ぶらっと散歩

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北広島町の豊平に吉川元春の隠居地と万徳院跡

2020年03月21日 | 広島県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         豊平町の北東部、西は上石、志路原、南は下石に接し、志路原川沿いを国道433号線
        が走る。海応寺には江戸期まで吉川氏の直領で、吉川元春の墓や居館跡、松本屋敷跡など
        が残る。(歩行約1.5㎞) 

           
         JR可部駅から千代田ICを乗り継ぎ、海応寺バス停まで行くことは可能だが、帰路の
        バス便と合わず車での散歩となる。(館跡入口に海応寺バス停)

           
         吉川元春(1530-1586)は安芸国大朝の小倉山城に入った後、日野山城(日山城)を築き、1
        5
82(天正10)年に家督を嫡男・元長に譲って隠居する。吉川氏一族の所領地を譲り受け
        て隠居館を建設したが、存命中に完成することはなかった。

           
         志路原(しじはら)川の河岸段丘上に居館跡がある。(復元模型は戦国の庭歴史館にあり)

           
         石垣の北端には東西7m、高さ4mの石切場跡が残されており、所々に石切の工具痕
        (矢穴)が見られる。

           
         門の幅が8m、その北側に50m、南側20m、高さ3.5mの石垣が左右に延びる。

           
         正面石垣には間隔をあけて大きな石が据えられている。大きな立石の間に平らな石を横
        積みにする工法で、この地域にみられる独自なものとされている。

           
         石垣のある側が東で、北は切岸と土塁、南側は堀と土塁で区画されている。

           
         吉川元春の父は毛利元就、母は吉川国経の娘(妙玖)である。兄が隆元、弟が隆景で、安
        芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で相続する。(熊谷信直
        に命じて吉川興経ら殺害。信直の娘が元春の正室)
         小早川家の養子となった弟の隆景と共に「毛利の両川」として、毛利家の勢力拡大に寄
        与する。

           
         表門の石段を上がると主殿舎跡。

           
         奥向きとされる「殿舎跡」には書院造りの礎石建物跡がある。その手前には長さ18m
        の築地塀跡と、門跡には幅2mの石段がある。

           
         元春と嫡男・元長の死後、家督を継いだ元春の三男・広家は、1591(天正19)年出雲
        国富田城に移ったため、居館はわずか8年で機能が失われる。(石垣の上より)

           
         井戸は川原石や割石を積み上げて作った円形の石組み井戸であるが、深さは2.
75m
        で井戸水が出る所までは掘り下げていないことから、雨水を溜める井戸と推定されるとの
        こと。

           
         庭園は南側の建物(会所)跡から鑑賞していたものと思われる。

           
         馬小屋跡、湯殿跡、便所跡の礎石、右手には台所の建物が復元されている。

           
         墓所手前の右手奥に、地名ともなっている海応寺跡があるが、ササ原で遺構等は残され
        ていない。

           
         元春居館の西側の奥(旧海応寺境内)には、向かって右に元春、左が元長の墓である。敷
        地は間口110m、奥行き80mの広さである。

           
         元春は隠居後の最晩年、1586(天正14)年秀吉の九州征伐の際に病をおして参加し、
        小倉に侵攻したときに57歳で病没する。遺骸をこの地に葬送して随浪院殿前駿州太守四
        品海翁正恵大居士と号する。

           
         元長(1548-1587)は、1587(天正15)年に宮崎県日向において40歳で病死する。元
        春同様にこの地に葬送される。

           
         館跡から吉川元春の妻が住んでいた松本屋敷跡の石組みが見られる。

           
         月山富田城に移った後は、元春の菩提寺として建てられた海応寺の寺領となるが、16
        00(慶長5)年関ヶ原の戦い後に吉川氏は岩国へ移封されて廃虚となる。(便所跡)

           
           
         西面に大溝が設けられ堀へ流れ出るようになっている。

           
         居舘跡から志路原川沿いに案内板が設置してある。(駐車場なし・片道約700m)

           
         1580(天正8)年吉川元春の妻(新庄局)が、日野山城から居館に移るまでに住んでいた
        松本屋敷跡。築城年代や築城者はわかっていない。

           
         間口約70m、奥行き40mの敷地の南面する石垣は、中央に約6mの門を挟んでいる。
        石段は取り除かれてコ字型となっている。

           
         現在は民有地で農地にされて遺構等はない。

           
         旧豊平町のマンホール蓋には、蕎麦の花と周りに町章が描かれている。

           
              
             吉川元春館跡から北東へ2㎞ほど登った丘陵地に万徳院がある。

           
         1575(天正3)年頃に吉川元長が、自らの菩提寺にするため建立した万徳院である。
        駐車場脇には往時の本堂(ガイダンスホール青松)が再現されている。
         当初は別邸とされていたが、弟・広家が吉川氏の菩提寺としてふさわしい寺院を求め、
        建物の増築など大改修を行った。

           
           
         長い参道が設けられている。

           
         長い参道を進むと寺院の石垣が見えてくる。石垣は吉川元春舘と同じく、一定の間隔で
        大きな石が用いられている。

           
         境内建物配置図。

           
         正面中央に表門、東に通用口があった。万徳院は日野山城と吉川元春館の中間地点に位
        
置する。

           
         本堂と庫裡の礎石群。

           
         室町時代の絵巻物や現存例などを参考に風呂屋(蒸し風呂)が復元されている。

           
         本堂裏手に小庭園。

           
         庭園跡は楕円形の池と中島から成り立ち、池の水は南端のみに溜まる仕組みとなってい
        る。

           
         元春の次男・元氏は養子に出ていたため、三男・広家が家督を継いだが、岩国に移封さ
        れると万徳院も岩国市横山に移転する。

           
           
         下ってくると右手に吉川広家の正室容光院墓所が案内されている。容光院は宇喜多秀家
        の姉であり、1588(天正16)年豊臣秀吉の斡旋で嫁いだとされる。

           
         約2年半後の1591(天正19)年に病死し、兄の菩提寺である万徳院に葬られた。後
        に毛利家は防長2州に移封され、万徳院も移転したが、容光院の墓は他の吉川家一族同様
        に移転されなかった。


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