ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市福川は旧山陽道の宿場町で栄えた地 

2020年10月31日 | 山口県周南市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         福川は南流する夜市川の東に位置し、東西を通る旧山陽道沿いに早くから町が発達して
        いた。その後、街道筋の南側に国道と鉄道が並行するように設置されたため、鉄道を挟ん
        で海側と山側に二分された形となっている。(歩行約3.6㎞)

        
         JR福川駅は、1898(明治31)年山陽鉄道が開通すると同時に開業する。木造駅舎と
        相対式ホーム2面2線を有し、駅前には小さなローターリーのあるこぢんまりした駅であ
        る。

        
         駅前を旧国道2号が横断するが静かな駅前である。

        
         駅通りを直進して旧山陽道を過ごすと、右手に人麻呂神社がある。「火難(火とまる)・
        防除(家内安全)・安産(人とまる)・疫病防除」の神として祀られてきた。

        
         右折地点より駅前通り。

        
         街道より一段高い通りは住宅が並ぶ。

        
         地形に合わせた道は小さなアップダウンがある。

        
         突き当たると旧国道に出る。

        
         旧国道に出ると右手に旧山陽道入口がある。(福川東町)

        
         100mほど入った所に御本手領徳地御米蔵があり、米蔵前面には船着場であったと伝
        えるが痕跡は残されていない。

        
         どこにでも見られる町風景である。

        
         
福川東端から寺脇の石橋まで2丁13間(約242m)が東町。西光寺の寺伝によると、
                近江の住人が武門を捨てて、当国福川に来て草庵を結ぶ。
ところが、ここに加賀生まれの
        僧・西念という者が、寺号を本願寺に願い出て「西光寺」の寺号が許された。

         その頃加賀では東・西本願寺騒動が起こったので、木仏を奉持して福川に下向し、草庵
        主と相談した結果、西光寺にしたという。


        
         寺参道付近に白壁の町家(食料品店)

        
         食料品店の真向かいにも白壁の町家。

        
         シマヤだしの素、ぶちうまい味噌などで知られるシマヤさんの煙突が目立つ。

        
        
         さらに西へ進むと辰尾神社の参道が右手にのびる。

        
         真福寺(曹洞宗)は寛永年間(1624-1644)に創建
され、脇本陣として西国大名や徳山毛利の
        休息場として使用された。福川の干拓や漁業などの生産活動指導の拠点として中心的役割
        を果たす。


        
         本堂の裏手墓地に3体の板碑がある。もともと福川小学校の北側にあった隠居寺とよば
        れた場所にあったものが当寺に移されたという。
         中央の板碑には鎌倉後期の銘があり、梵字が印刻されている。左手は8月23日の銘が
        あり、正面の所々に墨跡が認められるとのこと。右手の板碑は無銘だが、かって正面に墨
        書きがあったものと思われる。

        
         辰尾神社は回廊に囲まれた拝殿構造である。

        
         由緒によると、1760(宝暦10)年辰之尾の地に夜市天王社より勧請される。開作事業
        が進むとともに守護神(神社)が創建されたが、1906(明治39)年の一町村一社を原則と
        する神社合祀令により、福川地区内にあった5つの小社が合祀されて辰尾神社となる。

        
         拝殿は石敷き、その先が本殿という形式である。

        
         参道入口まで戻って西へ進むと、街道は北西に曲がる。(西光寺から突き当りまでが中
        町とされる) 

        
         永源山公園にある風車の羽根と、左右に市の花であるサルビア、上下に市の木であるキ
        ンモクセイが描かれたマンホール蓋。
         1953(昭和28)年富田町と福川町が合併して南陽町が発足し、のちに市制に移行する
        が、平成の大合併で周南市となり「新南陽市」は消滅する。

        
         曲がり角にある町家。福川市は約7丁50間(約855m)で東町、中町、西町があっ
        た。

        
         白壁の町家もここで見納めとなる。(佐伯たばこ店)

        
         ホーム福川(高齢者向け住宅)の近くに、故尾崎正章画伯より市に寄贈された旧尾崎医院
        (現尾崎記念集会所)を見落とす。

        
         1721(享保6)年幕府が随行員制限令を発すると、その前後から陸路による通行が激増
        する。長州藩の場合も、1725(享保10)年を境に海路併用から総陸路利用へ転換する。
         当初はお客屋と称して藩主の領内巡視や参勤交代の西国大名たちの休憩所に当てられた
        が、
のちに御茶屋と改称する。1741(寛保元)年福田宇右衛門に管理を委託し、山陽道の
        本陣を兼ねることになった。
         本陣の名残をとどめる本陣門は、1838(天保9)年福田四郎兵衛の代に建て替えられた
        ものである。

        
         この先、あまり見るべきものはない。

        
        
         旧国道を横断すると正面に山陽本線西町第二踏切。その手前右手の階段奥に福川西町奉
        納大乗玄少典六十六部碑がある。
         鎌倉時代末期頃に始まった風習のようで、当時、全国は66ヶ国に構成されていたが、
        これを遍歴する巡礼僧は六十六部もしくは六部と呼ばれていた。銭を乞いながら旅を続
        け、行き倒れになるものもいたようだ。

        
         その傍のお堂を覗くと石仏が祀られている。

        
         高台から福川の町を眺めて駅に引き返す。


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