ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

近江商人発祥地の五個荘 (滋賀県東近江市)

2019年10月08日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         五個荘は滋賀県の中央部、湖東平野の中央に位置し、三方を山に囲まれ東に愛知川が流
        れる。南部を中山道と国道8号線、東海道新幹線が走る。(歩行約3.8㎞)

           
         金堂集落の東1.5㎞にある近江鉄道・五箇荘駅は、構内のすぐ南を東海道新幹線が交差
        し、西側の米原方面ホームと東側の貴生川方面ホームは構内踏切で結ばれている。

           
         1899(明治32)年小幡駅として開業するが、1910(明治43)年に200m南に移転
        し、五個荘駅に改称する。駅舎は老朽化で解体され、しばらくは駅舎がなかったが、20
        06(平成12)年に現駅舎が完成する。近江商人発祥地・五個荘の景観に合わせた瓦葺の木
        造平屋建てである。 

           
         駅通りを直進すると、旧中山道に合わし右折する。

           
         交差点には中山道と御代参街道の分岐を示す小幡の道標がある。享保3年丁酉(1718)に
        建立されたもので、「右 京みち」「左 いせ ひの八日市みち、」と刻まれている。

           
         旧中山道を左折する角に、1948(昭和23)年創業の中澤酒造がある。

           
         左に長宝寺を過ごし、大同川、国道8号線を横断すると、宮荘バス停先に近江商人屋敷
        「藤井家」が案内されている。(旧中山道分岐から約550m)

           
         案内に従って左折すると、約100m先に藤井邸がある。開館は9時であったが、開館
        時間前にもかかわらず入館させていただく。

           
         石畳の奥に洋風の門を構える邸宅は、「スキー毛糸」の製造販売などで成功を収めた藤
        井彦四郎が、故郷に迎賓館を兼ねて建てたとされる。23歳で分家して、1907(明 治4
          0)
年に藤井糸店を創業する。


           
         洋館はログハウス風の外観となっている。藤井彦四郎が産業視察のため欧州を訪れた際、
        スイスの山小屋に魅せられて建てたとされる。

           
         正面に和風の客殿、右側には京都に移るまで藤井彦四郎が、生活の本拠とした江戸時代
        創建の主屋が建っている。


           
         客殿は3室が続き間になった総檜造の平屋建書院造で、庭園に面して広い縁側を廻して
        いる。
       

           
         皇族など貴賓を迎えた書院座敷。

           
         2015年の映画「日本のいちばん長い日」で、陸軍大臣・阿南惟幾の自宅として撮影
        が行われた洋館。

           
         書道文化と世界を学ぶ博物館「観峰館」は、6階建てで中国の建築様式である四合院に
        倣った造りとなっている。

           
         竜田神社の先を右折し、JA前を左折すると五個荘小学校前。

           
         五個荘小学校の校門。

           
         左手に近江商人博物館を見ると、右手の祭・馬場通り角に石柱がある。「海老塚一本松
        跡地」とあるが、金堂と竜田との村境にあり、古くは天神塚と呼ばれていた。

           
         祭・馬場通りの右手に地蔵堂。

           
         厩戸王子の創建と伝えられる大城神社は、近江八幡の安土町にあった観音寺城の鬼門に
        あたり、守護神として崇敬された。五個荘の総鎮守とされ、祭りは近江商人の旅姿で行わ
        れるようだ。


           
         日若宮神社は大城神社の境内社。

           
           
         祭・馬場通りの左側に並ぶ近江商人の本宅跡群。

           
         安福寺(浄土宗)は創建・開基共に不明だそうだが、集落の中心に位置し、金堂の始まり
        の寺と伝えられる。他の寺院とは趣が違う構造である。

           
         堂中通りを直進する。

           
         あきんど通りの佇まい。(左手の寺院は勝徳寺)

           
         勝徳寺(浄土真宗)の向いに、江戸期には大和郡山藩の陣屋が置かれ、1871(明治4)
        
の廃藩置県後、藩の長屋門は勝徳寺へ移築されたと伝える。


           
         あきんど通りと花筏通りとの交差点。

           
         交差点に手前右手にある蔵造り。

           
         左手には大正時代から戦前まで朝鮮半島や中国に百貨店を開設し「百貨店主」と呼ばれ
        た中江準五郎邸がある。

           
         通りの名前は、近江商人を題材に書いた外村繁の小説「花筏」に由来するのだろうか。

           
         東京・横浜・京都などに支店を有し、呉服類の販売を中心に商圏を広げた外村宇兵衛の
        屋敷。屋敷は家業の隆盛と共に数次の増改築を重ね、主屋・書院・大蔵など十数棟が建ち
        並んでいる。

           
         玄関を入ると屋敷内に水路を引き込み、屋根付きの洗い場となった川戸がある。

           
         主屋は1860(万延元)年築。

           
         長い土間。

           
         中継表(なかつぎおもて)という畳で、若い良質のい草を使って両側から継ぎ合わせた畳で、
        キメ細かく弾力性と光沢があり、150年間も使われているとのこと。

           
         近江商人は江戸や京都で成功しても、本宅は五個荘に建て、盆や正月には必ず帰郷した
        という。

           
         てんびんは10㎏の重さがあり、商品の見本を持ち歩いて行商した。

           
         4代目外村宇兵衛の妹(みわ)に婿養子を迎えて分家したのが外村繁家の始まり。外村繁
        は1902(明治35)年に三男として生まれるが、長兄が本家に養子、次男が病没のため
        跡取りとなるが、1933(昭和8)年に家業を弟に譲って文学の道に入る。

           
         五個荘商人の本宅として家族や番頭、女中が生活の場とした。

           
          座敷は来客の接待場として利用された。

           
         1935(昭和10)年に「草筏」が第1回芥川賞候補となり、以後、「筏」で野間文学賞、
        「花筏」など数多くの作品を残し、1961(昭和36)年に59歳で逝去。

           
         寺が並ぶ通りの水路には鯉が泳ぎ、五個荘金堂の代表的な場所の1つである。(浄栄寺)

           
         豊かな水が流れる水路。

           
         幅の広い通りには白壁と水路が続く。

           
         弘誓寺(ぐぜいじ)の創建は、1290(正応3)年那須与一の孫とされる愚咄坊の開基と伝わ
        る。大きな大屋根のある本堂は、1764(宝暦14)年頃に建立されたもので国重要文化財。

           
         水路沿いに寺の鐘楼、表門、土塀、太鼓楼が並ぶ。

           
         てんびん通りにも舟板塀。

           
         朝鮮と満州及び中国で三中井百貨店を展開していた中江4兄弟の3男・富十郎の邸宅。
        現在はまちなみ保存会がまちなみ保存交流館として活用している。

           
         近江商人が商売の心得としたのが「三方よし」、すなわち「売り手よし、買い手よし、
        世間よし」の精神だった。三方よし前バス停からJR能登川行きのバスを利用する。


彦根は城を中心とした江戸期の景観が残る町 (滋賀県彦根市)

2019年10月08日 | その他県外

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         彦根は県の中央部、湖東平野の北部に位置し、西北部はびわ湖に面する。中心市街地は
        芦川のデルタに建設された城下町で、第二次世界大戦の戦災を免れたため、今なお城下町
        の古い景観を残している。(歩行約4.8㎞)

        
         JR彦根駅は、1889(明治22)年関ヶ原から膳所間が開通すると同時に開業する。近
        江鉄道の電車も乗り入れ、1981(昭和56)年には駅本屋が完成し、都市の主要駅らしさ
        を具える。

        
         お城通りにある彦根信金前を右折すると中村商家保存館。1622(元和8)年に彦根城が
        完成した頃とほぼ同じ時代に、現在の地に本家から分かれて酒造業を始めたとされる。
         家屋は老朽化と湖東北部地震の影響もあって大改修されたが、江戸期の建物様式が残さ
        れた。現在は期間を限定して内部公開されている。

        
         駅前・お城通り。

        
         中堀に出ると佐和口多聞櫓。

        
         この付近は中級武士の屋敷があったところで、東を正面とし南は中堀に面している。池
        田家は大坂の陣以前は、「伊賀者」として井伊直政に取り立てられた忍者の家で、後に士
        分となり、この地に居を構える。長屋門の規模は桁行19.7mの木造一重、屋根は入母屋
        造り、壁は簓子(ささらこ)下見板張りが施されている。

        
         中堀と外堀の間は、武家地と町家が混在する地域であった。第13代藩主となる井伊直
        弼は、17歳から32歳までの16年間をここで過ごすが、一生部屋住みとして生きるこ
        とを覚悟して「埋木舎」と名づけた。

        
         中堀の東面、「いろは松」に沿った登城口が佐和口であり、その枡形を囲むように築か
        れているのが佐和口多聞櫓。1767(明和4)年に火災で類焼し、現在の建物は1769(明
        和6)年から8年かけて再建された。(国重文)

        
         佐和口は中堀に開く4つの口の1つで、かっては中堀に接して高麗門があり、その内側
        を鍵の手に曲げて櫓門が築かれていた。

        
         日本で唯一現存する城郭内の馬屋。21頭もの馬を収容することができ、全国でも最大
        規模のものとされる。8代藩主・直定はとくに馬術を好み、藩士も250石以上のものは
        馬扶持されたとある。(国重文)

        
         明治初期の写真等から2004(平成16)年に再現された表門橋。

        
         表門から坂を上がって行くと橋が見えてくる。この橋を中央にして右手に建てられてい
        るのが天秤櫓で、左手が鐘の丸。堀切に架かる橋は「廊下橋」と呼ばれ、非常時には落と
        し橋となる。

        
         橋東側の石垣は自然石を積み上げた「牛蒡積み」で、西側は、1854(嘉永7)年に積み
        替えられた「切石積み」となっている。

        
         左右に2階櫓を設け、均衡のとれた美しい城門は、天秤のような形をしていることから
        天秤櫓と呼ばれる。

        
         長浜城大手門を移築したといわれる。

        
         太鼓門櫓への階段。

        
         城全体に響くようにと鐘の丸から移されたもので、今も定時に鐘が突かれている。(時
        報鐘)

        
         本丸への最後の関門となる櫓で、城中に合図する太鼓が置かれていたことから太鼓門櫓
        と呼ばれた。他の城もしくは寺の門を移築したものとされる。

        
         門を潜って見返ると東側には壁はなく、柱の間に高欄を設けて音を響かすようにしてい
        る。

        
         千鳥破風,唐破風,花頭窓などの意匠を凝らす天守は、井伊家14代が居城した城であ
        る。外観だけでなく城本来の機能にも優れているとされる。(国宝)

        
         1604(慶長9)年より着工し、20年の歳月をかけて築城された。天守はは関ヶ原合戦
        で西軍の猛攻撃を受けながらも、落城しなかった大津城の天守を移築したとされ、2年足
        らずで完成したとされる。(城郭の完成は1622年)

        
         明治維新後の彦根城は、他の多くの城と同じく取り壊される予定であった。しかし、1
        878(明治11)年に明治天皇が北陸巡幸中、参議・大隈重信の進言により廃城を免れたと
        いう。

        
         2つの急階段を上がれば最上部に出る。

        
         あいにくの天候で眺望はよくないがびわ湖が望める。

        
         彦根の町並みが一望できる。(正面に駅前お城通り)

        
         着見櫓跡から西の丸の石垣群とびわ湖。

        
         西の丸への道は、牛蒡積みと呼ばれる石垣の上に、三階三重の天守がそびえている。

        
         黒門から西の丸への入口に設けられた城門跡。

        
         井戸曲輪は小さな曲輪であるが、黒門から侵入する敵兵に対する防御と、城内で守備す
        る兵士の生命維持するため、物品などが備蓄された重要な曲輪であったとされる。水は石
        組み溝で集められた雨水を浄化して、貯水する仕組みであった。

        
         黒門跡。

        
         玄宮園の長い塀が続くが、城主の日常生活の場(槻御殿)に隣接して、接客饗応のための
        庭園としてつくられた。雨で時間を費やしてしまったため見学を残念する。

        
         内堀を巡ると御表門跡に出る。

        
         広小路沿いには、家老・脇家のなまこ壁長屋門の一部が残されている。

        
         京橋方向へ進むと右手に旧西郷屋敷長屋門がある。西郷家の初代は徳川家康に仕えてい
        たが、1582(天正10)年に家康の命により井伊直政の付家老となり、幕末まで仕えて同
        じ土地で替地はなかったとされる。

        
         彦根城は中堀に面して4つの城門を開いていた。その1つが京橋口門である。桝形には
        中堀に接して高麗門があり、内側には石の階段(雁木)が設けられ、多くの兵が一度に多聞
        櫓を駆け上がれるように造られている。

        
         中堀に出る。(京橋より)

        
         京橋を渡ると正面には、白壁と黒格子の町屋風に統一された夢京橋キャッスルロードと
        なっている。

        
         旧鈴木家長屋門は、彦根城の中堀に面した第三郭に建っている。主屋などすべてが取り
        壊され、長屋門のみ現存している。中間や女中の部屋ほか、馬屋や物置として利用された。

        
         中堀沿いの松並木で、江戸時代は「松の下」と呼ばれていた。当時47本の松が植えら
        れていたことから、いろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになった。

        
         JR彦根駅に戻る。   


近江八幡は八幡堀など風情が残る町 (滋賀県近江八幡市)

2019年10月07日 | その他県外

        
            この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         近江八幡は白鳥川右岸の平野部に位置し、北に八幡山があり、東西に八幡川が流れる。
        地名は氏神の祭神名に由来する。(歩行4.5㎞)

        
         JR近江八幡駅から近江鉄道バス長命寺線に乗車して、小幡上筋バス停で下車する。

        
         小幡町通りから上筋に入り、案内を見て右折すると池田町洋館街。

        
         1913(大正2)年旧ウオーターハウス邸の隣に建てられたのが旧吉田邸である。ここに
        住んだ吉田悦蔵氏(1890-1942)は、ウイリアム・メデル・ヴォーリズが教師として赴任した
        滋賀県立商業高校の生徒であった。
         吉田の卒業と同時にヴォーリズは学校を解雇されるが、恩師が近江八幡に留まって「神
        の国」建設に尽くそうとする熱意に打たれ、ヴォーリズと共に活動を始めた。1910(明 
        治43)年3人で「ヴォーリズ合名会社」を設立、さらに翌年には「近江基督教伝道団(近江
        ミッション)が結成される。吉田はその中核として働きに加わり、ミッションを発展させて
        ゆく。その後の「近江兄弟社」設立に大きく貢献し、あらゆる面でヴォーリズの片腕となっ
        た。
         「近江兄弟社」の社名由来は、創業者のヴォーリズが愛した「近江」と、クリスチャン精
        神に基づき、目的に向かって心を一つにする仲間(兄弟)という意味を込めて命名された。
        
         1921(大正10)年築の建物はコロニアルスタイルの2世帯住宅で、近江ミッション
        (近江兄弟社の前身)の米国人スタッフ用の住宅として建てられた。

               
        
         「御坊さん」と親しまれている本願寺八幡別院は、1558(永禄元)年に本願寺第11代
        顕如上人が、近江国の蒲生野に創建した金台寺を前身とする。織田信長の寺地寄進により
        安土城下に移転し、1585(天正13)年豊臣秀次が八幡山に築城し、八幡城下町の開町に
        ともない、安土から移築された。1876(明治9)年に八幡別院に改称されて今日に至る。

         現在の本堂は1716(享保元)年、表門は1767(明和4)年に建立され、別院周囲には
        堀が廻されている。

               
        
         寺内小町を進むと京街道という通りに出る。ここを右折して市の中心地へ向かう。

        
         八幡池田郵便局の先に御菓子司「紙平老舗」がある。看板右には初代の紙屋平兵衛名が
        記されているが、紙平は初代が紙と平をとって紙平にしたとか。

        
         扇屋(伴家)に奉公していた中村四郎兵衛が、屋号の一字を譲り受け「扇四呉服店」と称
        して、1720(享保5)年に当地で開店した。

        
         街道をそのまま直進すると資料館前に街道碑がある。徳川幕府の将軍就任に対して祝辞
        を述べるために、朝鮮から派遣された使節(朝鮮通信使)が通行したことに由来する。

        
         海外で活躍した近江商人・西村太郎右衛門宅跡に、1886(明治19)近江八幡警察署
        が建設される。
         1953(昭和28)年に建物は改築されたが、1974(昭和49)年に市が譲り受け、郷土
        資料館として開設する。

        
         京街道と新町通りの角に建つ旧伴家住宅。

        
         屋号は「扇屋」といい、麻布、畳表、蚊帳を商う。今に残る建物は、7代目伴庄右衛門
        能尹が本宅として、1827(文政10)年より13年の歳月をかけて建築したものである。

        
         繁栄を誇ってきた伴家も、明治維新などの激動期に逆らえず、1887(明治20)年に終
        焉を迎える。

        
         伝統的建造物物群保存地区(新町通り)

        
         初代森五郎兵衛は伴伝兵衛家に勤め、別家を許されて煙草や麻布を商いとした。やがて、
        呉服、太物など取り扱い商品を増やし、江戸日本橋などに出店を持つようになる。(建物は
        非公開)

        
         コの字型の伝建地区には、江戸・明治の建物が1/4を占めているとされる。町家の外観
        枠組みは平屋、中二階、高二階のタイプが混在する。

        
         2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし、蚊帳、綿、砂糖、扇子などを商いとする。
        建物は江戸中期の建物で、左側に座敷部分が張り出し、他にも「でみず間」「化粧間」「
        表土蔵」などがある規模の大きい町家である。(非公開)

        
         西川利右衛門家は屋号を大文字屋と称し、蚊帳(かや)や畳表を商い、江戸、大坂、京都に
        出店を構える。

        
         建物は3代目によって、1706(宝永3)年に建てられたもので、1985(昭和60)年に
        保存修理が行われ、建築当初の形に復元された。(国登録重要文化財)

        
         1930(昭和5)年に後継者が無いまま11代目が亡くなり、約300年にわたって活躍
        した西川家は終焉を迎える。

        
         新町通り。

        
         新町通りから浜と呼ばれる船着場まで近江商人の町並みが続く。

        
         白壁と八幡堀、そろばん玉の暖簾と桜がデザインされたマンホール蓋。

        
         「ふとんの西川」の祖とされる西川甚五郎邸。

        
         1877(明治10)年に八幡東学校として建築された白雲館は、貴重な擬洋風建造物であ
        る。近江商人が子どもの教育充実を図るため、その費用のほとんどが寄付で賄われた。
         学校として使用された後は、役場、郡役所、信用金庫等を経て、1994(平成6)年に建
        設当時の姿に復元される。 

        
         白雲館の正面に日牟礼八幡宮参道。

        
         八幡堀には多くの蔵が立ち並び、蔵と蔵の間には石段がある。(明治橋からの八幡堀)

        
         荷物を積み下ろしする際に使った船着場も残されている。

        
         白雲橋からの八幡堀。


        
        
         日牟禮八幡宮の由緒によると、弥生期の131(成務天皇元)年に成務天皇が即位の折に創
        建され、平安期991(西暦2)年宇佐
八幡宮の神霊を勧請したとされる。全国的に有名な左
        義長まつり(小正月に行われる火祭り)が行われるが、朱印船乗務員としてベトナムに渡航
        した西村太郎右衛門は、鎖国令のため帰国を残念し、当八幡宮に絵馬を奉納している。

        
         八幡山ロープウエイで八幡城址に上がり、おねがい地蔵堂の傍を抜ける。

        
         1568(永禄11)年に豊臣秀次は秀吉の姉の子として生まれ、ここに八幡城を築き、城
        下町して繁栄の礎を築く。秀吉の養子となり関白になるが、淀君の子が誕生すると、15
        95(文禄4)年後継者を巡り自害させられる。(西の丸跡)

        
         西の丸跡よりびわ湖。

        
         1585(天正13)年に築城された八幡山城は、石垣のみが残されている。

        
         北の丸跡から安土城址方向が望める。

        
        

         八幡山城の本丸跡にある瑞龍寺(日蓮宗)は、豊臣秀次の母であった日秀尼(にっしゅうに)
        が、1596(慶長元)年秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇からの寺号と京都村雲の地を賜
        わり、村雲御所が創建される。(山号はなく御所号を冠する)
         1961(昭和36)年秀次ゆかりの八幡山城本丸跡に寺地を移す。 

        
         眼下南側には碁盤の目状に区画された近江商人の町並みが広がる。

        
         堀沿いでは「蔵と柳、橋と水」の風情が楽しめる。

        
         かわらミュージアムへは舟橋を渡る。

        
         日本国内では3つ(今治、三豊、近江八幡)しかない瓦専門の展示館。八幡瓦を中心に展
        示紹介されている。

        
         1909(明治42)年に特定郵便局として活動を始めて、1921(大正10)年にはヴォー
        リス氏によって増築設計が行われる。スパニッシュスタイルの和洋折衷、寄棟屋根を持つ
        ヴォーリズ初期の貴重な建物とされる。

        
         「NPO法人ヴォーリス建築保存運動・1粒の会」の手により再生された。

        
      
   旧岩瀬邸などのヴォーリズ建築もあったが、時間の関係で大杉町バス停より駅へ戻る。
        JR近江八幡駅は市の中心から2㎞も離れているが、開業当時、町の人々は鉄道を嫌った
        のが原因とされる。 


下松市花岡は八幡宮の門前町と旧山陽道 

2019年10月04日 | 山口県下松市

        
       この地図は、国土地理院丁長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         花岡は平田川上流域および末武川下流域に位置する。地名について風土注進案は、八幡
        山に花
が咲く大木があり、その香りが村中に満ちたことによるとあるが、現在の八幡宮が
        「端の岡」にあったことから出たとされる。(歩行 約2.8㎞)

           
         1987(昭和62)年地元の請願によって新設されたJR生野屋駅駅は、JR周防花岡駅
        までは約1.9㎞の距離である。

           
         創建時は尊城寺と称していたが、1640(寛永17)年に教應寺となる。徳山藩より手
        厚い加護を受け、敷地は狭いが立派な鐘楼門と本堂がある。
         「何も知らずに生まれ出て 知らぬ間に歳をとり 思わぬ病気で死んでゆく 人の一生
        この道は 逃げもかくれも出来ぬ道」とある。

           
         萩藩領と徳山藩領生野屋村の境界は、花岡医院と小川(時宗川)の中間地点に石橋があっ
        たとされるが、明確な位置を見つけることができなかった。(時宗川付近)

           
         古民家も無住のためか崩壊の途にある。

           
         花岡宿では上原(醤油)、中村()、礒村(衣料)、藤井(蝋燭)、金藤(味噌)などが、商家
        として財をなしたとされる。


           
         花岡脇本陣(武弘家)は現在の花岡医院にあったとされ、武弘太兵衛の日記には、下田で
        の密航に失敗した吉田松陰と金子重輔が、江戸から駕籠護送されたことが記されていると
        か。

           
         1650(慶安3)年に萩藩は当地の本藩領5ヶ村を都濃宰判の所管とし、花岡に代官所(
        場)と隣接して本陣(御茶屋)を置いた。
        
        
         1651(慶安4)年開基とされる法静寺(浄土宗)がある。

           
         法静寺境内の左手に花岡福徳稲荷大明神があり、11月3日には五穀豊穣を願う稲穂祭
        では、イベントの「きつね
の嫁入り行列」が行われる。
         1724(享保9)年に住職が徳山からの帰りに数珠を失くしてしまい、その夜、住職の枕
        元に白いきつねの夫婦が現れ、「どうか私たちを人間と同様に葬ってください。葬ってい
        ただければ、数珠を見つけて村人をお守りしましょう」と言い、自分たちが倒れた場所を
        告げたという。住職が目を覚ますと、枕元には数珠が置かれていた。早速、きつねが示し
        た場所に住職が訪れると、そこには2体の白きつね夫婦の亡骸があり、住職は手厚く葬り
        供養した。それ以後、災難
を避ける功徳を授かったとされる。
         戦後、きつねの伝承から嫁入り行列が考案されたという。

           
         花岡は中世以後も山陽道の宿駅の1つとして栄えた。1592(天正20)年4月16日に
        は九州下向の豊臣秀吉が、この地に宿泊したとされる。

           
         1900(明治33)年創業の金分銅酒蔵は、槽(ふね)を使って酒をしぼるという、昔から
        の造り方にこだわった酒造りがなされているとのこと。

           
         八幡宮参道に入ると、恵比寿社、酒蔵、分金銅本店と記された高い煙突が聳える。

           
         神橋(太鼓橋)の先に閼伽井(あかい)坊と花岡八幡宮がある。

           
         参道右手には花岡八幡宮の由来を書いた石碑があり、亀が背中で大きな碑を必死で支え
        ているように見える。
         亀の形をした台座のことを亀趺(きふ)といい、中国の故事にいう贔屓(ひいき)で竜の第一
        子とされ、重いものを背負うことを好むことから石碑の台となる。(1814年建立)


           
         閼伽井坊は、709(和銅2)年宇佐八幡の分霊を祀った花岡八幡宮の社坊9ヶ寺の内、現
        存する唯一の寺である。山門は地蔵院が
廃寺される際、その山門を移設したとされる。

           
         閼伽とは、仏様に供える清浄な水のことで、古くは八幡宮や上下行の殿様の御用水にさ
        れた。
         また、この水を加持してもらえば万病に効くと伝えられ、今も魔耶窟の入口に湧き出て
        いる。

           
         石段を上がると閼伽井坊と花岡の町並み。
 
           
         八幡宮の楼門。

           
         勧請時は花岡上地にあったが、1489(長享3)年に現在地へ遷座する。

           
         藤原鎌足が創建したと伝わる日本16塔の一つで、現在のものは室町中期に再建されて
        いる。高さ13.7mの杮葺き
(こけらぶき)屋根の二重の塔は、繊麗な手法をもつ優美な建造
        物である。ここは閼伽井坊の境外飛地であったところである。(国重要文化財)

           
         社務所前には石造と木造を組み合わせた灯籠のようなものがある。

           
         石灯籠には幟のハタメキを抑えるための重石が詰め込まれている。

           
         花岡八幡宮の拝殿は重層となっている。

           
         JR周防花岡駅は、1932(昭和7)年5月29日岩徳西線開業時の暫定的な終着駅と
        して開業する。正面に飾り切妻(ドーマー)に駅名を掲げた洒落た造りである


下松市の久保市は旧山陽道沿いにある集落 

2019年10月04日 | 山口県下松市

        
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         久保市は笠戸湾に注ぐ切戸川の上流で、川と山陽道が交差する地に位置する。地名の由
        来は、周囲を高い山で囲まれた窪地であることによる。(歩行約3.3㎞)

           
         岩徳線は利便性が悪く、徳山駅前から岩国行きバスに乗車して二の瀬バス停で下車する。

           
         久保市へはバス停を引き返し、二の瀬交差点を横断して二の瀬集落に入る。

           
         集落入口は白壁の家が目印となる。

           
         どこにでもあるような家並みが続く。

           
         蛇行する切戸川を横断すると久保市である。

           
         久保市橋手前にある由加社は、備前国田の口(倉敷市児島)由加本社から、1805(文化
        )年6月熊毛郡呼坂に勧請された。1838(天保9)年久保市で大火があったとき、当地
        に勧請して防火の神としたところ、それまで度々あった火災が、その後は発生しなくなっ
        たという。

           
         拝殿の軒下には漆喰の鏝絵が施されている。

           
         木原邸には杉玉が下がっているが、酒造はされていないようある。

           
         二股となるが久保市(旧山陽道)は右手に続く。

           
           
         分岐の右手に恵比寿社がある。祠の下には幟のハタメキを抑えるための重石だろうか?

           
         1889(明治22)年の町村制施行により、切山、山田、来巻、河内村の4ヶ村が合併し、
        新村名は元来付近の中心地であった窪市(久保市)の名をとったもの
である。1953(昭和
          28)
年まで村役場が右手の地に置かれた。

           
         坂を上がって行くと左手に西蓮寺があるが、1610(慶長15)年に創建された浄土宗の
        お寺である。門前の「篤農家小林武作君之碑」は、山口県の米作改良に尽力した篤農家だ
        そうだ。

           
         左側にある灯籠は降松神社(妙見宮)の献灯で、妙見宮まで行けない人のために、ここか
        ら拝むための灯籠だったとのこと。小さな石柱には文字が刻まれているが判読できない。

           
         道が分岐する地点から岡市である。久保市は距離して400mほどであるが、山陽道の
        宿駅を兼ねており、東は呼坂、西は花岡に継いだ。

           
         地下上申では「往古は岡市に有り之、山田村之内に御座候得共、」とあるから、古く
        は山陽道沿いの市であったのかも知れない。

           
         坂を登り切った所に大きな自然石の燈籠(昭和9年3月建立)と、恵比寿社の小さな祠が
        ある。

           
         幾つかの交差点に出合うが西行する。

           
         峠から国道2号に接するが、すぐに街道は左手に分かれる。

           
         カヤトの中に戊辰戦争時の石造灯籠(慶応4年建立)が見られる。もとは国道付近にあっ
        たものが拡張工事で、この地に移設される。

           
         JR生野屋駅は、1987(昭和62)年地元の請願により新設開業した駅である。