この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
西方(にしかた)は屋代島の中央部に位置し、湾入した入海の海岸砂州に立地する。この地
は大字西方で、西方、下田(したた)、長崎の3つの小字で構成されている。
地名の由来は、中世・島末荘西方の中心が当地にあったことによるという。(歩行約5.
8㎞)
「道の駅とうわ」に駐車して、周防長崎バス停を起点に散歩する。
道の駅では物産直売所と2階にレストラン、その他おさかなセンター、チャレンジショ
ップなど「買う・食べる」ことができる。
国道から集落に入ると、すぐ左手の路地に石垣が残っているが、ここがもともとの海岸
線で海側が埋め立てられたようだ。
旧道に出合うと正面に東和中学校、ここを右折して久賀方面へ向かう。
人に会うことはなかったが、会えたのがネコだけだった。
今は国道側と違って車も通らず静かな道筋であるが、1924(大正13)年長崎の西端が
埋め立てられ、長崎と下田が続いたことにより飛躍的に発展したという。
地下(じげ)上申によると、干潟の浜といっていたが田地になったので下田(したた)という
ようになったという。
そして、下田八幡宮ももとは干潟八幡宮だっただろうともいっている。
海側から境内に入るが、社殿は参道の正面にあらず、方角がはっきりしないが、南(山)
に向く形で建てられている。
下田八幡宮は、貞観年間(859-876)宇佐神宮が神託によって岩清水へ勧請される時、奇瑞
(きづい)があって当地にも分祀されたものという。往古は村内の下田浜に鎮座していたが、
いつの頃かは不明だが現在地に遷座されたという。
この付近には漆喰で塗り固められた屋根を持つ家屋は存在しなかった。この地も強い潮
風などにさらされるため、家が痛みやすく耐用年数が短いことに起因しているようだ。
背後に白木山があるためか、川幅のある立田川が海に注いでいる。
旧道の家並みに変化が見られず、左折して札所に参詣する。
下田大師堂は高台にあって集落が眺められる。
周防大島八十八ヶ所第60番札所(下田大師堂)。詠歌は「ありがたや 大日如来の み
光に 遭うもの誰か 闇のあるべき」とある。
どうように出発地に戻ろうか思案つつ集落内をトラバースする。
県道109号(白木山線)に合わすと、漆喰塗り屋根の民家に出合う。
県道を上がって行くと、城を思わすような造りの中に眷竜寺(けんりゅうじ)がある。
鎌倉時代に普済大聖禅師が開いたとされる古刹で、大島では三蒲の松尾寺、橘の普門寺
とともに禅寺として、古い面影をとどめている。
境内裏手から見る西方。正面に見える山は嵩山か?
正面におむすびのような形をした我島、右手に真宮島。
県道を下って行くと神宮寺。下田八幡宮の別当(上席の僧)寺であったという。
下田八幡宮南参道を過ごすと第63番札所。詠歌は「武士の 長崎氏を 偲ぶれば 千
手観音 利益尊し」とある。
東和中学校前に出て旧道を進む。
旧道筋に漆喰塗り屋根のある民家はここだけだった。
瓦が飛ばされないよう瓦の継ぎ目に施されている。
国道に出ると手摺のついた高台がある。
海岸台地に上がると山本萬之丞翁頌徳碑がある。翁は1861(万延2)年にこの地で生ま
れ、代々の農業に従事する。1897(明治30)年頃、林家の畑に蜜柑の枝変わりをみて、
一枝とってざぼんを台木にして接ぎ、自家の山畑に植えた。
今日の大島蜜柑は、半ばこの系統に属するもので、恩を謝し徳を称えるとある。(民俗学
者・宮本常一撰)
台地から見る西方の町並み。旧道と国道の分岐点付近から右側は埋め立てられた新地と
思われる。
道の駅に戻ってくると、盛土された中に服部屋敷があるが、もとは林家の分家で、後に
萩の士族の株を買って服部を名乗ったという。域内あった屋敷は、1994(平成6)年に移
築復元したものだが、いつ行っても見られるものでなく予約が必要と張り紙がしてある。
服部家の生業は農業の他、酒屋、網元、廻船業と手広く行っており、島外や島末の人々
の来訪者を考慮した屋敷構えとなっているとのこと。1885(明治18)年築の建物には、
正面及び裏門敷地内に中庭用の門と坪庭に通じる潜り門があり、用途に応じて人々を区別
したとされる。
建物は主屋、吊屋を含む長屋、土蔵の3つがあり、主屋には客用の便所と風呂、家人用
の便所がある。間取りは本百姓の四間六(しまろく)と呼ばれる間取りのようである。(海側
から見る屋敷)
沖に浮かぶ真宮島の手前の島との間に、干潮時に砂の道が現れるトンボロ現象が見られ
るとのこと。服部屋敷裏門前を通って道の駅に戻る。