この地図は、国土地理院の承認を得て2万5千分1地形図を複製加工したものである。
堀内は萩市街地の西部に位置し、北は日本海に面し、東から南にかけては外堀を境に他
地区と接する。
現在は大半が住宅地で、道路に接して土塀・石垣・長屋門などが残る。萩城址は国史跡、
残りの領域は重要伝統的建造物保存地区に指定されている。(歩行約6㎞)
江戸期後期の堀内地図。
萩駅(10:02)より萩循環まあーるバス(西廻り)を利用して、博物館バス停で下車するが、
博物館は新型コロナウイルスの関係で休館中だった。
南大馬場筋を新堀川方向へ向かうと右手に春日神社がある。江向にあった神社を毛利輝
元が防長二州の祈願所と定め、1608(慶長13)年現在地に社殿を建立する。
1773(安永2)年正月3日の大火により焼失するが、翌年に再建されたものが現在の社
殿である。
神社前を直進すると三年坂筋に合わす。
寄組士の児玉家は三年坂筋にあって、平安古総門に近接した場所にある。長屋の南端に
門を開いた入母屋造りで、外廻りには出格子窓が設けられて腰はなまこ壁である。
追廻し筋の角に古い建物。
萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける3門のうち、ここに平安古(ひやこ)総門があった。門
には番所(見張小屋)が置かれ、人や荷物の出入りを監視し、暮れの六ツ時(日の入り)から
明けの六ツ時(日の出)まで門は閉じられ、通行手形を持つものだけが通行を許された。
外堀に架けられた平安橋は、1652(慶安5)年の絵図には木橋が描かれているが、明和
年間(1764-71)頃に石橋とされたようだ。
三年坂筋に戻って蔵田町へ入る。
梨羽家は大組の藩士で、敷地面積から他の建物があったと思われるが、現在はこの書院
しか残っていない。一部を欠いているが19世紀初頭の建物である。
旧祖式(そしき)家の長屋は蔵田町と横丁の角にあり、長さ10m、奥行き5mの平屋建て
である。屋根は西側が入母屋、東側は切妻造りと形状が異なるが、建てられた当時は、今
より東側が長かったとされる。
旧祖式家の先を左折。
追廻し筋に出ると、1719(享保4)年堀内に開かれた旧明倫館址がある。1849(嘉永
2)年城下の江向へ拡張移転されるまでの130年間、藩政を担う藩士育成のための教育が
行われた。
追廻し筋を西へ向かう。
追廻し筋の鍵曲(かいまがり)は、通りを高い塀で囲み鉤の手にしたもので、戦いの際に遠
見遮断という防御の役割を担う。
寄組士・口羽家の長屋門は入母屋造りの本瓦葺きで、1675(延宝3)年江戸藩邸の門を
拝領して萩に移築したものと伝えられるが、建築手法から18世紀後半のものと思われる
とか。
主家は表門と同じく東向きであったが、1846(弘化3)年南向きに変更されたと伝える。
上級武士の表門と主屋がセットで残っている数少ない武家屋敷である。
萩の代表的な風景である「土塀と夏みかん」があちらこちらで見られる。
大組士の旧二宮家の長屋門は、入母屋造りで潜門の西側に4畳2間の門番所が置かれ、
出格子窓を設けている。(藩政初期には築城の請負奉行を務めた)
大組士の馬來(まき)家(361石)は尼子十旗の一人であったが、1589(天正17)年毛利
氏へ帰服した。
1876(明治9)年前原一誠らが萩で起こした明治政府に対する士族の反乱(萩の乱)に、
23歳だった馬來杢(もく)が二番隊長として参戦するが捕縛される。その後、放されて48
歳の生涯をここで閉じる。通りに沿って南側から笠山石の基礎を持つ土塀、正面に出格子
を持つ長屋がある。
広小路の馬來家から花ノ江筋に入る。
1798(寛政10)年に落成した江風山月書楼(こうふうざんげっしょろう)は、萩藩主の別邸の
一つで、川手御殿や花江別邸とも呼ばれた。明治期に民有地となったが、花江茶邸は品川
弥二郎らによって買い戻されて指月公園に移された。
清水親知(ちかとも・1843-1864)は、1582(天正10)年羽柴秀吉の水攻めにより和議を
条件に切腹した備中高松城主・清水宗治の末裔である。代々、毛利家に仕えた重臣で、幕
末には親知が22歳で家老となるが、禁門の変が失敗に終わると更迭される。高杉晋作が
挙兵すると報復処刑として恭順派(藩命)により自刃する。「戦国の宗治」「幕末の親知」
と、二度にわたって主家を救ったことになる。(旧宅跡)
萩キリシタン殉教者記念公園内に熊谷元直の石碑がある。萩城築造に際して五郎太石(
石垣の間に詰める石)が盗まれるという紛争が、益田元祥と熊谷元直・天野元信の間で始ま
り、工事が2ヶ月も遅延する。
毛利輝元は熊谷・天野に非がありと一族を抹殺するが、二人がキリシタン信徒であった
ため、この事件を口実に抹殺したともいわれている。
明治政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎浦上村の全信徒3,800人を全国各地に
流刑した。(浦上崩れ)
このうち300人が萩に流され、苛酷な拷問と飢えのため40名が殉教を遂げ、うち2
0名がこの地に埋葬された。
フランス人宣教師・ビリヨン神父は、1868(明治元)年に来日したが、明治政府のキリ
スト教弾圧政策のため、大浦天主堂に監禁され、信徒の迫害や弾圧で信者が萩や津和野な
どへ流刑されて行くのを見送る。
1873(明治6)年キリスト教禁止令が解禁されると京都・奈良・神戸などで布教活動を
行ない、1889(明治22)年山口教会に転任する。布教の傍ら殉教者の顕彰を行うため、
津和野では殉教者の墓「至福の碑」を建て、1891(明治24)年には萩の岩国藩屋敷の裏
手にあたるこの地を買い求め、忍耐と信仰の記憶を伝えるため殉教碑を建立する。
路地を抜けると厚狭毛利家長屋門。
厚狭毛利家の主屋は明治以降に解体され、1856(安政3)年に建てられた萩屋敷の長屋
のみが残されている。
1604(慶長9)年毛利輝元が築城した萩城は、1874(明治7)年に建物が解体されて、
現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめる。
天守閣跡には5層の白亜の天守閣があり、最上階は高欄をめぐらした桃山期形式であっ
たとされる。
本丸より内堀、本丸門方向。
花江茶亭(はなえちゃてい)は藩主の別邸に建てられたもので、1887(明治20)年頃に現
在地へ移築される。木造入母屋造の茶室は、本床と脇床が付いた4畳半の茶室と3畳の水
屋から成る。
同場所に梨羽家の別邸茶室も移築されているが、江戸中期の花月楼形式の建物とされる。
志都岐山(しづきやま)神社は、1878(明治11)年本丸付近に山口の豊栄・野田神社の遥
拝所として建立したのが始まりとされる。手前の万歳(ばんせい)橋は、1849(嘉永2)年藩
校の明倫館にあったものが移設されている。
家老・福原家の萩屋敷内にあった書院。建築年代は江戸中期の天明年間(1781-1788)頃
と推定され、後にこの地へ移築された。(現社務所)
城は日本海と内堀に囲まれた中にあるが、海側の防備は丸裸同然であったようだ。
菊ヶ浜海岸に面する二の丸石垣と鉄砲狭間の土塀。
城郭の構造は指月山麓の平地部分と、山頂の詰丸を合わせた平山城である。
二の丸東門跡から指月川(疎水)に架かる指月小橋で城外。
御成道は天樹院前で右折して本町筋に入る。
毛利輝元(1553-1625)は父・隆元が急死したため、11歳に家督を継ぐが、関ケ原合戦
で敗れたため家督を秀就に譲る。この四本松邸で隠居生活を送ったとされるが、これ以後
も実質的な当主として君臨したとされる。
門を潜ると火葬場跡。
墓所は五輪塔形で輝元のものは高さ2.1m、夫人のものは1.8mもあり、隠居所は彼
の死後に天樹院(法号)として菩提寺になった。1869(明治2)年に廃寺となり墓所のみが
残り、墓傍には殉死した長井元房の墓もある。
後町筋を直進すると、左手に毛利元徳が鎌倉材木座に建てた別邸の表門がある。192
1(大正10)年別邸と共に萩市東田町に移築されたが、1974(昭和49)年に門のみが現在
地へ移された。
永代家老であった福原家の表門であるが、上級武家屋敷の表門には番所のある長屋門が
多いが、門番所のないこの形式は珍しいとされる。
県立萩高校の正門の通りが本町筋で、藩主が参勤交代で使用した御成道であった。今よ
りも2倍程度の広さがあり、明治期になって道の半分が夏みかん畑などになったそうだ。
永代家老である益田家の分家筋にあたる間田益田家の土塀。給領地を山口市の間田にも
っていたことから間田益田家と呼ばれた。横町筋に面して延長230mの土塀は、高さ1
mの石垣の上に漆喰壁と本瓦を置いている。
幕末期に家老を務めた国司親相屋敷跡。禁門の変後に福原・益田氏とともに責任を負っ
て切腹した三家老の一人である。(碑は萩西中学校北西隅にある)
萩学校教員室は、1887(明治20)年今の明倫小学校内に建てられ、1934(昭和9)年
市役所敷地内に移転されて市役所の一部に転用された。その後、萩高校同窓会が市から譲
り受け、現在地に移転させたものである。
木造2階建ての建物は、正面から見た外観は左右対称で、出入り口の装飾を含めて札幌
農学校を思い出させるようなアメリカ開拓建築である。
間田益田家の土塀(横町筋)を過ごすと浜ノ丁筋に出る。
萩藩大組士筆頭だった周布家の長屋門は、道路に沿ったL字型で、太い格子出窓や軒の
出桁造りなど江戸中期の代表的な武家屋敷である。
阿川毛利家の分家で寄組士に属していた繁沢家の長屋門は、桁行35.5mで中央から左
寄りに門を開いている。
夏みかんと土塀がデザインされたマンホール蓋。
永代家老益田家の物見矢倉は、髙さ1.8mの石塁の上に建ち、北の総門近くにあって
物見を兼ねていた。関ケ原の戦い後、徳川からの誘いを断り報恩のある毛利家について萩
へ移住する。感激した輝元は益田家を一門とし、永代家老をもって処遇した。
城内・三之丸に入るために設けられた3つの総門のうちの北の総門。2004(平成16)
年に萩開府400年を記念して復元された。(右手の屋根は益田家物見矢倉)
萩まあーるバスでJR萩駅へ戻る。