見られる。

        
         清徳寺(真宗)の開基は、毛利家の家臣であった粟屋義久が、この地にあった大雲寺とい
        う真言宗の古跡近くの民家に滞留していた。ある時に霊夢を請けて西本願寺で出家し、再
        びこの地に帰り、室町期の1523(大永3)年手洗に一宇を建立する。のち、洪水の難を避
        けるため大雲寺跡に移転して今日に至るという。

        
         旧長門鉄道筋に願成寺(浄土宗)があるが、往古は神上寺の末庵で下八道の願成寺原にあ
        った。1627(寛永4)年現在地に移して菊川町吉賀の快友寺末寺として再建される。19
        68(昭和43)年石町の栄願寺を合併して今日に至る。

        
         長門鉄道は山陰と山陽を結ぶ連絡鉄道として、また、森林資源開発を目的に、1918
        (大正7)年10月に開業する。ここ阿座上停留所は乗客運送のみであった。
         鉄道経営は芳しくなく、多角化を目指してバス事業を兼営すると鉄道の乗客を吸収し、
        貨物部門はトラック業界にとって代わられ、1956(昭和31)年3月に営業廃止される。 

        
         阿座上停留所があった付近の集落。

        
         中村の東部、県道下関長門線脇に「大化の改新の条里遺構」と記された碑がある。その
        以東一帯に条里区画遺構が見られるとのこと。

        
         中村西公会堂の地に若宮八幡宮があったという。鎌倉期の1187(文治3)年に本郷の総
        氏神として東八幡宮が創建されると、その前方にあった若宮八幡宮はその摂社となる。中
        村住民の要望により、1698(元禄11)年この地に遷座させて中村の氏神としたが、明治
        の神社整理により江良の菅原神社に移されて豊田神社となった。

        
         1849(嘉永3)年は2度にわたり、大雨・大風雨があり、中村はその被害が大きかった
        ため、豪農松井官蔵は庄屋と共に救済策をたてて藩に願い出た。藩庁から10年以上にわ
        たり、50石の減租を得た。中村西公会堂の旧県道傍に、1885(明治18)年その功績を
        称え「松井官蔵記念碑」が建立される。

        
         大福寺(真宗)は天正年中(1573-1592)、大内義隆の家臣稗田主計頭(かずえのかみ)政重が出
        家して、東市に大福寺を開山する。明暦年中(1655-1657)に本堂を焼失するが、その後、再
        建されて今日に至る。稗田雪崖は中村に私塾「豊華義塾」を開き、自ら塾長兼教授となっ
        て子弟を教導したとされる。

        
         月招橋(げっしょうばし)は藩政期には板橋で、馬の背に米俵を積んで運搬したが、冬期は雪
        などで滑るため、板を増やしてその両側に竹縁を設けたという。

        
         この地は殿敷と思っていたので、石造宝塔を探し当てるのに苦労する。宝塔は田圃の中
        にあってホタルの里ミュージアムの東側に位置し、畦道のため車では行くことができない。
        (背後の山は華山)

               
         この地には若宮八幡宮があり、神苑の南側だった地に鎌倉末期頃の塔が現存する。

        
         木屋川の左岸、広瀬橋上流に「西ノ市旧跡」の碑がある。説明によると、室町前期頃に
        西ノ市が始まった所で、この周辺は雨期には度々河川が氾濫し、遂に全戸が意を決し、1
        626(寛永3)年の春、西市という地名と市恵比須とともに右岸の今市に移転し、以来この
        地を「古市」と呼ぶようになったという。


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