ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

滋賀の長浜は琵琶湖北の城下町 (滋賀県長浜市)

2019年10月09日 | その他県外

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         長浜は姉川によって形成された扇状沖積平野に位置し、西は琵琶湖に面する。地名の由
        来は坂田郡誌によると「古之今浜なりしに天正2年、羽柴秀吉古城修築し、江北の政所と
        なし時、武運長久を祝し長浜と改む」とある。(歩行約4.8㎞)

        
         2006(平成18)年に完成した橋上駅のJR長浜駅は、初代駅舎をモチーフにデザイン
        された。

        
         駅西口から線路に沿うと旧長浜駅。現在は鉄道資料館として活用されている。

        
         1882(明治15)年完成の敦賀線の駅舎で、現存する開業当時の駅舎では最古である。
        東海道本線が全通するまでは、長浜ー大津間は連絡船が運行されていた。

        
         当時の待合室や出札口を人形で再現されている。

                
             中庭には旧長浜駅29号分岐器ポイント部(鉄道記念物)もある。

        
         この建物の裏側には、長浜の鉄道史に関する鉄道文化館があり、D51蒸気機関車、E
        D70型交流機関車が保存展示されている。

        
        文明開化を伝えるイギリス式駅舎の窓には、煉瓦がはめ込まれている。
      
        
         旧長浜駅の向かい側には、長浜の迎賓館「慶雲館」がある。1886(明治19)年実業家
        の浅見又蔵が明治天皇の京都行幸計画を知った際、航路から鉄道に乗り換える時間に滞留
        する施設がないことに気付く
。自ら所有する地に行在所を私費で建設したが、工事は同年
        11月3日から翌年の2月21日の朝に完成する。同日13時前に長浜港に到着され、同
        館で昼食休憩された後、13時45分の列車に乗車されたという。建物などは長浜市に寄
        贈されて一般公開されている。

        
         あさひ橋の先に長浜浪漫ビール。

        
         湖上交通の拠点だった長浜は、木造船の廃材を利用した舟板塀(壁)が見られる。舟板は
        水に浸けられていたので雨水などに強く、防火の役目も果たしている。

        
        四差路に「北こく道」と「下舟町」の標柱がある。

        
         玄関先に馬を繋いだという石「馬つなぎ石」が残されている。廻船問屋時代に荷物を運
        んで来た馬や、船から下ろした荷物を積む馬を繋いだとされる。

        
         北国街道筋に蔵の宿「旗籠(はたご)白忠」がある。江戸期に白木屋忠左衛門が創業した油
        問屋「白忠」の町家を宿に再生したという。

        
         北国街道を北進する。

        
         長浜幼稚園の地には、本陣を務めた吉川三右衛門の屋敷があったとされる。長浜は主要
        な参勤交代のルートから外れたものの、大名行列が通る際には、本陣として休憩所をを提
        供する。

        
         見どころの多い長浜の中で、古い町家が並ぶのは北国街道沿い。

        
         安藤家は賤ケ岳合戦で秀吉方に協力し、長浜の自治を委ねる「十人衆」として長浜の発
        展に尽力する。江戸期は十人衆の筆頭である三年寄として活躍する。明治以降は商人とな
        り呉服問屋を営む。

        
         北大路魯山人が長浜に逗留中に残した篆刻看板。九尺の一枚板に「呉服」と彫られてい
        る。

        
         1905(明治38)年から土蔵、本屋、書院と建てられ、1915(大正4)年に全館が完成
        する。「古翠園」と名付けられた池泉回遊式庭園は、どの部屋からも眺められるように設
        計されている。

        
         千鳥破風を載せた望楼は浄琳寺の太鼓櫓。もとは天台宗だったが小谷城落城後、尊勝寺
        から移転する。街道に面して門があるが非公開のため閉ざされている。

            
         黒壁7號館古美術の西川(手前)と、隣は8號館の翼果楼。

          
         札ノ辻の東北角に建つ黒壁ガラス館は、1900(明治33)年築の第百三十銀行長浜支店
        の建物で、その壁が黒塗りだったので「黒壁銀行」と呼ばれていた。

        
         市街地の中心部を東西に走る大手門通り。

        
         「長浜のっぺいうどん」は長浜付近で昔から親しまれている郷土料理で、出汁に片栗粉
        を混ぜた餡かけを、茹で上ったうどんにかける。具には、味を含ませた特大の椎茸に、麩、
        みつ葉などを加え、土生姜がトッピングされている。(茂美志屋さん)

        
         土田金物店跡は「まちづくり役場」として再利用されている。

        
         大手門通りに面する曳山博物館は、長浜八幡宮の祭礼で使用される曳山2基が展示され
        ている。

         
         左の月宮殿は重層で上の層は六角円堂、下層は方形となっている。1785(天明5)年作
        とされる。右の春日山は四
柱造りのむくり屋根で、上・中・下の三つの部分に分かれてい
        る。建造年代は不詳とのこと。

        
         大手門通りから表参道へ曲がる手前にある文泉堂(本屋)さん。

        
         御防表参道を右折して宮町通りを直進する。

        
         宮町通りと国道8号線が交差する角に道標があり、多にくみ(谷汲)道と刻まれている。
        谷汲とは西国三十三ヶ所巡礼の谷汲山華厳寺のことで、ここから東へ進んで岐阜県に入る
        道のようだ。

        
         長浜八幡宮参道入口。

        
         平安期の1069(延久元)年源義家が後三条天皇の勅願を受け、石清水八幡宮より勧請す
        る。八幡宮としては珍しい神明造の本殿となっている。

        
         大通寺表参道には大通寺(御坊)移転の功労者「お花ぎつね」のオプジェがある。江戸初
        期頃には長浜城跡に
あったが、賑やかな場所に移転させる運動が起こる。賛否両論があり
        京都総本山(東本願寺)にお伺いを立てるため、双方が出向くことになる。
         賛成派は舟、反対派は陸路で京都に上がることとし、反対派は野洲(やす)の茶店でお花さ
        んという優しい娘が接待してくれたので、気に入って酒を飲んで酔いつぶれる。翌日は野
        洲川が大水で、引くこと5日待って京都に入るが、すでに賛成派が裁可を得ていた。反対
        派の人々が往路を引き返すと、茶店は跡形もなく妖術で茶店に滞在させて遅らせたという。
        (昔話)

        
         大通寺山門から南に続く御坊表参道。石畳が敷かれ、両側には白壁に格子窓の町家が並
        ぶ。

        
         1808(文化5)年に起工して、33年後(1841年)に完成した総ケヤキ造りの大通寺
        山門。

        
         天正年間(1573-1592)頃にできた寄合道場を起源とする真宗大谷派の長浜別院で、「御
        坊さん」と呼び親しまれている。境内には伏見城の殿舎を移した本堂、玄関、大広間と舎
        山軒、蘭亭など国重文の建物が並んでいる。

        
         大広間(国重文)は書院造りで、床、帳台構、違い棚、付書などが上段の間に並べられて
        いる。

        
         書院の新御座には狩野永岳筆の琴棋書画図。下段12面には江戸後期に京都で活躍した
        岸駒(がんく)筆の金地墨画梅之図。

        
         脇門は旧長浜城の追手門と伝える。

        
         ゆう壱番街通りの親玉本店界隈。

        
         黒壁11號館のステンドグラス館と2階は太閤ひょうたん。

        
         賑わいのある黒壁ガラス館(札ノ辻)付近にある蔵。

        
         右手に滋賀の食品などを販売する黒壁5號館(黒壁アミス)。

        
         豊臣秀吉の没後、その遺徳を偲んで町民たちが建てた豊国神社。徳川幕府から取り壊し
        を命じられたが、商売の神・恵比寿宮を前立して、奥にひっそりと像を祀って江戸時代を
        過ごしたとされる。

        
         内堀と二重の外堀との間には家来の屋敷があった。
 
        
         織田信長から小谷城を与えられ、湖北3郡の城主となった豊臣秀吉が、1574(天正2)
        年に長浜城を築城する。

        
        博物館には築城の様子が描かれている。

        
         天守より長浜の町並み。

        
         城の用水に使われていた井戸は、いくつかあったようだが、その一つとして「太閤井戸
        」があった。天守台下の琵琶湖岸にあり、厚さ3mぐらいの板で囲まれていたとのこと。

        
         江戸初期の一国一城政策で廃城となったが、1983(昭和58)年秀吉時代を想定した天
        守閣が建てられた。

        
         駅西口にある御馬屋跡の碑。


木之本は北国街道筋に町家が並ぶ (長浜市)

2019年10月09日 | その他県外

           
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         木之本は湖北平野の北縁、田上山南麓の小規模な扇状地に立地する。木之本地蔵で知ら
        れる
時宗・浄信寺の門前町として発展し、門前を北国街道が南北に通り、北国脇街道が南
        へ分岐する交通の要衝であった。(歩行約2㎞)

           
         1882(明治15)年に長浜駅と柳瀬駅間の開通により木ノ本駅が開業する。2006(
                   成18)
年に橋上駅舎に改築されるとともに、旧駅舎より北寄りに移動する。

           
         駅を出ると線路に沿って「石畳の道」へ向かう。

           
         アーバン銀行前を左折して地蔵坂(石畳通り)を緩やかに上って行く。

           
         ベンガラ塗りの格子が美しい「Book Caféすくらむ」さん。

           
         次の角を右折して路地を入ると「くつわの森」があり、ウワミズサクラに似た花が咲く
        「イヌザクラ」の巨木がある。(市指定の天然記念物)

           
         お菓子屋さんが並ぶ町家。

           
         坂を上がって行くと正面に時宗の浄信寺がある。

           
         日本三大地蔵の一つで、眼病守護の仏様には参詣者が絶えない。また、賤ケ岳合戦にお
        いて秀吉軍の本陣が置かれた寺でもある。

           
         標柱には「木之本 札ノ辻跡」とあるが、往来の多い地に、藩が法令または公示事項を
        民衆に周知するために、高札を立てたので札の辻と呼ばれる。

           
         古い町家が残っている。

        
         木之本宿の本陣だった竹内五左衛門邸。
    
           
         竹内家は薬局を営み、1893(明治26)年に日本薬剤師免状の第1号を取得されている。
        軒先には薬の看板がずらりとぶら下げられている。

           
         冨田家は近江国守護職の京極家に仕える武家だったが、1533(天文2)年に京極家が没
        落すると当地に移り住み、造り酒屋を営む傍ら庄屋を務めた。明治天皇北陸の際は岩倉具
        視が宿泊する。建物は、1744(延亨元)年築とされる。

           
         蓮如上人ゆかりの明楽寺(真宗大谷派)は、鎌倉期の建久年間(1190-1199)に山城国安井村
        (現京都市右京区)創建され、当初は真言宗の寺であった。
1391(明徳2)年現在地に移り、
        1595(文禄4)年に改宗する。
         境内に蓮如上人腰掛説法石があり、山門の右手には入母屋、桟瓦葺きの太鼓櫓がある。
        (本堂改修中)

           
         江戸末期創業の醤油屋さん。看板も創業当時を踏襲して右書きスタイルである。

           
         問屋を営んだいた藤田庄左衛門宅跡には、明治以降に旧江北銀行の建物が建てられる。
        その後、警察署、滋賀銀行と変遷したが、元銀行のレトロな建物は「きのもと交流館」と
        して活用されている。

           
         袖壁が目立つようになると、南木之本村の庄屋だった竹本家と右手は岩根醤油店。

           
         1852(嘉永5)年創業のダイコウ醤油店。

           
           
         街道を南に歩くとT字路になり、北国街道と北国脇街道が分岐する。道標には「みぎ京
        いせみち ひだり江戸なごや道」とある。北国街道は鳥居本で中山道に合わし、往還道は
        関ヶ原、大垣に連絡する。

           
         札ノ辻まで戻ると、木之本地蔵院前に菓子乃蔵・角屋さん。

           
         袖壁が付けられた町家が続く。

           
         元庄屋だった上坂家は、1847(弘化4)年に建てられ、一階には千本格子が施されてい
        る。

           
         北国街道南側の街並み。

           
           
         1532(天文元)年創業の造り酒屋である山路酒造さんは、宿場町時代には脇本陣や伝馬
        所も務めていた。格式ある表門の当時の繁栄を物語っている。

           
           
         「馬宿平四郎」の看板がある町家の隣には、木ノ本牛馬市跡の石碑が立っている。昭和
        の始め頃まで年2回の牛馬市が開かれ、街道沿いの民家が馬宿となっていたという。平四
        郎家も古くから馬宿として、多くの牛馬を取引していたとされる。
         戦国時代の武将、後に土佐藩主となる山内一豊が妻の内助の功により得た名馬は、ここ
        で買われたと伝えられる。

           
         2階屋根の受け梁を漆喰で塗り籠めたように見える町家。

           
         向かい側も同じような造りとなっている。

           
           
         旧街道から駅へ向かうと、余呉町出身の弁護士・杉野文彌が、1902(明治35)年に創
        設した「杉野文庫」を前身とした江北図書館がある。
         1937(昭和12)年に建てられた建物は、100年以上にわたって民間の力で運営され
        てきたとか。
         短い歩きであったが、北国街道筋の木之本宿は情緒にあふれ、見応えのある町並みであ
        った。