ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の伊保田・油宇に戦艦陸奥記念館となぎさ水族館 

2019年10月31日 | 山口県周防大島町

           
           この地図は、国土地理院長の承認を得て、2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)            
         伊保田(いほた)と油宇(ゆう)は、屋代島の東端に位置し、北海岸(内浦)の沖に情島など諸島
        が、南海岸(外浦)には片島が浮かび、両地区を狭隘な県道60号線(橘東和線)が結ぶ。
                 1889(明治22)年町村制の施行により、双方が合併して各1字をとって油田村として存
        立していたが、昭和の大合併で東和町となり、現在は周防大島町の一部区域である。(歩行
        
約6.5㎞)


           
         JR大畠駅から防長バス周防油宇行き(8:58)に乗車、瀬戸内海を眺めながら約1時間1
                5分のバス旅を楽しむと、終点のバス停には10時10分に到着する。(復路は13時)

           
         バス停から海側へ向かい三差路を左折して通りを歩く。

           
         海へは1m幅の路地で結ばれている。

           
         周防大島八十八ヶ所第71番札所へは左の狭い道に入る。

           
         階段を上がって行くと家並みが見えてくる。

           
         札所とされる薬師堂。
 


           
         通りは湾に沿って緩やかに湾曲している。国勢調査によると油宇の人口は299人・1
        68世帯とされ、空家と住宅地跡が目立つ。

           
         東の港前で海岸通りと合わす。

           
         海岸通りにも隙間なく家が建っていたようだが、今では空地が目立つ。

           
         三叉路に灯籠があり、左道の奥には鳥居が見える。

           
         約550mの海岸通りを歩くと県道に合わす。

           
         この付近は塀が並ぶが海岸沿いであったのであろう。

           
         油宇は東に保木鼻、西に西の鼻が南に突き出て、凪の時は海上が油を流したようになる
        ので名付けられたと云われる。

           
         西港の灯台。

           
         大きな山門の下は石段で、山門には天井絵が全70枚あるとか。

           
         山門は檀家の大工と住職が工夫しながら建てたと云われる。

           
         元は真言宗であったが江戸時代初期に浄土宗となり、明治初期に和田の西浄寺と合併し
        て浄西寺となる。

           
         浄西寺石塔婆(浄西寺三尊碑)は、鎌倉期の1202(建仁2)年造立で、在銘石塔物として
        は瀬戸内海地方最古の石塔とされる。当初は、阿弥陀、観世音、勢至の三尊碑であったが、
        勢至碑が失われて二基だけ残っている。右の阿弥陀碑は上部が欠けているが、左の観世音
        碑はほぼ完全な状態である。

           
         境内から見る油宇集落。1866(慶応2)年の四境の役大島口の戦いで、幕府軍艦・富士
        丸と大江丸が油宇を攻撃する。寺の石垣に被弾跡が残されていたようだが見落とす。

           
         新宮神社の鳥居と油宇公民館。

           
         神社の創建年月は不詳だが、1648(慶安元)年に再建される。参拝を終えてバス停に
        戻る。

           
         伊保田バス停に降り立ち、旧油田村役場の位置を確認すると、油田小学校下で現在は民
                地になっているとのこと。

           
         バス路線を引き返して小学校下に辿り着くと、既に周囲には民家が建って痕跡は残され
        ていない。

           
         門構えの家も存在する。

            
         海側が玄関のようだ。 

           
         通りには平入りの民家が並ぶ。

           
         遊ぶ子供がいないのか草ぼうぼうの児童公園。

           
         深広寺(真宗)の門には、猪が境内に入るので夜間は門扉を閉める旨の貼り紙あり。

           
         旧道の東端で県道351号線(油田港線)に合流する。

           
         海岸線を見ながら引き返す。

           
         伊保田港にはJR柳井港駅までの防予フェリーがあるが、1日4便と少なく柳井港駅ま
        で約1時間20分を要す。情島への離島航路も発着する。

               
         海岸線を歩くこと15分(約1㎞)で陸奥記念公園。沈没現場の海を望む丘には、海底よ
        り引き上げた船体の一部が展示してある。(副砲)

        
         1947(昭和22)年に引き上げが試みられたが、作業は困難を極め中断する。1970
        (
昭和45)年に作業が再開され、8年に及ぶ作業の末、船体の75%が引き上げられる。(
        舷艦首) 

        
        
         1921(大正10)年に完成した戦艦「陸奥」は、連合艦隊の旗艦として活躍していたが、
        1943(昭和18)年6月9日伊保田沖で謎の大爆発を起こし沈没する。(副砲とスクリュー)

        
        
         丘には沈没した方位が示されている。右手の柱島で荼毘に付されたため、洲鼻と呼ばれ
        る浜には「陸奥英霊の墓」が、沈没地点の方角に建立されている。

           
         陸奥記念館の入口には主錨が置かれている。

           
           
         陸奥記念館には海底から引き揚げた船体の一部や、将兵の身の回り品。それに遺族から
        提供された手紙や資料が展示されている。


           
         向かい側には日本一小さい「なぎさ水族館」があるが、バス時間の関係で入館を残念し
        て
記念館前バス停からJR大畠駅に引き返す。      


周防大島の沖家室島は海上交通の要衝地 

2019年10月31日 | 山口県周防大島町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         沖家室島(おきかむろじま)は屋代島中部の南海上にある島で、人が住んでいる島としては
        大島郡の最南端に位置する。屋代島本土との間に潮流の早い沖家室瀬戸があり、面積0.
        94㎢の島は、洲崎と本浦の2つの集落に分かれている。室町時代には海賊の根拠地であ
        ったという。(歩行約3㎞)

        
         1983(昭和58)年3月18日離島振興法により架橋された沖家室大橋、その下を流れ
        る海峡は「セト」と呼ばれている。

        
         大橋の袂に民俗学者・宮本常一の手紙の一文を記した碑がある。「此の橋 全国同胞の
        協力によってできました。感謝します。沖家室島民」と刻まれている。

        
         蛭子神社の御旅所境内地には架橋の記念として、ヨットの帆をイメージした大理石製の
        モニュメントがある。

        
         沖家室大橋から眺める州崎集落。

        
         萩藩は藩境に位置するこの地に、往来する船を監視する御番所を設置し、島の有力者で
        ある石崎氏を船究役に任命し、公用船を置き御船倉を設けた。屋根は萱葺きで簀子(すのこ)
        4枚が設けられ、縦14.5m、横4mであったとされる。

        
         この船倉跡地には、昭和の終わり頃まで造船所があり、所有者であった原氏の寄付によ
        り、史跡として整備される。

        
         右手に旧道が海岸線と平行している。

        
         漁師町特有の狭い路地に軒を接している。昭和初期までは旅館の他に、造船所、釣針屋、
        散髪屋などもあったそうで、対岸の佐蓮(され)の人々は「沖家室に行けば何でもそろう」と、
        伝馬船でやってきたという。

        
         ここに御番所があったそうで、そこで使用されていた井戸は、昔からどんな渇水期でも
        水枯れしなかったとのこと。地元ではこの井戸を「御番所ガワ」と呼んでいる。

        
         御番所跡から山手側に入って行くと、以前は段々状に家があったようだが、崩壊もしく
        は空家となっている。

        
         沖家室にはいたるところに共同井戸があったようだ。これは最上部付近にあるもので、
        井戸が一種の社交場にもなっていたという。

        
         路地裏歩きで地元の方をお見かけすることはなかった。

        
         路地には郵便局や商店もあったようだが、郵便局は海岸通りへ移転し、商店も閉店され
        て集う場所が失われていた。(旧角忠商店付近)

        
         空家のためか損傷が激しくなりつつあり、蔵は消滅したようである。金井家の横に観音
        堂へ上がる石段がある。

        
         観音堂奥から伊予灘を眺めることができる。1662(寛文2)年建立の観音堂は、179
        0(寛政2)年に再建され、本尊は聖観音菩薩で行基の作と伝えられる。

        
        平地が少なく山裾に民家が集中している。

        
         路地に倒壊寸前の建物。

        
         本浦へ通じていたトンネルが残されている。

        
         往来する車は釣り人など島外の人で、島民に会えたのは自転車で通行された方のみだっ
        た。

        
         沖家室島にも弘法大師伝説が残っている。一人の旅僧が喉を潤すために、一軒の家を訪
        ねて水を求めると貴重な水ではあったが老婆は差し出した。すると僧は「渚に行って波打
        ち際を掘れ」といい、海岸を掘ると真水が湧いて飲むことができたとか。この井戸を弘法
        大師井戸として弘法堂を祀ったが、井戸は道路工事のため埋め立てられたという。

        
         1873(明治6)年に開校した沖家室小学校は、1989(平成元)年児童数の減少により
        閉校する。

        
         蛭子神社は漁業を主な生業としてきた沖家室島の総鎮守とされる。創建年月は不詳だが、
        当初、洲崎に鎮座していたが、1872(明治5)年現在地に遷座する。

        
         蛭子神社から本浦の町並み。

        
         本浦には寺の門前と旧道沿いに2つの商店街と、昭和初期まで造船所、文具店、豆腐屋、
        銀行、役所、医院などがあった。

        
         石組みの上に民家が続く。

        
         萩藩の要衝地であったことから、大島郡内では沖家室と地家室の2ヶ所に高札場が設け
        られた。

         
         山口県の天然記念物とされる「アコウ(赤榕)」の木は、水無瀬島より持ち帰ったものと
        される。

        
         群山(くんさん)は大韓民国にある港町であるが、そこで財を成した柳原氏が、贅を尽くし
        て建てた木造二階建ての邸宅である。現在は「群山荘」として沖家室出身者用の宿泊所に
        なっている。 

        
         海岸通りに置かれている常夜燈。

        
        
         泊清寺(はくせいじ)は沖家室島唯一の寺で、江戸期には萩藩主や参勤交代で島に立ち寄る
        九州の大名の本陣を務めた。

        
         泊清寺の境内にある「ふか地蔵」は海の守り本尊とされ、船が遭難しかけた時、一心に
        ふか地蔵を念じたところ助かったという話が伝えられている。

        
         ここが海岸線であったのであろう防波堤が残されている。

        
         波止場は太公望のメッカとなっている。

        
         1947(昭和22)年に開校した沖家室中学校は、1966(昭和41)年時代の波に押し流
        されて閉校となる。

        
         かつては蛭子神社の御旅所から大漁旗を立てた船に神輿を乗せ、洲崎の御旅所まで海上
        を渡御したという。祠は中学校近くにあったが、道路整備の際に現在地へ移転する。(現
        在はトラックで神輿を運搬) 

        
         海を眺めながら海岸線を歩いて洲崎に戻る。国勢調査によると、人口137名・80世
        帯。高齢化率も高い地域である。 

        
         波止場は太公望のみならず、海鳥たちにとっても良き場所のようだ。

        
         かつて「せと丸」という小さな渡船が、対岸の佐連との間を毎日数回行き交う渡船場が
        あった。 

        
         牛ヶ首岬と分岐する地点に、シーボルトが上陸したとする碑がある。1826(文政9)
        9月長崎から江戸参府の折に沖家室に停泊。その時に牛ケ首に上陸し、周辺の植物採集な
        どをしたとされる。 

        
        小積・大積地区にある厳島神社。