この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
佐連(され)は屋代島の南端部(外海)に位置し、海上に沖家室島が浮かぶ。地家室の枝村で、
もとは葭ヶ久保(あしがくぼ)と呼ばれ葭がたくさん生えていたところというが、「佐連」と
いう地名の由来については知り得なかった。(歩行約1.3㎞)
フイリップ・フォン・シーボルトは、1823(文政6)年オランダ商館の医官として来日
し、長崎市内に蘭学塾兼診療所を開設する。シーボルトの江戸参府紀行によると、182
6(文政9)年3月3日上関と室津を通過して牛ヶ首沖に碇を下ろし、翌日に上陸して動植物
を観察して同日出船したとある。
佐連の南400mに位置する沖家室島に、1983(昭和58)年3月全長380mの沖家
室大橋が完成する。
1933(昭和8)年宿望であった防波堤が構築され、その竣工を記念して、当時の菊山嘉
男知事の揮毫による「入和制水」の碑が湾頭に建立される。1933(昭和8)年8月に山口
県知事に就任して農漁山村経済更生計画を推進したが、3年後に宮城県知事として転任す
る。
沖家室大橋が架橋されるまでは、沖家室島への渡船「瀬戸丸」が発着する港であった。
火の見櫓の半鐘は、火災・洪水発生時に鳴らされたもので、鐘の打ち方が定められてい
たとか。現在はサイレンとか行政無線に役目を譲っているが、この小集落の鐘は現役か、
それとも集落のシンボル的存在として残されているのかはわからない。
町営バスのスクールバス白木線佐連バス停。周防下田から片添ヶ浜、沖家室島、佐連を
通って地家室、外入を周回する路線である。「スクールバス」となっているが、一般利用
客も有償で混乗できるとのこと。
バス停付近から見る県道橘東和線に沿う家並み。(佐連会館に🚻あり)
佐連山登山道と案内された道を上がると、奥の院があるが由緒など詳細はわからず。
集落内の広い道を山手に向かう。
道なりに進むと左手に日吉神社の鳥居、その左手にはデイサービスセンター山王苑。
日吉神社は慶長年間(1596-1615)近江国坂本にある山王総本宮日吉大社を勧請したと伝
わる。旧社号は山王権現社といい、1871(明治4)年に現社号に改められた。
山腹に白いガードレールが見え、集落が一望できるようなので境内裏手から佐連川に沿
って急坂を上る。
みかん畑の中に家屋が見えるが、その多くが空家のようだ。
展望地から眼下に佐連の集落、左手に沖家室大橋と沖家室島、青い海の先に伊崎の鼻。
往路を引き返して高台に上がると家並みが広がる。
石組みの大きな井戸。
墓地の傍に周防大島八十八ヶ所の札所である地蔵堂がある。敷地内に住職の墓があるの
で寺があったのだろう。詠歌は「心から 南無阿弥陀仏 称うれば 弥陀のみ園に 往き
て生まれん」とある。
路地に入ると釜で何か煮ておられたのでお聞きすると、ひじきを水戻しして蒸し煮して
いるところとのこと。最近は取れる量が少なくなったこと、高齢で海から重たいひじきを
持ち上げることが困難になったこと、ひじきに不純物が付いて商品価値が低下したことな
どをお聞きする。
戦国期の1575(天正3)年伊予の豪族・河野水軍は土佐の長曾我部元親に敗れ、流転の
後、この地に移住したのが河野惟久とその郎党で、集落の大部分はその子孫であると伝承
されている。
この地も海岸から山手にのびる路地と水路が数本あり、その路地を繋ぐ道である。(西村
酒店付近)
佐連は良質な粘土が産出されたため、これを原料に瓦工場が多くあった。大正中期より
衰退が始まり姿を消したとのこと。(集落の地家室側)
海岸部に御旅所。
水路は蓋がされて通路となった所もある。
三方を山に囲まれて東風の強風を受けないのか、それとも改築されてしまったのか、漆
喰で塗り固められた屋根を持つ民家は見られなかった。