ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市三丘は毛利一門八家・宍戸氏の居館があった地 

2020年03月24日 | 山口県周南市

       
        
この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         三丘(みつお)は中央を島田川が南流し、この川の東側を県道光周東線、西側を山陽自動車
        道が走る地域に位置する

         1889(明治22)年町村制施行により、小松原村と安田村が合併して三丘村となった。
        古くから附近の通称名であったらしく、風土注進案に三丘の地名があり、宍戸氏の知行地
        だったという。(歩行約7.5㎞)

           
         新型コロナの拡大により公共交通機関利用も厳しさを増してきたが、都会と違ってバス
        乗客は数人といった状況である。JR島田駅前バス停から15分、周防和田バス停で下車
        する。

           
         交差点を直進して左手の農道を進むと、島田川に架かる歩道橋がある。

           
         さらに進むと、宍戸氏の郷校があった三丘徳修公園である。

           
         毛利氏は長年の宿敵であった宍戸氏との関係を修復し、娘を宍戸隆家に嫁がせて隆家の
        娘を輝元(元就の孫)の正室にしている。
         関ヶ原の戦い後、三丘は毛利元政(元就の七男)の知行地だったが、1625(寛永2)年の
        知行地替えにより、佐波の牟礼(現在の防府市)から宍戸広匡が入れ替わる。

           
         朱子学を官学とする幕府は、儒教の生みの親である孔子を祀る聖廟(現在の湯島聖堂)を
        造営し、学問も同地に移す。その影響で各地の藩校にも聖廟が建てられたが、萩藩は明倫
        館、宍戸氏の徳修館に聖廟が設けられた。

           
         1809(文化6)年第8代の宍戸就年が領民教育のため郷校・徳修館を設立する。現存の
        建物は孔子を祀る聖廟として建てられたもので、郷校をしのぶ唯一の遺構であり、聖廟を
        中心に講堂、道場、寄宿舎など約1.5haの広さを有していた。

           
         聖廟傍にある弁慶穴古墳は熊毛ICの近くにあったが、高速道建設に伴い移築復元され
        ている。 

           
         6世紀後半~7紀初期のもので、副葬品の中に県内では珍しい鉄器が出土しており、被
        葬者は島田川中流を治めていた小地域の支配者とその家族が考えられている。

           
         最後の領主であった宍戸親基は、幕末維新において多くの業績をあげる。1
24(大正
          13)
年に宍戸家の旧家臣によって建てられた碑である。

           
         天王山の西麓には、毛利家一門筆頭として13,000余石を領した宍戸家の居館・馬
        場・兵庫・糧庫など配されていた。現在も末裔の方(Y姓)がお住まいとのこと。

           
         石光川上流の石光橋を渡ると島田川に沿う。

           
         安田集落から広末集落までは民家が存在しない。

           
         広末集落に入る。

           
         鬼武常吉之碑とあるが、碑文は風化してすべてを読み取ることはできない。1926(大
          正15)
年3月15日の夜半に強盗が貞昌寺を襲い、鬼武氏が追補を試みたが強盗の銃弾に
        倒れたとある。

           
         田園地帯の道を辿ると貞昌(ていしょう)寺入口。

           
           
         貞昌寺は元々毛利元政が居館を構えた所であるが、この地は大内時代の三丘ヶ岳城の大
        手門跡で、石垣・石積みは「穴太積み」とされる。

           
           
         三丘宍戸家2代宍戸広匡夫人の法名に因み「久岳山貞昌寺」と号し、宍戸家の菩提寺と
        なる。

            
         境内からの広末集落と島田川。
 
            
         本堂に向かって左手に墓所への石段がある。

           
         宍戸家5代から10代までの墓碑。

           
         貞昌寺から高速道の函渠を潜り、2つ目の陸橋を渡る。

           
         下ってくると左右に分岐がある。左手の石標には「毛利元就公歯廟」と、左手は「宍戸
        家墓所」と案内されている。

           
         1603(慶長8)年毛利元政は肌身離さず持っていた毛利元就の歯をこの地に納めて33
        回忌、生母である乃美の方の3回忌に合わせて供養塔を建立して菩提を弔った。

           
         宍戸家墓所は西方100mほどの林内にある。

           
           
         仙竜寺墓所には初代~4代までが葬られている。

           
         宍戸家の少し下には宍戸家の家老であった末兼家の墓所がある。

           
         1609(慶長14)年萩で死去した毛利元政の供養墓で長男の元俱が建立する。右は16
        18(元和4)年三丘で客死した宍戸元続の夫人(夫人の娘が元俱の妻)の墓で、伝承では織田
        信長の娘といわれているが信憑性に乏しいとか。

           
         三丘は小松原村の広末筏場辺りにある小字名にすぎなかったが、1603(慶長8)年毛利
        元政が三丘に屋敷を構えたので、人々は三丘様と称えた。

           
         毛利元政の墓から民家横の畦道を通ると、案内板のある車道に出る。島田川の橋先から
        県道144号線(玖珂光線)を南下すると、県道上にバス停があるが夕方の2便のみである。

           
         松原八幡宮は、平安期の808(大同3)年宇佐八幡宮より勧請してこの地に祀る。後に鎌
        倉期の1195(建久6)年に俊乗坊重源上人、1621(元和7)年に毛利元俱が社殿を建立し
        たとされる。

           
         由緒書きによると、1869(明治2)年小松原八幡宮から松原八幡宮に改称したとある。
        拝殿に桶が吊るされているが、どんな意味があるのかは不明のままとなった。

           
      
   三丘も旧熊毛町で中央に町章、周囲に鶴が描かれているマンホール。

           
         兼清バス停は光市役所とJR徳山駅行きの2路線がある。15時25分の市役所行きに
        乗車してJR島田駅に戻る。(13時40分の徳山駅行きもあり)        
        


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