ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の佐連は屋根瓦製造が盛んだった地 

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。 
         佐連(され)は屋代島の南端部(外海)に位置し、海上に沖家室島が浮かぶ。地家室の枝村で、
        もとは葭ヶ久保(あしがくぼ)と呼ばれ葭がたくさん生えていたところというが、「佐連」と
        いう地名の由来については知り得なかった。(歩行約1.3㎞)

        
         フイリップ・フォン・シーボルトは、1823(文政6)年オランダ商館の医官として来日
        し、長崎市内に蘭学塾兼診療所を開設する。シーボルトの江戸参府紀行によると、182
        6(文政9)年3月3日上関と室津を通過して牛ヶ首沖に碇を下ろし、翌日に上陸して動植物
        を観察して同日出船したとある。

        
         佐連の南400mに位置する沖家室島に、1983(昭和58)年3月全長380mの沖家
        室大橋が完成する。

        
         1933(昭和8)年宿望であった防波堤が構築され、その竣工を記念して、当時の菊山嘉
        男知事の揮毫による「入和制水」の碑が湾頭に建立される。1933(昭和8)年8月に山口
        県知事に就任して農漁山村経済更生計画を推進したが、3年後に宮城県知事として転任す
        る。

        
         沖家室大橋が架橋されるまでは、沖家室島への渡船「瀬戸丸」が発着する港であった。

        
         火の見櫓の半鐘は、火災・洪水発生時に鳴らされたもので、鐘の打ち方が定められてい
        たとか。現在はサイレンとか行政無線に役目を譲っているが、この小集落の鐘は現役か、
        それとも集落のシンボル的存在として残されているのかはわからない。

        
         町営バスのスクールバス白木線佐連バス停。周防下田から片添ヶ浜、沖家室島、佐連を
        通って地家室、外入を周回する路線である。「スクールバス」となっているが、一般利用
        客も有償で混乗できるとのこと。

        
         バス停付近から見る県道橘東和線に沿う家並み。(佐連会館に🚻あり)

        
         佐連山登山道と案内された道を上がると、奥の院があるが由緒など詳細はわからず。

        
         集落内の広い道を山手に向かう。

        
         道なりに進むと左手に日吉神社の鳥居、その左手にはデイサービスセンター山王苑。

        
         日吉神社は慶長年間(1596-1615)近江国坂本にある山王総本宮日吉大社を勧請したと伝
        わる。旧社号は山王権現社といい、1871(明治4)年に現社号に改められた。

        
         山腹に白いガードレールが見え、集落が一望できるようなので境内裏手から佐連川に沿
        って急坂を上る。

        
         みかん畑の中に家屋が見えるが、その多くが空家のようだ。

        
         展望地から眼下に佐連の集落、左手に沖家室大橋と沖家室島、青い海の先に伊崎の鼻。

        
         往路を引き返して高台に上がると家並みが広がる。

        
         石組みの大きな井戸。

        
         墓地の傍に周防大島八十八ヶ所の札所である地蔵堂がある。敷地内に住職の墓があるの
        で寺があったのだろう。詠歌は「心から 南無阿弥陀仏 称うれば 弥陀のみ園に 往き
        て生まれん」とある。

        
         路地に入ると釜で何か煮ておられたのでお聞きすると、ひじきを水戻しして蒸し煮して
        いるところとのこと。最近は取れる量が少なくなったこと、高齢で海から重たいひじきを
        持ち上げることが困難になったこと、ひじきに不純物が付いて商品価値が低下したことな
        どをお聞
きする。

        
         戦国期の1575(天正3)年伊予の豪族・河野水軍は土佐の長曾我部元親に敗れ、流転の
        後、
この地に移住したのが河野惟久とその郎党で、集落の大部分はその子孫であると伝承
        されている。

        
         この地も海岸から山手にのびる路地と水路が数本あり、その路地を繋ぐ道である。(西村
        酒店付近) 

        
         佐連は良質な粘土が産出されたため、これを原料に瓦工場が多くあった。大正中期より
        衰退が始まり姿を消したとのこと。(集落の地家室側)

        
         海岸部に御旅所。

        
         水路は蓋がされて通路となった所もある。

        
         三方を山に囲まれて東風の強風を受けないのか、それとも改築されてしまったのか、漆
        喰で塗り固められた屋根を持つ民家は見られなかった。


周防大島の外入は花咲く夕陽の里と銘打った集落 

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         外入(とのにゅう)は屋代島の中央、安下庄湾の東に位置し、集落は南西に面した入海の海
        岸砂州に立地する。
         地名の由来は、「外海にて何れの村よりも入り込む村故外入申伝候事」とある。(歩行約
        3.5㎞)

        
         JR大畠駅から防長バスで周防下田バス停で下車して、スクールバス白木線(一般混在型)
        乗り換えることは可能だが、滞在時間が短いこともあって車を利用する。(海岸部に駐車)

        
         海岸道路を伊崎方面へ向かう。

        
         大波・強風対策の典型的な家の造りで、海側に納屋兼作業場を建て、その後ろ側に主屋
        を建てるという形式をとっている。

        
         恵比須さんが祀られている。

        
         波消しブロックが海岸線に沿ってずらりと並ぶ。

        
         海に向かって細い路地が短冊状に設けてあるが、それを繋ぐ道は設けられていない。
        
        
         山に降った雨をスムーズに海へ流し出す水路も見られる。

        
                
            
         外入も古い郷と新しい浜をもつ典型的な集落の1つでもある。県道地家室白木港線に入
        ると、大きな屋敷構えを見せる。

        
        
         往還道入口には「外入旧跡ハイキングコース」と銘打った案内板がある。

        
         ここが地家室往還道の入口のようだ。

        
         県道に戻るとスクールバス三下バス停と待合所。

        
         ここにもL字型の大きな屋敷がある。浜の家並みは妻方が海側を向いており、強い風や
        波を防ぐための工夫がなされている。

        
         山田神社参道入口の灯籠には文化七庚午(1810)とある。

        
         浜と郷との境はわからないが、山手側に比較的古い家屋が散見できる。

        
         山田神社の創建は不詳であるが、五穀の不作が続き、疫病も流行したため伊勢山田の外
        宮より勧請し、五穀の豊穣を祈ったという。旧
社号は山田権現社といい、境内に亜熱帯性
        のヤマモガン、ヤマビワ、暖地性のサカキカズラの樹木がある。

        
         境内裏手に廻ると西光寺(浄土宗)があるが、もとは西光山清龍寺と
称する禅寺であった
        という。1588(天正16)年巌島の合戦の戦功をあげた磯兼加賀守が領主となり、当寺を
        菩提所と定める。元和年中(1615-24)三田尻(現防府市)へ領地替えになると、寺領が召し上
        げとなり住僧もなく衰徴する。1619(元和5)年兼応が浄土宗道場として再興、改宗した
        という。

        
         磯兼氏の墓が西光寺墓地にあるとのことだが、案内がされていないので鎌倉後期のもの
        と推定される宝篋印塔を探し求めたが、他に宝篋印塔があって特定することができず。

        
         墓地から見る西側地域。

        
         県道に戻って安下庄方向へ進むと、生活に欠かせないガソリンスタンドがある。

        
         門構えをみせる屋敷。

        
         こちらの門構えは浄念寺(浄土真宗)で、1704(宝永元)年安下庄より移転する。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、西方村・地家室村・沖家室島・外入村の区域
        
をもって家室西方村が発足する。1941(昭和16)年白木村に改称し、昭和の大合併まで
        この地に村役場が置かれていたという。左手の建物は白木多目的共同利用施設で、周防大
        島町白木出張所が併設されている。

        
         金魚の形をした島で、外入は魚の尾柄(びへい)に当たる位置にあるため、内海の下田(
          たた)
とはわずかな距離にある。

        
         他地域と比較すると漁船は数は多い。

        
         波止埋立・御大典記念碑とあるが、1928(昭和3)年昭和天皇即位の記念と思われる。

        
         金刀比羅宮から見る西泊。白木山には1941(昭和16)年旧軍の防空広角砲台が設置さ
        れたが、村民(ほとんどが女性)が建設に従事する。同年11月にそれまでの家室西方村を
        砲台にあやかって白木村と改称する。

        
         漁港を見守るかのように建立されている金刀比羅宮は、1932(昭和7)年に勧請され、
        浜にあった恵比須神社、三宝荒神と弁天山にあった弁財天が合祀された。

        
         駐車地まで戻って、三下バス停から県道を約1㎞の坂道を走行すると、外入の給領主で
        あった磯兼屋敷跡がある。

        
         戦国期から江戸初期にかけて磯兼景盛・景通・景綱3代の屋敷跡である。この地は領民
        の様子、航路が眺望できる最良の場所であった。
         しかし、関ケ原の戦い後に毛利氏は防長二国に減封されたため、景綱は三田尻(現防府市)
        に移り、約60年間の給領主時代が終わる。現在は屋敷跡に石垣の一部が残り、下の段は
        馬場、上の段は屋敷地であったとされる。

        
         跡地前から見える外入の集落と外海。


周防大島の地家室は帆船時代の港町 

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         地家室(じかむろ)は屋代島の東部、白木山南麓に位置し、南(外海)に面した入海の砂州に
        立地する。
         地名の由来は、東・西・北の三方を山で囲まれ、南は海に面した日受けの良い場所で、
        室のように暖かであることにちなむという。
         また、三方を山に囲まれ、地下の家のごとくであるのをもって地家室となったという。
        (歩行約2.0㎞)

        
         周防大島町の町営バスは、周防下田(したた)を起点にスクールバスとして運行されている
        が、一般利用者も有償で利用することができる。但し、通学用バスのため集落を散歩する
        には利便性が悪い。(漁港に駐車)

        
         集落は郷と浜、それに埋め立ての磯上地区に分けられる。

        
         山手に通じる路地は、路地と路地を繋ぐ道がないため、入れば引き返さなくてはならな
        い。

        
         帆船時代は港町として賑わった集落である。湾は真南に向かって開いているので、南風
        (地元では「まじ」という)が強く吹き、台風の時期には海は荒れるが、それ以外は湾の両
        端に突き出ている岬と、集落の背後の山で防ぐことができる。(東端の集落付近) 

        
         路地の先に高台。

        
         高台から見ると集落は海側に家が集中している。

        
         路地は複雑な地形になじむように展開しているので魅力的だが、空地になって先が見通
        せると、ミステリー感が失われて楽しみも半減する。

        
         大正期に普及した手押し井戸ポンプを見かける機会が少なくなったが、絶滅を進めたの
        は1945(昭和20)年~1955(30)年代に電動井戸ポンプと水道の普及だといわれて
        いる。
         手押しポンプだと
ライフラインが被害を受けても、水を汲み上げることができる優れも
         のである。(路地と路地が繋がった道)

        
         1615(慶長20)年萩藩は、地家室の未開の地を無給通・林久右衛門に与え、屋敷の中
        に林家が管理していた御茶屋があった。毛利氏の参勤交代は三田尻から大坂までは海路で、
        この御茶屋に一泊したとされる。残念ながら場所の特定はできなかった。

        
         神社への道は往還道であったため、この付近は車の通行が可能な広さを保っている。

        
         無住になって久しいようだ。

        
        
         1612(慶長17)年創建の中原神社は、地家室の総鎮守で旧社号は三宝荒神社と称した。
        三宝荒神は日本特有の神だそうで、不浄を許さない厳しさを持つことから、火で清浄が保
        たれる竈に祀られ、竈の神、火の神として崇敬されてきた。
         さらに人々の災いから守り、金銭を融通してくれる神として家の守護神となる。

              
         町指定の天然記念物であるイチョウの木は、高さ約20m、目通しの幹は約4.15m
        である。普通に見られる銀杏は細長いが、ここのは「ハート型」で丸いとされる。

        
         海岸部へ出ると広場に週2回の移動販売車が訪問中。

        
         西側は江戸後期に埋め立てられたもので、かっては遊郭や茶屋が建ち並び、道は煉瓦敷
        きであったという。

        
         半島の突端があることから良港であり、海路の要衝、船舶の碇泊所となったが、船舶の
        機械化により繁栄は没落し、寒村に化したといわれる。

        
        
         泉福寺(曹洞宗)は、1705(宝永2)年吉敷郡下郷村に創建されたが、1873(明治6)
        現在地に引寺再建される。本尊の薬師如来は秘仏とされ、25年日毎に開帳される。

        
         周防大島八十八ヶ所第83番札所。詠歌は「ありがたや 大慈大悲の 観世音 世渡る
        舟も 凪の波間に」とある。
         大師堂の前に置かれている石造香炉は、参拝者の焼香のため使われるもので、桶型にな
        っているのが珍しい。

        
         海岸部に残る石垣。

        
         波止から見る集落。駐車地に戻って約550mの坂道を車で上がると、第82番札所、
        往還道と加室合戦が案内されている。

        
         地家室から外入(とのにゅう)に至る山越えの往還道。外入村の境から海辺まで1.2㎞ほど
        あり、900mほどの急坂が続き、左右に田畑を見て民家の中を下る道とされる。

        
         南北朝の戦乱期、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)は、1338(延元3)
        天皇の命に奉じ、征西大将軍として吉野を発ち、伊予国忽那(くつな)島へ渡り豪族・忽那義
        範の援助を得て九州下向の機をうかがう。
         これを阻止せんと北朝方安芸国武田氏信が屋代島海域に侵攻すると、南朝方の忽那・土
        居勢は親王に加勢する。世にいう加室合戦の地として石碑が建立されている。

        
         札所と谷川を挟んだ向かい側に地家室の石風呂がある。戦後も一時期焚かれたようで、
        その時に石の間をセメントで塞いでいる。
         天井を削って高くして熱効率を高め、側面に石を積み上げて床を丸くし、床には石を敷
        き詰めている。一度に5~6名が入れるもので、1841(天保12)年頃から第2次大戦ま
        で利用されていた。この地は平地に乏しく段々畑の耕地が多く、体を痛めることが多く、
        作業前の慣らしと後の疲労を癒すために必要だった。

        
         第82番札所の詠歌は「海遠き 雲の上より 現れし 南無薬師仏 仰ぐ尊さ」とある。

        
         集落の先に見える島は沖家室島。


周防大島の船越は海岸線に沿って細長い集落

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

       
                この地図は、国土地理院2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        船越(ふなこし)は屋代島の中央部に位置し、外海に面する入海の砂州に立地する。 
        地名の由来は、往古、屋代島は東西に分かれて、現在の下田(したた)と船越は海峡になっ
       ていた。常に船舶が航行し、船越の名称はこれにより付したといわれる。(歩行約1.7㎞)

       
        JR大畠駅から防長バスで周防下田バス停で下車して、スクールバス白木線(一般混在型)
       乗り換えることは可能だが、滞在時間が短いこともあって車を利用する。(海岸部に駐車)

       
        堤防の先が埋め立てられて役目を終えている。

       
        海岸道路を外入(とのにゅう)方向へ歩く。

       
        石垣で囲んで海岸側に納屋兼作業場、その奥に主屋を建てるという、この地方の典型的
       な家の構えである。

       
        山手から海岸への道は家と家の間に設けてあるが、水路は蓋がされたようだ。

       
        漁獲高の減少で大型船を使っての漁は、燃料代がかさむため出漁せず、もっぱら小型船
       が中心だそうだ。

       
        防波堤の岩に大漁を願って恵比須社。

       
       
        病気退散を願って疫神社が建立されているが、霊験あらたかであるとされ、近辺の方が
       持ち回りで管理清掃をされている。

       
        船越集落は南西に沿って海に面し、1㎞ほどの海岸線が続いている。

       
        細い水路であるが集中豪雨でも対応できているので、山手側の土地に保水力があるのだ
       ろう。

       
        山手側に進むと廃屋を散見する。

       
        集落の中央付近に自転車も格納できるほどのバス待合所。ここも町運営のスクールバス
       対応で、旧東和町の集落を周回する路線である。登校日とそうでない日で区分けされて4
       ~5便が運行されている。

       
        看板と自販機はあるが営業されていないようだ。

       
        シンボル的な火の見櫓。

       
        県道を進んで行くと第78番札所の案内がある。道路の向かい側には、1873(明治6)
       年創立の船越小学校があったが、1911(明治44)年西方尋常小学校に統合される。

       
        周防大島八十八ヶ所船越大師堂。詠歌は「世を照らす 大日如来の み光に 漏るもの
       なし 仰げ衆生は」とある。

       
        向かい合うようにある荒神社は民間信仰の1つで、生命を保つための食物を調理する台
       所の神として祀られている。この荒神信仰は瀬戸内海沿岸地方に多いとされる。

       
        崩壊の途にあるが、厨子2階の屋根に三角形の屋根が取り付けてあった古民家。

       
       
        大波と強風対策のため石垣が築かれ、木を植えるという方法もとられている。

       
       
        船越も家の建築年代が新しいのは潮風や強風にさらされるため、傷みやすく耐用年数が
       短いことによるようだ。