ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩の江崎は入り江に西堂寺とU字型の良港

2020年03月06日 | 山口県萩市

        
        この地図は、国土地理位院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         江崎は三方を山に囲まれ、北方は湾入する江崎湾に面する。漁業を中心とした地域で、
        国道191号線が南面を東西に走る。地名の由来は、往古には江津と称したが、隣村の須
        佐村に大江津という小村があり、まぎらわしいので入江の崎の浦であることから江崎に改
        められたという。(歩行約4㎞)

        
         JR江崎駅は、1928(昭和3)年3月飯浦~須佐間延伸時に開業する。1933(同8)
        年2月に山陰本線が全線開通した後、駅前に人家が集まったが今は閑散としている。

        
         相対式ホーム2面2線で跨線橋があったが、老朽化のため撤去されて駅舎側のホームだ
        けが使用されている。

        
         駅通りは空地が目立つ。

        
         T字路で仏坂道と合わすが、この道は海岸線を萩から益田へ至るが、長い道程と難所が
        多くて利用度は低かったようだ。もう一つの萩から福栄、弥富経由する土床道が多く利用
        されたとのこと。

        
         右折して峠に向かうと右手に横田酒店。

        
        
         次のT字路に合わすと土壁の民家、郵便局前には白壁の民家が目を引く。(直進して坂道
        を上がる。)

        
        峠越えをするとやや右へカーブしながら下って行く。

        
         大正期には鍛冶屋、呉服店、家具製造などの商家が並んでいたとのこと。

        
         伝統的な建物は平入りで、明治から昭和戦前のものと思われる。(正面の山は須佐高山)

        
         国道191号線を横断して本町筋に入る。

        
         安土桃山期の1569(永禄12)年開基とされる教専寺(浄土真宗)は、江戸期には江崎村
        の本陣を務めた。

        
         本町には伝馬船が川を上り、荷が蔵や二階などに運ばれ、商家や旅籠が並んでいたとさ
        れる。

        
         中本本店は度量衡器の販売・修理業とともに金融業などを営んでいたとのこと。隣には
        船宿兼薬業の大正館、今も営業されている山根菓子店と続いていた。

        
         道は鉤の手となっているが、左手付近には米屋、蒲鉾屋などがあった。

        
         正面に元江崎郵便局、右手に按摩、金物店、石材店があった。

        
         壁に「み」がある三亀料理店兼旅館。

        
         看板建築の商家は酒屋さんだったようだ。

        
         廻船問屋で浦年寄も務めた旧田村家(屋号大中屋)の建物である。中二階建ての主屋に平
        屋建てが接続されているが、殿様が宿泊されるので増築されたと伝える。明治期に豊田家
        の手に移り、長く酒造業を営まれた。

        
         中町戎通り(旧恵比寿町)の海岸沿いには蔵が並び、直接、荷が運び込まれていた。道路
        を隔てた向かい側には商店が軒を連ねたという。

        
         「やきもちや」は若松商店といい、古くから地域の台所を支えてきた食料品店である。

        
         町並みを構成する各々の建物は、漁師の住居が主であったようだが、現在は新しい建物
        に変りつつある。(西町付近)

        
         西堂寺入口にあった田村酒店。

        
         旧田万川町のシンボルマークである魚の「たま坊」と、小川地域の名産「桃」の「ふる
        ふる」をデザインしたマンホール蓋。

        
         1682(天和2)年の「江崎地蔵堂記」によれば、須佐路村鍋山の長者の娘(15歳)が、
        9月24日に2里ほど離れた江崎の磯辺で海中に落ちた。波間に遺骸が得られず、村人な
        どが網を入れて探したところ、地蔵菩薩1尊が波底に動き、娘が菩薩に化身したのであろ
        うと地蔵菩薩を島に安置した。長者の没後、妻は妙清尼と号して江崎湾の浮き島に御堂を
        建てて菩提を弔ったと伝えている。(諸説あり)

        
         西堂寺(曹洞宗)は室町期の応永年間(1394-1428)に建立されたと伝える。はじめは済度寺
        と称していたが、江崎港の西突端の小島にあるため西堂寺と呼ばれるようになった。小さ
        な島「浮島」には浮島橋が架けられている。

        
         六角堂は港の入口で港を守っているかのごとく建っているが、1756(宝暦6)年に建立
        されたもので、1868(明治元)年古材を生かして再建されている。

        
         1889(明治22)年境内に「気象警報」と刻まれた石柱が立てられ、石柱には10m以
        上の檜柱が取り付けてあった。台風や強風の時にはこの柱に長い籠、普通の風の時は丸い
        玉籠が揚げられた。明治、大正、昭和と引き継がれ、1940(昭和15)年頃まで用いられ
        たが、ラジオの普及で役目を終えたとのこと。

        
         六角堂のクロマツは岩に大きく根を張り、枝下幹周り3mもある。

        
               江崎港の地形ははU字形を描き、海岸線の西端に西堂寺、東端には厳島神社が湾を隔て
        て向い合っている。(江碕大漁橋より)

        
         厳島神社の社伝によると、創建は室町期の1534(天文3)年海上安全守護のため安芸の
        厳島神社より勧請したとされる。もとは弁財天社と称していたが、後年に厳島神社と改称し
        たが、地元では「江崎の弁天さま」と呼ばれている。


        
         1829(文政12)年築とされる本殿。


      
        
         土居弁天通りは漁師町で古い家屋が残っている。

        
         造船、船宿、芝居小屋などがあったようだが、面影を見ることはできない。
 
        
         小野家はもと浦年寄を務めた安江家の建物で、醤油・塩の製造で、網元でもあった。道
        路に面して建つ主屋は、明和年間(1764-1772)の江崎大火後に建てられたと伝える。

        
         江崎浦は中世には阿武郡18郷の年貢米をこの港から若狭国へ運搬したという。津波に
        よる損壊のため下田万村内湊に移住したが、再びこの地へ召し寄せられたという。(地下上
        申)

        
         山陰本線と仏坂道が合わす付近に、旧田万崎村役場があったと地元の方に教えていただ
        いたが距離もあって残念する。            


萩市の中小川に旧小川村役場と澄川酒造場

2020年03月06日 | 山口県萩市

        
        この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         中小川(なかこがわ)は四方を山に囲まれ、中央部を田万川が横切り、これに沿って水田が
        開け、主要県道沿いに民家が集中する。
         明治時代になると上小川東分、上小川西分、中小川、下小川の4ヶ村に分けられたが、
        1889(明治22)年の町村制施行により、再び1村になったという歴史を持つ。この地
        域の中心は中小川のようで、農協、商店、酒造場などがある。(歩行約2㎞)

        
         田万川地域生活バスが運行されているが、便数が少ないため車利用とし、中学校前バス
        停(学校は2003年統合される)付近の路肩に駐車する


        
        
         この地に奈古高等学校小川分校があったが、1969(昭和44)年に閉校する。

         
         2013(平成25)年7月の豪雨災害の爪痕が残り、原中川を中心に復旧工事が行われて
        いる。(旧小川郵便局付近)

        
         中心部には日常生活を支える農協の小川生活センターがある。

        
         生活センターと原中川の間に“東洋美人”の銘柄で知られる澄川酒造場がある。銘柄名
        は亡き妻を想い、初代当主が名付けたとされる。
         この酒造場も豪雨災害で壊滅的な被害を受けたが、3階建ての新酒蔵も完成し復興され
        ている。

        
         1890(明治23)年に開庁した旧小川村役場の建物が老朽化したため、1932(昭和7)
        年に新築された。

        
         1995(平成7)年外観の修理が行われて新旧入り乱れた外観となっているが、寄棟屋根
        の中央には腰折れの切妻屋根が設けられている。木造モルタル塗りの建物には人造洗い出
        しの腰壁、玄関ポーチにタイルを使用するなどモダンな造りとなっている。

        
         正面中央上に「小川」の村章が取りつけてある。

         
         1・2階の窓を連続して囲む窓枠が設けられ、窓枠内部の胴部分には装飾が施されてい
        る。


        
         張り出し部分の右側は村長室と応接間、左側は戸籍など重要書類を保管する記録庫。

        
         1956(昭和31)年江崎町と合併し田万川町になった後は、小川支所して使用された。
        1978(昭和53)年からは阿北農協本所として使用されたが、現在は傷みがひどく使用
        されていない。

        
         旧村役場の裏手に小さな社。

        
         地元の方によると、旧中小川小学校校舎だったと思うが定かでない。保育園として使用
        されていたが、今は第1区公会堂とのことであった。

        
         改造されて面影は失われているが、廊下と教室だった雰囲気が残る。

        
         生活センター前が三明(みあけ)バス停。

        
         第1区公会堂の隣にある民家の土蔵は、置き屋根方式ではないようだ。

        
         警察派出所とJA給油所を過ごすと県道に合わす。ここにも「三明バス停」があるが、
        災害復旧工事のための臨時バス停のようだ。

        
         小川小学校前を右折して田万川を渡る。

        
         2級河川の田万川は萩市と阿武町の境を源とし、多くの支流を集めながら日本海に注い
        でいる。

        
         山裾に沿って民家が並ぶ。

        
         田万川右岸は水田のみである。

        
         地名の由来について風土注進案は、「村名について格別な言い伝えもないが、大河があ
        るから出たものか」とする。阿武郡の大河というのは萩の川で、この田万川はそれに次ぐ
        小川の意からと考えられるとのこと。

        
         周回して駐車地に戻る。