この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
高瀬(たかせ)は山村地域で、島地川ダムに源を発した島地川が南流し、川に並行して国道
376号が走る。住宅は南西部の大原・殿明周辺に集中する。
地名の由来は、川筋に岩石が多く、そのために川の瀬音が高いことから地名になったと
考えられる。(歩行約3㎞)
この地を訪れるためのバス便は、JR福川駅前から3便、山口市堀から2便と利便性は
よくない。サン・スポーツランドに駐車してバス停を出発地とする。(🚻あり)
バス停前の建物はお店だったような構えである。
国道をこのまま進むと、1981(昭和56)年島地川上流に建設されたダムがある。
高瀬川左岸の集落風景。
国道を分けて県道串夜市(やじ)線に入る。
県道を上がって行くと、種田山頭火句碑入口を示す案内がある。
高瀬は種田正一(山頭火)の妻・咲野さんのふるさとである。1889(明治22)年5月、
佐藤家の長女として生まれ、防府の周南女紅(じょこう)学校に学び、1909(明治42)年に
種田正一と結婚する。
1916(大正5)年種田酒造は倒産し、一家は熊本へ夜逃げ同然に引っ越す。その後の咲
野は波乱にみちた生涯を送り、1968(昭和43)年9月熊本で没す。享年80歳であった。
「住みなれて 茶の花の 咲きつづく」
咲野さんの生家入口に山頭火の句碑がある。この句は、1933(昭和8)年山口市小郡の
「其中庵」で、庭に咲く白い茶の花を見て詠んだとされる。妻の故郷に咲く茶の花とダブ
らせたのかも知れない。
今とは家並みなどは違うが、咲野さんも生家から眺めたであろう高瀬集落。
西迫下地区から秋字明(しゅうじみょう)地区への道。
地下(じげ)道として、米光から島地川の流れと逆方向に、和田、中村、小津を通り、熊坂
峠を越えて仁保津に至る道であった。(高菅酒店付近)
地形に沿って家並みが並ぶが空家も目立つ。(高瀬川)
左手の家屋で家並みは消えるが、江戸期の地下(じげ)道は往来する人も少ないし、整備も
十分でなかったようだ。
集落の最上部に総鎮守の河内神社がある。明治29年11月吉日と刻まれた一の鳥居、
二の鳥居の左側はひび割れしているが、寛政▢▢年9月吉日とある。
もと河内社と権現宮を相殿していたが、1864(元治元)年に高瀬神社と改称し、さらに
1952(昭和27)年に河内神社と改めた。創建の年月は知れないが、阿州(徳島)一宮平岡
大明神を勧請して秋字明、西迫、殿明の氏神とした。
現在の本殿は江戸期に建立されたものだが、拝殿は1928(昭和3)年に再建された。
石州瓦の建物が山裾に並ぶ。
島地川ダムと特産の和田丸太原木(檜・杉)と、ホタルがデザインされた特定環境保全下
水道のマンホール蓋。
石組みと調和する土蔵。
目の前のサン・スポーツランド付近に、1971(昭和46)年廃校になった高瀬小学校が
あったとされ、周囲の家々はダム建設で移転を余儀なくされて転居したという。
三汲寺(曹洞宗)は、1622(元和8)年創建の古刹だが、現在は専任の住職不在である。
集落の人口減少で寺族の生計を支えられないことなど、山村集落がもつ1つの課題でもあ
る。
同寺は代務住職の関与を得ながら現状維持されているが、住職の高齢化もあって先行き
に不安を残す。
高瀬八十八ヶ所霊場は老僧が四国の霊場に倣って、1820(文政3)年から4年がかりで
開創する。(同寺に1番札所)
下って行けば高瀬峡への道と合わす。自然豊かな美しい渓谷だそうで、渓谷に沿って2.
2㎞の自然歩道には奇岩などが楽しめるという。
集落道の途中に門構え、茶室のある民家がある。松田敏樹(1838-1903)宅のようで、萩藩
では諸役を歴任し、1889(明治22)年町村制施行による選挙で山口町初代町長となる。
子・松田稔も和田村長など歴任し、地域の発展に貢献したという。
サン・スポーツランドから狭隘な山道を3㎞ほど進むと、左手に専照寺(浄土真宗)入口
がある。
1638(寛永15)年に毛利輝元の家臣・菅田正五郎によって建立された。明治初期に西
本願寺の宗教改革に尽力した島地黙雷が生まれた寺でもある。
島地黙雷(しまじもくらい)は、1838(天保9)年同寺住職の4男として生まれ、29歳で
島地の妙誓寺の住職となる。信教の自由を求めて上京し、政教分離を明治政府に認めさせ
るなど神道の下にあった仏教の再生に尽力し、西本願寺の執行長になどを歴任したが、1
911(明治44)年寂、79歳。