この地図は、国土地理位院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
江崎は三方を山に囲まれ、北方は湾入する江崎湾に面する。漁業を中心とした地域で、
国道191号線が南面を東西に走る。地名の由来は、往古には江津と称したが、隣村の須
佐村に大江津という小村があり、まぎらわしいので入江の崎の浦であることから江崎に改
められたという。(歩行約4㎞)
JR江崎駅は、1928(昭和3)年3月飯浦~須佐間延伸時に開業する。1933(同8)
年2月に山陰本線が全線開通した後、駅前に人家が集まったが今は閑散としている。
相対式ホーム2面2線で跨線橋があったが、老朽化のため撤去されて駅舎側のホームだ
けが使用されている。
駅通りは空地が目立つ。
T字路で仏坂道と合わすが、この道は海岸線を萩から益田へ至るが、長い道程と難所が
多くて利用度は低かったようだ。もう一つの萩から福栄、弥富経由する土床道が多く利用
されたとのこと。
右折して峠に向かうと右手に横田酒店。
次のT字路に合わすと土壁の民家、郵便局前には白壁の民家が目を引く。(直進して坂道
を上がる。)
峠越えをするとやや右へカーブしながら下って行く。
大正期には鍛冶屋、呉服店、家具製造などの商家が並んでいたとのこと。
伝統的な建物は平入りで、明治から昭和戦前のものと思われる。(正面の山は須佐高山)
国道191号線を横断して本町筋に入る。
安土桃山期の1569(永禄12)年開基とされる教専寺(浄土真宗)は、江戸期には江崎村
の本陣を務めた。
本町には伝馬船が川を上り、荷が蔵や二階などに運ばれ、商家や旅籠が並んでいたとさ
れる。
中本本店は度量衡器の販売・修理業とともに金融業などを営んでいたとのこと。隣には
船宿兼薬業の大正館、今も営業されている山根菓子店と続いていた。
道は鉤の手となっているが、左手付近には米屋、蒲鉾屋などがあった。
正面に元江崎郵便局、右手に按摩、金物店、石材店があった。
壁に「み」がある三亀料理店兼旅館。
看板建築の商家は酒屋さんだったようだ。
廻船問屋で浦年寄も務めた旧田村家(屋号大中屋)の建物である。中二階建ての主屋に平
屋建てが接続されているが、殿様が宿泊されるので増築されたと伝える。明治期に豊田家
の手に移り、長く酒造業を営まれた。
中町戎通り(旧恵比寿町)の海岸沿いには蔵が並び、直接、荷が運び込まれていた。道路
を隔てた向かい側には商店が軒を連ねたという。
「やきもちや」は若松商店といい、古くから地域の台所を支えてきた食料品店である。
町並みを構成する各々の建物は、漁師の住居が主であったようだが、現在は新しい建物
に変りつつある。(西町付近)
西堂寺入口にあった田村酒店。
旧田万川町のシンボルマークである魚の「たま坊」と、小川地域の名産「桃」の「ふる
ふる」をデザインしたマンホール蓋。
1682(天和2)年の「江崎地蔵堂記」によれば、須佐路村鍋山の長者の娘(15歳)が、
9月24日に2里ほど離れた江崎の磯辺で海中に落ちた。波間に遺骸が得られず、村人な
どが網を入れて探したところ、地蔵菩薩1尊が波底に動き、娘が菩薩に化身したのであろ
うと地蔵菩薩を島に安置した。長者の没後、妻は妙清尼と号して江崎湾の浮き島に御堂を
建てて菩提を弔ったと伝えている。(諸説あり)
西堂寺(曹洞宗)は室町期の応永年間(1394-1428)に建立されたと伝える。はじめは済度寺
と称していたが、江崎港の西突端の小島にあるため西堂寺と呼ばれるようになった。小さ
な島「浮島」には浮島橋が架けられている。
六角堂は港の入口で港を守っているかのごとく建っているが、1756(宝暦6)年に建立
されたもので、1868(明治元)年古材を生かして再建されている。
1889(明治22)年境内に「気象警報」と刻まれた石柱が立てられ、石柱には10m以
上の檜柱が取り付けてあった。台風や強風の時にはこの柱に長い籠、普通の風の時は丸い
玉籠が揚げられた。明治、大正、昭和と引き継がれ、1940(昭和15)年頃まで用いられ
たが、ラジオの普及で役目を終えたとのこと。
六角堂のクロマツは岩に大きく根を張り、枝下幹周り3mもある。
江崎港の地形ははU字形を描き、海岸線の西端に西堂寺、東端には厳島神社が湾を隔て
て向い合っている。(江碕大漁橋より)
厳島神社の社伝によると、創建は室町期の1534(天文3)年海上安全守護のため安芸の
厳島神社より勧請したとされる。もとは弁財天社と称していたが、後年に厳島神社と改称し
たが、地元では「江崎の弁天さま」と呼ばれている。
1829(文政12)年築とされる本殿。
土居弁天通りは漁師町で古い家屋が残っている。
造船、船宿、芝居小屋などがあったようだが、面影を見ることはできない。
小野家はもと浦年寄を務めた安江家の建物で、醤油・塩の製造で、網元でもあった。道
路に面して建つ主屋は、明和年間(1764-1772)の江崎大火後に建てられたと伝える。
江崎浦は中世には阿武郡18郷の年貢米をこの港から若狭国へ運搬したという。津波に
よる損壊のため下田万村内湊に移住したが、再びこの地へ召し寄せられたという。(地下上
申)
山陰本線と仏坂道が合わす付近に、旧田万崎村役場があったと地元の方に教えていただ
いたが距離もあって残念する。