ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

平生町の佐合島は自由律俳人・久保白船のふるさと

2021年11月01日 | 山口県上関・平生・田布施町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         佐合島(さごうじま)は平生湾の南方に位置する小島で、地下(じげ)上申や風土注進案には
        佐郷島とあ
り、また、佐河島とも記している。沈水島であるため平地は少なく、比較的緩
        斜面をなす東側に集落が立地する。(歩行約2.7km)

        
         佐賀漁港前の渡
船場には待合室やトイレが完備されている。

        
         田布施町の馬島と平生町の佐合島を結ぶ「ましま丸」。小型船だが内海なのでデッキで
        約8分の船旅を楽しむことができる。

        
         桟橋の正面に佐合島が横たわる。

        
         渡船から覚勝寺と久保白船生家跡。

        
         脇の浜から龍宮の鼻。

        
         並ぶ家々は空家が多い。

            
         脇の浜に係留されているのは尿貯留運搬船。

              
         龍宮の鼻に龍宮様(海の神)が祀られているが、木が階段を塞いで上がることができない。

        
         佐合小学校は1871(明治4)年に創立されたが、1861(昭和36)年統合により廃校と
        なる。

        
         明治期には1,000人近い人々が暮らし、漁・農業が盛んだったようで山裾には農業用
        溜池が残されている。

        
        
        
         2021年4月現在、人口は9世帯13人で人口減少と高齢化が進んでいる。このまま
        だといつかは無人島に帰することになってしまうかもしれない。

        
         佐合島八幡宮は宇佐神宮より勧請され、島の守り神として大切にされてきたようで、苔
        生してはいるが荒廃はしていない。
現在は上関八幡宮の管轄となっている。

        
         さらに路地を歩くと覚勝寺が見えてくるが、この付近も空家が目立つ。

        
         覚勝寺(真宗)はもともと麻郷村(現田布施町)にあったが、1872(明治5)年の廃仏毀釈
        の時に佐合島へ移ってきた。

        
         自由律俳人・久保白船(本名、周一)は、1884(明治17)年佐合島に生まれ、山口中学
        を卒業すると家業の醤油醸造業を継ぐ。
         1911(明治44)年荻原井泉水の自由律俳句誌「層雲」の同人となり、親友の種田山頭
        火や田布施の江良碧松とともに活躍する。
         1920(大正9)年子供の教育のため妻の実家がある徳山に移住すると、多くの文人が集
        まり地方文化の中心的存在となった。1940(昭和15)年種田山頂が急死すると、四国に
        渡り荼毘に付したが、翌年白船も57歳の生涯を閉じる。

        
         入口に火除け地蔵と白船の代表作
           ・踞(うずくま)ればふきのたう
           ・青波わたる、それがとんぼう
           ・海の青さ山の青さに雲重なれり 

        
         北屋敷付近の民家も空家があるようだが、実家に手を入れるため通って来られる人もい
        るようで、空家とは感じさせない家も散見できる。

        
         海にすべるような形の旧渡船場。

        
               島内にはツワブキ、アシタバなどが自生しているが、ツワブキは最盛期であったが、小
        さな黄白色の花が咲くアシタバの花期は終わっていた。

        
         明神の岬先に遊歩道北口があり、南口まで約3.1kmなので1時間あれば周回できると
        踏み入れる。

        
         遊歩道に入ると廃車1台が放置され、さらに進むと歩けなくはないが、蜘蛛の巣とズボ
        ンに取り付く草の実に悩まされ退却する。

        
         遊歩道入口から北へ向かうと、六地蔵と多くの墓石が並ぶ。

        
         対岸に佐賀集落と大星山。

        
         墓地から海岸線をてくてく歩き。

        
         トイレ付待合所あるが店も自販機もない。

        
         14時発の佐賀漁港行きに乗船して戻るが、桟橋近くで出会った方が「住めば都さ」と
        おっしゃった言葉が印象に残る。         


平生町佐賀は古代遺跡と海に沿って集落

2021年11月01日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         佐賀(さが)は大星山南西麓に位置し、南西は平生湾に面する。平野部が狭く海岸線に沿っ
        て集落がある。(歩行約2.4km)

        
         JR柳井駅から防長バス上関行き35分、佐賀バス停で下車する。

        
         平生町役場佐賀出張所に立ち寄ると、入口に「岩田遺跡」の碑がある。縄文中期から弥
        生前期の遺跡があった地で、狩猟生活から農耕生活に移る時代の生活文化を知る貴重な遺
        跡だそうだ。(碑と説明板のみ) 

        
         佐賀中学校は1947(昭和22)年佐賀小学校の一部を仮校舎として開設されたが、ルー
        ス台風で校舎が倒壊したため、1952(昭和27)年この地に新校舎が竣工する。その工事
        の過程で岩田遺跡が発見される。

        
         はくとり稲荷神社前から見る佐賀の町並み。

        
         はくとり稲荷神社は開運の神様として有名だそうだが、時間の関係で境内には入らず。

        
         県道光上関線の先に心光寺と鳥居が見えてくる。

        
         心光寺(浄土宗)の地は、もと天台宗または真言宗の寺跡で、境内に五輪塔の一部が現存
        する。1642(寛永19)年この地に一宇を創建して心光寺と称した。

        
         3匹のカブトガニと「さが」・「おすい」のあるマンホール蓋。

        
         白鳥神社がある場所は、5世紀中頃につくられたといわれる前方後円墳で、規模は山口
        県内最大のものとされ、後円部の上に社殿が建立されている。

        
        
         参道傍に「佐賀小学校跡地」の碑がある。背後の建物について地元の方に聞いてみたが、
        小学校で使っていたものではないかとのことだった。

        
         海に向かって長い参道。(二の鳥居) 

        
         二の鳥居前から旧道を南東へ向かう。

        
         歩かれている方に佐賀村役場跡を聞き取りする。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、尾国村・佐合島・小郡(おぐに)村・佐賀村の区域
        をもって「佐賀村」が発足し、佐賀に村役場が置かれた。
         1955(昭和30)年昭和の大合併により平生町になるまで村の中心であったが、現在は
        公園となっている。 

        
         民家などは更新されて見るべきものはない。

        
         荒木川の東側も民家は更新されているようで、川に沿って海側に出る。 

        
         正面に佐合島。

        
         長閑な地はネコが大手を振って横断する。

        
         佐賀漁港は第2種漁港で、船びき網、さし網業が主な漁法とされる。右手の建物が漁協
        の水産物荷捌所で、その傍に佐合島への渡船場がある。


平生町の小郡(おぐに)に対し南に尾国(おくに)

2021年11月01日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         尾国(おくに)は熊毛半島の中西部に位置し、西は佐合湾に面する。
         地名の由来は、古く北の小郡(おぐに)と一村で大国または小国といっていたが、南北に
        分れたため、北の小郡に対し南は尾国と改めたという。(歩行2.3km、🚻なし)

        
         佐賀バス停(14:25)より約7分、尾国バス停で下車。

        
         奈良期の736(天平8)年遣新羅使・阿部継麻呂の一行が、当時、可良の浦といった尾国
        湾に船泊りしたことが、万葉集巻の第15に4首の作歌と共に記録されているとのこと。
         碑には「沖邊より 潮満ち来らし 可良の浦に 漁りする鶴 鳴きて騒きぬ」とあるが、
        口訳だと、「沖の方から潮が満ちて来るらしい。可良の浦で餌を求めている鶴が鳴いて騒
        いでいる」と説明されている
。 

        
         広場は御旅所のようだ。

        
         さらに半島の先へ向かう。

        
         三叉路から旧道に入る。

        
         静かな通りは雨戸が閉められた民家もある。

        
         法隆寺(真宗)は小早川隆景の家臣・林宗右衛門正興が主家没落後、1662(寛文2)年出
        家得度して現在の地に一宇を建てたのが始まりとされる。

        
        
         尾国集落は旧道に沿って家並みを形成する。

        
         加茂神社は京都加茂神社より勧請したとされるが、その年月は不明とのこと。現存する
        最も古い棟札は、室町期の1505(永正2)年のものがあるという。

        
        
         旧道に戻って北進するが見るべきものはない。

        
         柳井地域の地図が描かれた広域水道の送水管空気弁蓋。国の小瀬川総合開発事業による
        弥栄ダムを水源として遠距離導入し、棚井市に浄水場を設けて上関ルート、大島ルート、
        由宇ルートの3系統に送水するために企業団が設立され、2001(平成13)年全量供給が
        開始された。

        
         旧道の北側入口。 

        
         1874(明治7)年12月尾国小学校が創立されたが、1967(昭和42)年佐賀小学校に
        統合されて廃校となる。
         尾国バス停(16:13)より柳井駅に戻る。