この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
外入(とのにゅう)は屋代島の中央、安下庄湾の東に位置し、集落は南西に面した入海の海
岸砂州に立地する。
地名の由来は、「外海にて何れの村よりも入り込む村故外入申伝候事」とある。(歩行約
3.5㎞)
JR大畠駅から防長バスで周防下田バス停で下車して、スクールバス白木線(一般混在型)
乗り換えることは可能だが、滞在時間が短いこともあって車を利用する。(海岸部に駐車)
海岸道路を伊崎方面へ向かう。
大波・強風対策の典型的な家の造りで、海側に納屋兼作業場を建て、その後ろ側に主屋
を建てるという形式をとっている。
恵比須さんが祀られている。
波消しブロックが海岸線に沿ってずらりと並ぶ。
海に向かって細い路地が短冊状に設けてあるが、それを繋ぐ道は設けられていない。
山に降った雨をスムーズに海へ流し出す水路も見られる。
外入も古い郷と新しい浜をもつ典型的な集落の1つでもある。県道地家室白木港線に入
ると、大きな屋敷構えを見せる。
往還道入口には「外入旧跡ハイキングコース」と銘打った案内板がある。
ここが地家室往還道の入口のようだ。
県道に戻るとスクールバス三下バス停と待合所。
ここにもL字型の大きな屋敷がある。浜の家並みは妻方が海側を向いており、強い風や
波を防ぐための工夫がなされている。
山田神社参道入口の灯籠には文化七庚午(1810)とある。
浜と郷との境はわからないが、山手側に比較的古い家屋が散見できる。
山田神社の創建は不詳であるが、五穀の不作が続き、疫病も流行したため伊勢山田の外
宮より勧請し、五穀の豊穣を祈ったという。旧社号は山田権現社といい、境内に亜熱帯性
のヤマモガン、ヤマビワ、暖地性のサカキカズラの樹木がある。
境内裏手に廻ると西光寺(浄土宗)があるが、もとは西光山清龍寺と称する禅寺であった
という。1588(天正16)年巌島の合戦の戦功をあげた磯兼加賀守が領主となり、当寺を
菩提所と定める。元和年中(1615-24)三田尻(現防府市)へ領地替えになると、寺領が召し上
げとなり住僧もなく衰徴する。1619(元和5)年兼応が浄土宗道場として再興、改宗した
という。
磯兼氏の墓が西光寺墓地にあるとのことだが、案内がされていないので鎌倉後期のもの
と推定される宝篋印塔を探し求めたが、他に宝篋印塔があって特定することができず。
墓地から見る西側地域。
県道に戻って安下庄方向へ進むと、生活に欠かせないガソリンスタンドがある。
門構えをみせる屋敷。
こちらの門構えは浄念寺(浄土真宗)で、1704(宝永元)年安下庄より移転する。
1889(明治22)年町村制の施行により、西方村・地家室村・沖家室島・外入村の区域
をもって家室西方村が発足する。1941(昭和16)年白木村に改称し、昭和の大合併まで
この地に村役場が置かれていたという。左手の建物は白木多目的共同利用施設で、周防大
島町白木出張所が併設されている。
金魚の形をした島で、外入は魚の尾柄(びへい)に当たる位置にあるため、内海の下田(し
たた)とはわずかな距離にある。
他地域と比較すると漁船は数は多い。
波止埋立・御大典記念碑とあるが、1928(昭和3)年昭和天皇即位の記念と思われる。
金刀比羅宮から見る西泊。白木山には1941(昭和16)年旧軍の防空広角砲台が設置さ
れたが、村民(ほとんどが女性)が建設に従事する。同年11月にそれまでの家室西方村を
砲台にあやかって白木村と改称する。
漁港を見守るかのように建立されている金刀比羅宮は、1932(昭和7)年に勧請され、
浜にあった恵比須神社、三宝荒神と弁天山にあった弁財天が合祀された。
駐車地まで戻って、三下バス停から県道を約1㎞の坂道を走行すると、外入の給領主で
あった磯兼屋敷跡がある。
戦国期から江戸初期にかけて磯兼景盛・景通・景綱3代の屋敷跡である。この地は領民
の様子、航路が眺望できる最良の場所であった。
しかし、関ケ原の戦い後に毛利氏は防長二国に減封されたため、景綱は三田尻(現防府市)
に移り、約60年間の給領主時代が終わる。現在は屋敷跡に石垣の一部が残り、下の段は
馬場、上の段は屋敷地であったとされる。
跡地前から見える外入の集落と外海。