この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
田布施は田布施川が東流し北部を山陽本線が通り、その挟まれた地に市街地が展開する。
地名の由来について風土注進案は、田んぼの刈り上げを行う際に、広地で収穫に不便なた
め田毎に仮小屋を設けて作業したことから、田盧(たぶせ)あるいは田伏と名付けたが、いつ
となく一郷の惣名になったという。(歩行約5.4㎞)
JR田布施駅は市街地の北側にあり、1897(明治30)年山陽鉄道が開通したと同時に
開業する。かって駅舎内に貴賓室が設けられていたとか。
駅前の友末旅館は町唯一の旅館だそうで、唐破風もあって歴史を感じる。
旅館の先を東にとって旧道を進む。
県道下松田布施線(63号)と県道平生港田布施線(164号)を結ぶ道を横断する。
祇園町といわれた通り。
長岡本店の看板には縄・叺(かます)・筵(むしろ)包装資材とあり。叺とは穀物・塩・石炭
などを入れるためのわらむしろの袋だが、叺と筵を知る世代も少なくなってきた。
立派な中庭が現存する。
祭神不明の神社。尋ねようとしたが人に出会うことなく過ごしてしまう。
袖壁を持つT家。
数は多くないが白壁の建物が散見できる。
大恩寺(浄土宗)の寺伝によると、室町期の1538(天文7)年創建と伝える。寺社由来で
はもと真言宗で、1570(元亀元)年頼誉良栖上人が浄土宗に改宗したが、詳細は不明であ
ると記す。
山門を潜ると左手に飢民の供養塔がある。1733(享保18)年にウンカが大発生して飢
饉となり、防長両国で17万7千余の人が餓死又は病気で亡くなる。当時の総人口の1/3が
死亡したという大飢饉だったそうで、供養塔はその死者を弔ったものである。
銘文には「当地方は被害がひどく7百余人の死者が出た。悲しい出来事とその供養を忘
れないようと銘する‥」とある。
「田布施・大恩寺の鐘撞堂を見れば、四方欄干に角矢倉。鐘撞の形がお城に似ていると
いって咎められ、時の住職が傘(からかさ)1本で逃げて行った」という伝説があるとか。
寺を過ごして四差路を右折すると、通称白壁通りと呼ばれる通りに入る。
江戸期から造り酒屋、織物屋などの大きな商家が軒を連ね、賑わいをみせていたという。
この通りは、当時から現在と同じ道幅が確保され、明治期には運動会も行われたという
エピソードも残されている。
建築年代など建物の詳細を知ることはできなかった。(現W家)
真向かいにあるのがK家。
以前はもっと多かったと記憶するが、維持等が大変のようで消滅した建物もあるようだ。
(現U家)
白壁通り側の菅原神社参道。
平安期の901(延喜元)年菅原道真が太宰府へ下向する途次に立ち寄ったとされる地に、
寛弘年間(1004-12)頃に天神社を建立したと伝える。
戦国時代後半に衰退したが、天正年間(1573-1592)田布施沖開作の完成時に、毛利氏によ
って再興されたという。1871(明治6)年天神社を菅原神社に改称する。
正面参道から白壁通りに引き返すと、角にも白壁の家が残る。(M家)
M邸から西進すると、本町へ向かう通りにも白壁の家が残る。(奥がK家で手前がH家)
新町の通りに異色の建物がある。現在は建具店さんだが、もとは何だったのだろうか。
新町を過ごすと大きな通りに出る。
田布施川の桜とさくら橋がデザインされたマンホール蓋。
八坂神社の社伝によると、波野はイナゴの害が多くて農作物が実らないため、守友宗右
衛門という人が出雲国から勧請したと伝える。
風土注進案は室町期の1559(永禄2)年勧請と伝え、1871(明治4)年祇園社を八坂
神社と改称する。
神社より田布施の町並み。
この先、見るべきものもないので駅に戻ろうと思ったが、序でに周回してみることにす
る。
駅の北側筋に出る。
円満寺とあるが詳細不明である。
山陽本線豆尾第一踏切を横断する。
踏切を越えて線路に並行すると、右手に新宗教とされる天照大神宮宮殿が見える。別名
「踊る宗教」だそうだ。
田布施川の橋を渡り川の右岸を下る。
江良碧松(へきしょう)は、明治末期から昭和50年代にかけて活躍した自由律誌「層雲」
の自由律俳人である。種田山頭火、久保白船とともに層雲の周防三羽ガラスと称されたが、
郷里(田布施町)から離れず、農業にいそしみながら暮らしや風物を詠んだ田園詩人であっ
た。
田布施川河岸に懐かしい童謡・唱歌の歌碑30基が並ぶ「ふるさと詩情公園」は、散策
できるように整備されている。
河川敷はふるさとの川整備事業で整備され、金属製のモニュメントがある「さくら橋」
は、町のシンボルとなっている。(1994(平成6)年完成)
河岸を巡って駅に戻るが、桜の時期が散策にはベストのようだ。