ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の和佐は星のビーチとみかん畑

2021年02月05日 | 山口県周防大島町

       
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        和佐(わさ)は屋代島の南海岸(外海)東部の入海に面し、砂州上に立地する。沖合に笹島が
       浮かぶ。 
        地名の由来は、当地が南向きの暖かい所なので、夏秋作とも田畑に早生物を植え付けた
       ため、古くから早生(わせ)村といったが、いつの頃からか和佐と呼ぶようになったという。
       (歩行約3.1㎞)

       
        駐車地は集落西端に星のビーチ駐車場がある。小さなビーチは三日月状になって、その
       突端に2つの星形のモニュメントがある。

       
       
        海岸通りの道は埋め立てによってできたもので、それ以前は、この道がメインストリー
       トであったと思われる。

       
        和佐には大きな川はなく、山に降った雨水をスムーズに海へ流し出す水路が設けてある。

       
        通りの海側は短冊状に地割りされている。

       
       
        新しい家の屋根には漆喰補強が見られない。

       
        地内で唯一の商店。

       
        神浦(こうのうら)からの道を横断して次の通りに入る。

       
        なまこ壁の民家は目立つ。

       
       
        建替えか改築された家が多い。

       
        東端に和佐東バス停。

       
       
        高波に対して海岸線に石垣を築くという防御の工夫がなされたが、強固な石垣でも高波
       のために流されることは珍しくなく、石垣だけでなく住宅まで流されてしまうことがあっ
       たようだ。

       
        石垣の内側にすぐ主屋を建てるのではなく、作業場兼納屋を建て、その後ろに建てる形
       式がとられている。

       
        住宅から海に出入りできるように開放部分があるが、高波時には仕切り板で閉じるよう
       な仕組みになっている。

       
        新しくできた堤防
と,その沖に並行して波消しブロック

       
        遠くに見える山々は四国・愛媛だろうか?

       
        中世以前の和佐はどうであったかの文献資料はないとされるが、建武2年(1335)の銘が
       ある宝篋印塔が残っていることから豪族がいたものと思われる。
        慶長年間(1596-1615)平岡氏が給領主として支配し、幕末まで支配下にあったとされる。
       (神浦への道を上がって行く)

       
        平岡氏の陪臣であった家は、和佐には一軒も残っていないそうで、その中で最初に退転
       したのが猪口氏で、百姓もしていたが生活に耐えかねて、武士の株を屋代の者に売って萩
       に出た。
        一人娘がいて家中奉公として住み込みをしていたが、萩の和田家の後妻として嫁いで、
       その長男が木戸孝允という。

       
        県道東和橘線に合わすと和佐公民館前にバス停。JR大畠駅から周防油宇行きバスは3
       便のみである。(復路も同便数)

       
        右手の小高い丘に木造校舎が見えるのが開導小学校の建物。記念碑の最上段に作詞家・
       星野哲郎氏の名が刻まれているが、彼の故郷であり母校であるとのこと。

       
        石段を上がると門柱に表札が残されている。1873(明治6)年開校、建物は1957
       (昭和32)年築のもので、2000(平成12)年3月閉校する。

       
        内部は閉校当時のままの姿をとどめている。

       
        敷地内は猪の運動場となっているが、地元の方が草刈りするなど管理されているようだ。

       
        学校と神社は隣合わせである。

       
        和佐八幡宮の創建年月は不明だが、1603(慶長8)年に再建されたという。神事は旧和
       田村にある筏八幡宮の神官が勤めている。

       
        宝篋印塔への案内に従って山手へ向かう。

       
        和佐共同墓地に建武2年(1335)建立の宝篋印塔がある。基礎部分の左右に「建武二年」
       「六月十八日」と銘があり、塔身の4面は四方仏を彫り、成仏祈願の光明真言が彫られて
       いる。

       
        さらに舗装路を上がって行くと周防大島八十八ヶ所第76番札所がある。ここにはかっ
       て心月院という曹洞宗の寺があり、1648(慶安元)年給領主である平岡氏の菩提寺となる。
       明治の廃仏毀釈を受けて、1870(明治3)年森集落の法明院と合併して廃寺となり、和佐
       には観音堂として存続した。

       
        参道石段から見る和佐集落。正面に笹島が浮かぶ。

       
        六地蔵さんに挨拶を済ませて駐車地へ戻る。


周防大島の小泊は海運業で栄えた地

2021年02月05日 | 山口県周防大島町

       
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        小泊(こどまり)は屋代島の東部南海岸(外浦)に位置し、笹島と大鼻の間に湾入した入海の
       海岸砂州に立地する。
        地名の由来は、上関より松山領津和までの灘中・第1の繋船場で、古くから諸廻船の船
       繋ぎの港であったので、小泊と名付けたという。(歩行約1.9㎞)

       
        小泊バス停傍の駐車地を利用する。

       
        海を埋め立てて屋敷地を確保することが行われた。

       
        この奥に集落の中央を走る古い道があり、この道を境に海側は短冊形に地割りされてい
       る。

       
        石垣を組んで高波対策が行われた名残のようだ。

       
        島内の他集落と同様に、堤防の先に波消しブロックが用意されている。正面の大
       きな島は禿島、その間に小島が浮かぶ。

       
        正覚寺(浄土真宗)は、1632(寛永9)年渡辺源五左衛門というものが出家して神浦に創
       建したが、1684(貞亨元)年寺地を現在地に移転する。

       
       
        小泊神社の鳥居両脇に木の桶を模した高さ約30㎝の水槽が奉納されている。清めの水
       を入れて榊で心身を清めるものに使われたのかなど用途は不明であるが、1907(明治4
         0)
年前後に奉納されている。

       
       
        小泊神社は菅原道真が九州に西下の折、小泊の湊へ船を繋ぎ、上陸された場所へ社を建
       てたと伝える。1873(明治6)年に天満宮から現社号に改称された。

       
       
        泊浜、天神浜、西浜地区は移住者が集まった新開地とされ、造船関係者、旅館、魚屋な
       どの業種が多く、港町のとしての賑わいをみせるようになる。
 
        さらに昭和初期に泊浜が埋め立てられると旅館、遊郭が進出し、トタンカフェと呼ばれ
       た急造のカフェ、玉突場、飲食店など船員相手の遊興施設が立ち並んだとされる。

       
        江戸期は小泊も風待ち、潮待ちの港として栄え、明治以降は九州若松港から石炭を運ぶ
       海運業に携わる者が多く隆盛をきわめた。 
        しかし、第二次大戦中に船は老朽化し追い打ちをかけるように、1948(昭和23)年と
       翌年の大型台風で、沈んだり流されてしまうなどして海運業は衰退する。

       
        集落はずらりと並ぶ波消しブロックで守られている。

           
            
       
        寺横から集落の東西を走る道に入ると、正面に正覚寺の潜り門がある。

       
       
        生活を支えた通りにも空家が目立つ。

       
        住居があったことを示す井戸が各空地に残っている。

       
        和田小学校小泊分校の校舎が残されているので寄り道をする。その入口に第76番奥の
       院小泊大師堂。

       
        道なりに進むと正面に赤い屋根が見えてくる。その手前左手は小泊公民館。

       
        和田小学校小泊分校と和田中学校があった地で、現在は木造校舎を「瀬戸内民俗館とう
       わ」として活用されているが、看板はあるものの施錠されて、見学できるか否かの案内も
       ない。

       
        1873(明治6)年開校の小泊小学校は、和田小学校分教場、小泊国民学校などを経て、
       和田小学校小泊分校として存立していたが、1861(昭和36)年に閉校する。和田中学校
       もあったようだが、1971(昭和46)年に東和中学校へ統合される。 

       
        味噌樽も置かれているが放置状態である。

       
       
        みかん畑に上がってみるが、樹木の生長で展望は芳しくなかった。

       
        東側のメインストリートはわずかな距離で海岸線に合わす。

       
        東端に和泉造船所があったとされ、建物が残されているが、造船所経営の傍ら廻船業も
       手掛けていたとされる。

       
        東端から見る小泊集落。

       
        県道橘東和線の三差路を過ごすと小泊バス停。(建物は民宿こどまり)      


周防大島の内入は毛利家船手組頭・村上武吉終焉の地 

2021年02月05日 | 山口県周防大島町

       
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        内入(うちのにゅう)は屋代島の東部、厨子ヶ鼻に位置し、集落は湾入した海岸砂州に立地
       する。地名の由来は内浦の入海の意によるという。
        1889(明治22)年町村制施行により内入、和田、小泊村が合併して和田村、その後に
       東和町となり,現在は周防大島町大字内入である。(歩行約2.4㎞)
 

       
        小泊への道路脇に駐車して内入バス停を起点とする。

       
        内入は和田集落と接する。

       
        海岸線に石垣を築くことで高波対策が行われてきたが、今ではこの石垣を埋めて海岸道
       路(堤防)を造り、海面上に波消しブロックが並行する形で置かれている。

       
        小泊への道入口に「村上武吉終焉の地」という石柱が建てられている。

       
        この地は山手に成立した郷とよばれる集落と、海岸低地に発達した浜とよばれる集落で
       形成されている。

       
        海岸沿いの集落の屋敷地は、その面積は均一ではないが整然と地割されており、散村的
       な山手の郷とは対照的である。

       
        通りでひときわ目立つ民家。

       
        なまこ壁のある家。

       
        旧東和町時代の親子マンホール蓋は、中央に町章、周りに桜、みかんの花と実、鯛がデ
       ザインされた環境保全型下水道である。

       
        モダンな住宅も見られる。

       
        田向川東側の集落。

       
        この先は和田集落。

       
        田向川まで戻って山手へ向かう。

       
        次の三差路に元正寺(74番札所)への案内がある。

       
        入口にあるバクチノキ。名前の由来は、樹皮が次々に剥がれ落ちるため、博打に負けて
       身ぐるみ剥がされるのにたとえたという。

       
        曹洞宗の元正寺は、往古に了浄院という小庵であったが、慶長年間(1596-1615)に毛利家
       船手組頭村上武吉(たけよし)が、当地の給領主になった時に再興された。

       
        境内から見る内入集落。

       
        村上武吉(1533-1604)は幼少にて父を喪い,23歳にて三島海賊の総大将となる。15
       55(天正24)年10月1日毛利氏を支援して陶晴賢を厳島にて全滅させる。
        その後、毛利氏と提携して生まれ故郷の能島を根拠として海賊から領主的存在となる。
       秀吉の海賊狩りに幾多の抵抗を試みたが、ついに屈服を止むなきに至り、終焉の地を和田
       に定め仏門に帰依する。

       
        境内左手の墓地入口に土塀を巡らす中に宝篋印塔が建ち、慶長9年(1604)の銘があるの
       が村上武吉の墓である。背後には歴代住職と並び、慶長12年(1607)の宝篋印塔は武吉室
       (妻)の塔とされる。

       
        郷の家々は高所を宅地とし、その上の谷に沿って山の田が拓かれている。

       
        内入には山から海に向かって6本の水路が通っている。この溝は山から流れ出る水を灌
       漑用水として用い、また、山からの水をスムーズに海へ流して屋敷を守る役目も果たした。

       
        旧塩田地帯とされる地は屋敷と畑地となっている。

       
        旧道に出て中央部へ引き返す。

       
       
       
        古民家が点々と見ることができるが、どれも無住で崩壊の途にある。