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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市土井(旧新南陽市)‥旧鹿野街道沿いに古い町並み

2020年10月18日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         土井は主要地方道新南陽津和野線を挟んで東西に民家が並ぶ。北部を国道2号線が東西
        に横切り、富田川の支流神代川が東流する。(歩行約5.4㎞)

        
         1926(大正15)年国鉄山陽本線の徳山駅と福川駅間に周防富田駅(通称:すっとん駅)
        として開業する。1980(昭和55)年に新南陽駅と改称し、現在では業務委託駅として駅
        舎の東半分は進学教室が入居している。

        
         政所(まどころ)にある荒神社の由来について、昔、この地方を富田保といい、東大寺の油
        倉が置かれ、その役所を政所(まんどころ)といっていた。やがて、この一帯を政所といい、
        室町時代にはすでに地名として使われていた。
         神社には政所の役人で奈良から来た三位中将秋基卿が祀られているといわれる。

        
         鹿野街道は山陽道から鹿野を結ぶ道で、鹿野で萩城下を往来する山代街道と繋がってい
        た。

        
         道幅は広くないが直線的な道である。(松永商店裏口付近)

        
         旧日下医院は建物及び正門と塀が国登録有形文化財である。(街道筋より)

        
         旧日下医院は西側を玄関とする瓦葺き木造2階建ての建物である。
1928(昭和3)年に
        日下宗一氏が建てたもので、長崎(大学)において洋風建築の影響を受け、医院改築に当た
        って、洋風意匠を取り入れたと伝えられる。

        
         窓と窓の間に柱があるようにデザインされ、モルタル塗りの外観には窓の下に幾何学的
        な装飾が施されている。

        
         門柱は石造角柱で、頭部には球状に加工され、本館北寄りには車寄せが設けてある。
        
        
         レトロな雰囲気が保たれている。(2016年撮影)

        
         別館は分娩室として使用されていたとか。

        
         大きな構えの民家。(土井2丁目)

        
        
         中島屋酒造場の酒蔵は改修中。(下段は2016年撮影)

        
         カネナカのマークがある建物の奥に煙突が見えていたが‥。

        
         1823(文政6)年創業の老舗造り酒屋である。

        
        
         神代川に架かる神代橋を渡ると白壁の町家が連なる。

        
         格子が美しいM家。

        
         M家前から見返る。

        
         建咲院への参道脇に灯籠などがまとめられている。

        
         土井は「土居」すなわち中世大内氏の重臣・陶氏の家臣団が集住した地域であった。

        
         国道2号下を潜る。

        
         富田川を川上へ進み、向上橋前を左折して県道に出る。

        
         居館南側の一段低い所に、「にいいどん」と呼ばれた新殿があたったと伝えるが、場所
        は特定できなかった。

        
         南北朝期に陶弘政が築いた平城(居館)跡である。跡地は富岡小学校となったが、197
        2(昭和47)年に菊川小に統合される。1974年に開校した徳山高等専門学校の校舎とし
        て使用されたが、現在は富岡公園となっており遺構を思わせるものは残っていない。

        
         石碑と案内板があるのみである。

        
         海印寺(曹洞宗)は天正年間(1573-1592)に創建される。一説に大内輝弘の乱で焼失して
        廃寺となるが、文禄年間(1592-1596)に再興されたと伝える。

        
         海印寺には陶弘護の次男・興明や興房の嫡男で晴賢の兄にあたる興昌の供養塔がある。
        案内によると右側が陶興明、隣が陶興昌のようだ。

        
         四熊家は町医者として家業を営み、医者養成機関の私家塾「見学堂」を開いていた。主
        屋は江戸後期の茅葺屋根を持つ木造建築で、診療棟は主屋の玄関脇に突き出して設けられ
        た付属棟で、洋風の意匠が施されている明治後期の建物である。

        
         徳山藩主・毛利就馴(なりよし)は、隠居所として政所の北部辺りに「富田御殿」を建てる
        が、完成するまでの6年間、四熊家と建咲院の敷地に仮御殿を建てて過ごす。現在、仮御
        殿跡は庭になっているとのこと。(左手の木がある付近が庭と主屋前に診療棟)

        
         建咲院(けんしょういん)は陶興房が両親の冥福を祈るために、室町期の1482(文明14)
        年建立される。寺号は興房が両親の法名の各1字をとったものである。

        
         興房は禅宗に帰依すると、室町期の1530(享禄3)年剃髪して道麟と号したが、153
        9(天文8)年に死去する。

        
         駅まで直線的な道である。
         


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