ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の地家室は帆船時代の港町 

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         地家室(じかむろ)は屋代島の東部、白木山南麓に位置し、南(外海)に面した入海の砂州に
        立地する。
         地名の由来は、東・西・北の三方を山で囲まれ、南は海に面した日受けの良い場所で、
        室のように暖かであることにちなむという。
         また、三方を山に囲まれ、地下の家のごとくであるのをもって地家室となったという。
        (歩行約2.0㎞)

        
         周防大島町の町営バスは、周防下田(したた)を起点にスクールバスとして運行されている
        が、一般利用者も有償で利用することができる。但し、通学用バスのため集落を散歩する
        には利便性が悪い。(漁港に駐車)

        
         集落は郷と浜、それに埋め立ての磯上地区に分けられる。

        
         山手に通じる路地は、路地と路地を繋ぐ道がないため、入れば引き返さなくてはならな
        い。

        
         帆船時代は港町として賑わった集落である。湾は真南に向かって開いているので、南風
        (地元では「まじ」という)が強く吹き、台風の時期には海は荒れるが、それ以外は湾の両
        端に突き出ている岬と、集落の背後の山で防ぐことができる。(東端の集落付近) 

        
         路地の先に高台。

        
         高台から見ると集落は海側に家が集中している。

        
         路地は複雑な地形になじむように展開しているので魅力的だが、空地になって先が見通
        せると、ミステリー感が失われて楽しみも半減する。

        
         大正期に普及した手押し井戸ポンプを見かける機会が少なくなったが、絶滅を進めたの
        は1945(昭和20)年~1955(30)年代に電動井戸ポンプと水道の普及だといわれて
        いる。
         手押しポンプだと
ライフラインが被害を受けても、水を汲み上げることができる優れも
         のである。(路地と路地が繋がった道)

        
         1615(慶長20)年萩藩は、地家室の未開の地を無給通・林久右衛門に与え、屋敷の中
        に林家が管理していた御茶屋があった。毛利氏の参勤交代は三田尻から大坂までは海路で、
        この御茶屋に一泊したとされる。残念ながら場所の特定はできなかった。

        
         神社への道は往還道であったため、この付近は車の通行が可能な広さを保っている。

        
         無住になって久しいようだ。

        
        
         1612(慶長17)年創建の中原神社は、地家室の総鎮守で旧社号は三宝荒神社と称した。
        三宝荒神は日本特有の神だそうで、不浄を許さない厳しさを持つことから、火で清浄が保
        たれる竈に祀られ、竈の神、火の神として崇敬されてきた。
         さらに人々の災いから守り、金銭を融通してくれる神として家の守護神となる。

              
         町指定の天然記念物であるイチョウの木は、高さ約20m、目通しの幹は約4.15m
        である。普通に見られる銀杏は細長いが、ここのは「ハート型」で丸いとされる。

        
         海岸部へ出ると広場に週2回の移動販売車が訪問中。

        
         西側は江戸後期に埋め立てられたもので、かっては遊郭や茶屋が建ち並び、道は煉瓦敷
        きであったという。

        
         半島の突端があることから良港であり、海路の要衝、船舶の碇泊所となったが、船舶の
        機械化により繁栄は没落し、寒村に化したといわれる。

        
        
         泉福寺(曹洞宗)は、1705(宝永2)年吉敷郡下郷村に創建されたが、1873(明治6)
        現在地に引寺再建される。本尊の薬師如来は秘仏とされ、25年日毎に開帳される。

        
         周防大島八十八ヶ所第83番札所。詠歌は「ありがたや 大慈大悲の 観世音 世渡る
        舟も 凪の波間に」とある。
         大師堂の前に置かれている石造香炉は、参拝者の焼香のため使われるもので、桶型にな
        っているのが珍しい。

        
         海岸部に残る石垣。

        
         波止から見る集落。駐車地に戻って約550mの坂道を車で上がると、第82番札所、
        往還道と加室合戦が案内されている。

        
         地家室から外入(とのにゅう)に至る山越えの往還道。外入村の境から海辺まで1.2㎞ほど
        あり、900mほどの急坂が続き、左右に田畑を見て民家の中を下る道とされる。

        
         南北朝の戦乱期、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)は、1338(延元3)
        天皇の命に奉じ、征西大将軍として吉野を発ち、伊予国忽那(くつな)島へ渡り豪族・忽那義
        範の援助を得て九州下向の機をうかがう。
         これを阻止せんと北朝方安芸国武田氏信が屋代島海域に侵攻すると、南朝方の忽那・土
        居勢は親王に加勢する。世にいう加室合戦の地として石碑が建立されている。

        
         札所と谷川を挟んだ向かい側に地家室の石風呂がある。戦後も一時期焚かれたようで、
        その時に石の間をセメントで塞いでいる。
         天井を削って高くして熱効率を高め、側面に石を積み上げて床を丸くし、床には石を敷
        き詰めている。一度に5~6名が入れるもので、1841(天保12)年頃から第2次大戦ま
        で利用されていた。この地は平地に乏しく段々畑の耕地が多く、体を痛めることが多く、
        作業前の慣らしと後の疲労を癒すために必要だった。

        
         第82番札所の詠歌は「海遠き 雲の上より 現れし 南無薬師仏 仰ぐ尊さ」とある。

        
         集落の先に見える島は沖家室島。


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