この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
坂本は大津市の北部、延暦寺および日吉神社の門前町として栄えた町。1889(明治2
2)年町村制施行により、坂本村と穴太村の2村が合併して改めて坂本村となる。その後、
昭和の大合併で大津市に編入されて今日に至る。(歩行約4.5㎞)
1974(昭和49)年湖西線が開通すると同時に叡山駅として開業し、1994(平成6)年
9月比叡山坂本駅に改称する。
駅から京阪電鉄・坂本比叡山駅までは、約740mの距離である。
日吉大社一ノ鳥居傍には、日吉大社の門を守る神・大神門(だいしんもん)神社がある。
通りには古い町家も見られる。(蔵は置き屋根形式)
江戸時代には延暦寺の僧侶でありながら、妻帯と名字帯刀が認められた「公人(くにん)」
と呼ばれる人々が住んでいた。その住居のひとつが旧岡本邸である。(有料施設)
御田(みた)神社の由緒によると、古い時代から大きな井戸が信仰の対象とされ、神社とい
う形態より以前から農耕祭祀が行われたのが神社の起源だとされる。社殿は一間社流造で、
入口の井戸に注連縄があるので信仰の対象物と思われる。
生源寺(しょうげんじ)は伝教大師・最澄が、奈良期の767(神護景雲元)年8月18日この
地で生まれたと伝わる場所に建立された。
1571(元亀2)年織田信長の比叡山焼き討ちで全焼し、現在の本堂は1595(元禄4)
年に再建されたものである。
大将軍神社の創祀年代は不詳のようであるが、日吉大社境外108社の1社である。天
台宗開祖の伝教大師の産土神であり、坂本中の総社である。
坂本の蕎麦は比叡山の修行僧の滋養源として育てられてきた。1716(享保元)年創業と
いう歴史ある鶴㐂そば屋さんは、築130年とされる入母屋造りの建物で、国の登録有形
文化財に指定されている。
この辺りにあった南大寺が火事で焼失し、その後に造られた道というのが「作り道」の
由来である。参拝者の宿が軒を連ねていた作り道には、今も古い町家が建ち並んでいる。
折りたたみ式縁台(ばったり床几)が備え付けてある。
御殿馬場入口にある榊宮社(さかきのみやしろ)の創建は、日吉大社の創建と同時期であると
される。日吉大社山王祭では天孫神社から曳いてきた神籬(ひもろぎ)の榊が、ここに留め置
かれ、日吉の社殿前から大宮の社殿前へ参進する慣習になっているという。
昔は皇族が天台座主になる場合が多かったので、滋賀院が重要な役割を果たしていた。
今も現天皇の健康を祈願するため、御衣(天皇の着物)をお迎えして、山上の根本中堂でお
祈りをする行事が、毎年4月が行われている。この御衣が通る道であるので御殿馬場と呼
ばれる。
両脇は「穴太石積み」といわれる石積みが続く。
坂本の里坊の中では、特に格式の高いのが滋賀院門跡とされる。165(元和元)年慈眼大
師天海が後陽成上皇から京都御所の建物を賜り移築したもので、江戸末期まで天台座主の
居所であった。
天台宗務所を過ごすと権現馬場に出る。
日吉東照宮に通じる権現馬場は、両脇に里坊が建ち並んでいる。見返れば琵琶湖を見る
ことができる。
滋眼堂(じげんどう)は比叡山の再興に尽くした天海大僧正(?-1643)の廟所であり、境内に
は新田義貞や紫式部、清少納言の供養塔などもある。
1646(正保3)年建立の本堂は、虹梁(こうりょう)や火灯窓、床を張らない江戸初期の禅
宗様式を基本としている。
1623(元和9)年に3代将軍徳川家光が京都に上洛した際、日吉東照宮創建の命を受け
た天海上人が徳川家康の御霊を祀るため、日光東照宮の雛型として創建する。その際に本
殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式が用いられた。この年に日光東照宮の社殿改築が
始められている。
この社殿様式を基本にして、日光東照宮が創建されたといわれている。延暦寺の末寺だ
ったが神仏分離令により、日吉大社の末社となり現在に至っている。(社殿と唐門、透塀が
国指定重要文化財)
日吉大社に向かうと右手の霊山院は、延暦寺の僧侶隠居所であった里坊とのこと。
六角地蔵堂は、日吉大社の摂社である早尾神社の参道沿いにあり、正式には早尾地蔵尊
である。本尊である石地蔵尊は、伝教大師最澄上人の自作と伝えられている。
第3世天台座主・安恵が里坊として創建し、第18世座主の良源(元三大師)が、入山修
行の決意を固めた地であることから「求法寺」と名付けられた。
日吉大社参道の大宮川に架かる大宮橋は、木造橋の形式をそのまま用いた反橋である。
両側に格座間(こうざま)を掘り抜いた勾欄が取り付けてある。もとは木橋であったが、16
69(寛文9)年石橋に造り替えられたといわれる。(国重要文化財)
山王鳥居は神仏習合の信仰を表す独自の形をしているため、合掌鳥居とも呼ばれている。
日吉大社の創建は不明とされ、紀元前70(崇神天皇7)年に日枝山の山頂から現在地に移さ
れたという。全国3,800の分霊社(日吉、日枝、山王神社)の総本宮である。
西本宮楼門は、二階建てで階上に縁があり、入母屋造りの檜皮葺き建物である。158
6(天正14)年頃とされているが、正確な時期はわからないという。(国重要文化財)
楼門の四隅の棟木には神猿(まさる)が、屋根を支えるように楼門を守っている。お猿さん
は神様の使いで「神猿」と呼ばれ、「魔が去る。何よりも勝る」として縁起のよいものと
されてきた。
西本宮拝殿は吹さらしの舞殿形式で、祈祷などの神事が行われる。1586(天正14)年
に建てられたもので国重要文化財に指定されている。
織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉社もすべて焼かれてしまう。現在の西本宮本殿
は、1597(慶長2)年築とされる。後方の軒が短く、軒先がⅯ字型の断面を呈する日吉造
りとされる。(国重要文化財)
白山宮も織田信長の比叡山焼き討ち後、1598(慶長3)年に本殿が再建されたが、三間
社流造りの檜皮葺きで、装飾金具が少なく簡素で地味な建物である。(国重要文化財)
東本宮楼門は三間一戸で入母屋造りの桧皮葺である。様式は西本宮楼門と同じようだが、
一階部分が高く、二階部分が低い形式となっている。
東本宮本殿は織田信長焼き討ち後、1595(文禄4)年に再建されたが、西本宮より9年
後である。様式は西本宮と同じ日吉造りで、国宝に指定されている。
東本宮を出て坂を下る途中に、猿のような石が見送ってくれる。
止観院も延暦寺の僧侶の隠居所であった里坊の一つとのこと。
日吉馬場の両側には石垣を構えた里坊が連なる。
律院山門屋根には唐獅子の飾り瓦。
穴太衆の技術による石垣が際立つところである。比叡山で修業を積んだ僧侶たちが天台
座主の許しを得て、住む込む隠居坊(里坊)がびっしりと並んでいる。
里坊の入口の門は石垣から少し後退し、石垣に変化を与えている。里坊の門の大半は薬
医門であるが、なかには優雅な曲線をみせる向唐門もある。
帰リは坂本比叡山口駅バス停からJR比叡山坂本駅に戻る。