ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

近江商人発祥地の五個荘 (滋賀県東近江市)

2019年10月08日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         五個荘は滋賀県の中央部、湖東平野の中央に位置し、三方を山に囲まれ東に愛知川が流
        れる。南部を中山道と国道8号線、東海道新幹線が走る。(歩行約3.8㎞)

           
         金堂集落の東1.5㎞にある近江鉄道・五箇荘駅は、構内のすぐ南を東海道新幹線が交差
        し、西側の米原方面ホームと東側の貴生川方面ホームは構内踏切で結ばれている。

           
         1899(明治32)年小幡駅として開業するが、1910(明治43)年に200m南に移転
        し、五個荘駅に改称する。駅舎は老朽化で解体され、しばらくは駅舎がなかったが、20
        06(平成12)年に現駅舎が完成する。近江商人発祥地・五個荘の景観に合わせた瓦葺の木
        造平屋建てである。 

           
         駅通りを直進すると、旧中山道に合わし右折する。

           
         交差点には中山道と御代参街道の分岐を示す小幡の道標がある。享保3年丁酉(1718)に
        建立されたもので、「右 京みち」「左 いせ ひの八日市みち、」と刻まれている。

           
         旧中山道を左折する角に、1948(昭和23)年創業の中澤酒造がある。

           
         左に長宝寺を過ごし、大同川、国道8号線を横断すると、宮荘バス停先に近江商人屋敷
        「藤井家」が案内されている。(旧中山道分岐から約550m)

           
         案内に従って左折すると、約100m先に藤井邸がある。開館は9時であったが、開館
        時間前にもかかわらず入館させていただく。

           
         石畳の奥に洋風の門を構える邸宅は、「スキー毛糸」の製造販売などで成功を収めた藤
        井彦四郎が、故郷に迎賓館を兼ねて建てたとされる。23歳で分家して、1907(明 治4
          0)
年に藤井糸店を創業する。


           
         洋館はログハウス風の外観となっている。藤井彦四郎が産業視察のため欧州を訪れた際、
        スイスの山小屋に魅せられて建てたとされる。

           
         正面に和風の客殿、右側には京都に移るまで藤井彦四郎が、生活の本拠とした江戸時代
        創建の主屋が建っている。


           
         客殿は3室が続き間になった総檜造の平屋建書院造で、庭園に面して広い縁側を廻して
        いる。
       

           
         皇族など貴賓を迎えた書院座敷。

           
         2015年の映画「日本のいちばん長い日」で、陸軍大臣・阿南惟幾の自宅として撮影
        が行われた洋館。

           
         書道文化と世界を学ぶ博物館「観峰館」は、6階建てで中国の建築様式である四合院に
        倣った造りとなっている。

           
         竜田神社の先を右折し、JA前を左折すると五個荘小学校前。

           
         五個荘小学校の校門。

           
         左手に近江商人博物館を見ると、右手の祭・馬場通り角に石柱がある。「海老塚一本松
        跡地」とあるが、金堂と竜田との村境にあり、古くは天神塚と呼ばれていた。

           
         祭・馬場通りの右手に地蔵堂。

           
         厩戸王子の創建と伝えられる大城神社は、近江八幡の安土町にあった観音寺城の鬼門に
        あたり、守護神として崇敬された。五個荘の総鎮守とされ、祭りは近江商人の旅姿で行わ
        れるようだ。


           
         日若宮神社は大城神社の境内社。

           
           
         祭・馬場通りの左側に並ぶ近江商人の本宅跡群。

           
         安福寺(浄土宗)は創建・開基共に不明だそうだが、集落の中心に位置し、金堂の始まり
        の寺と伝えられる。他の寺院とは趣が違う構造である。

           
         堂中通りを直進する。

           
         あきんど通りの佇まい。(左手の寺院は勝徳寺)

           
         勝徳寺(浄土真宗)の向いに、江戸期には大和郡山藩の陣屋が置かれ、1871(明治4)
        
の廃藩置県後、藩の長屋門は勝徳寺へ移築されたと伝える。


           
         あきんど通りと花筏通りとの交差点。

           
         交差点に手前右手にある蔵造り。

           
         左手には大正時代から戦前まで朝鮮半島や中国に百貨店を開設し「百貨店主」と呼ばれ
        た中江準五郎邸がある。

           
         通りの名前は、近江商人を題材に書いた外村繁の小説「花筏」に由来するのだろうか。

           
         東京・横浜・京都などに支店を有し、呉服類の販売を中心に商圏を広げた外村宇兵衛の
        屋敷。屋敷は家業の隆盛と共に数次の増改築を重ね、主屋・書院・大蔵など十数棟が建ち
        並んでいる。

           
         玄関を入ると屋敷内に水路を引き込み、屋根付きの洗い場となった川戸がある。

           
         主屋は1860(万延元)年築。

           
         長い土間。

           
         中継表(なかつぎおもて)という畳で、若い良質のい草を使って両側から継ぎ合わせた畳で、
        キメ細かく弾力性と光沢があり、150年間も使われているとのこと。

           
         近江商人は江戸や京都で成功しても、本宅は五個荘に建て、盆や正月には必ず帰郷した
        という。

           
         てんびんは10㎏の重さがあり、商品の見本を持ち歩いて行商した。

           
         4代目外村宇兵衛の妹(みわ)に婿養子を迎えて分家したのが外村繁家の始まり。外村繁
        は1902(明治35)年に三男として生まれるが、長兄が本家に養子、次男が病没のため
        跡取りとなるが、1933(昭和8)年に家業を弟に譲って文学の道に入る。

           
         五個荘商人の本宅として家族や番頭、女中が生活の場とした。

           
          座敷は来客の接待場として利用された。

           
         1935(昭和10)年に「草筏」が第1回芥川賞候補となり、以後、「筏」で野間文学賞、
        「花筏」など数多くの作品を残し、1961(昭和36)年に59歳で逝去。

           
         寺が並ぶ通りの水路には鯉が泳ぎ、五個荘金堂の代表的な場所の1つである。(浄栄寺)

           
         豊かな水が流れる水路。

           
         幅の広い通りには白壁と水路が続く。

           
         弘誓寺(ぐぜいじ)の創建は、1290(正応3)年那須与一の孫とされる愚咄坊の開基と伝わ
        る。大きな大屋根のある本堂は、1764(宝暦14)年頃に建立されたもので国重要文化財。

           
         水路沿いに寺の鐘楼、表門、土塀、太鼓楼が並ぶ。

           
         てんびん通りにも舟板塀。

           
         朝鮮と満州及び中国で三中井百貨店を展開していた中江4兄弟の3男・富十郎の邸宅。
        現在はまちなみ保存会がまちなみ保存交流館として活用している。

           
         近江商人が商売の心得としたのが「三方よし」、すなわち「売り手よし、買い手よし、
        世間よし」の精神だった。三方よし前バス停からJR能登川行きのバスを利用する。


彦根は城を中心とした江戸期の景観が残る町 (滋賀県彦根市)

2019年10月08日 | その他県外

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         彦根は県の中央部、湖東平野の北部に位置し、西北部はびわ湖に面する。中心市街地は
        芦川のデルタに建設された城下町で、第二次世界大戦の戦災を免れたため、今なお城下町
        の古い景観を残している。(歩行約4.8㎞)

        
         JR彦根駅は、1889(明治22)年関ヶ原から膳所間が開通すると同時に開業する。近
        江鉄道の電車も乗り入れ、1981(昭和56)年には駅本屋が完成し、都市の主要駅らしさ
        を具える。

        
         お城通りにある彦根信金前を右折すると中村商家保存館。1622(元和8)年に彦根城が
        完成した頃とほぼ同じ時代に、現在の地に本家から分かれて酒造業を始めたとされる。
         家屋は老朽化と湖東北部地震の影響もあって大改修されたが、江戸期の建物様式が残さ
        れた。現在は期間を限定して内部公開されている。

        
         駅前・お城通り。

        
         中堀に出ると佐和口多聞櫓。

        
         この付近は中級武士の屋敷があったところで、東を正面とし南は中堀に面している。池
        田家は大坂の陣以前は、「伊賀者」として井伊直政に取り立てられた忍者の家で、後に士
        分となり、この地に居を構える。長屋門の規模は桁行19.7mの木造一重、屋根は入母屋
        造り、壁は簓子(ささらこ)下見板張りが施されている。

        
         中堀と外堀の間は、武家地と町家が混在する地域であった。第13代藩主となる井伊直
        弼は、17歳から32歳までの16年間をここで過ごすが、一生部屋住みとして生きるこ
        とを覚悟して「埋木舎」と名づけた。

        
         中堀の東面、「いろは松」に沿った登城口が佐和口であり、その枡形を囲むように築か
        れているのが佐和口多聞櫓。1767(明和4)年に火災で類焼し、現在の建物は1769(明
        和6)年から8年かけて再建された。(国重文)

        
         佐和口は中堀に開く4つの口の1つで、かっては中堀に接して高麗門があり、その内側
        を鍵の手に曲げて櫓門が築かれていた。

        
         日本で唯一現存する城郭内の馬屋。21頭もの馬を収容することができ、全国でも最大
        規模のものとされる。8代藩主・直定はとくに馬術を好み、藩士も250石以上のものは
        馬扶持されたとある。(国重文)

        
         明治初期の写真等から2004(平成16)年に再現された表門橋。

        
         表門から坂を上がって行くと橋が見えてくる。この橋を中央にして右手に建てられてい
        るのが天秤櫓で、左手が鐘の丸。堀切に架かる橋は「廊下橋」と呼ばれ、非常時には落と
        し橋となる。

        
         橋東側の石垣は自然石を積み上げた「牛蒡積み」で、西側は、1854(嘉永7)年に積み
        替えられた「切石積み」となっている。

        
         左右に2階櫓を設け、均衡のとれた美しい城門は、天秤のような形をしていることから
        天秤櫓と呼ばれる。

        
         長浜城大手門を移築したといわれる。

        
         太鼓門櫓への階段。

        
         城全体に響くようにと鐘の丸から移されたもので、今も定時に鐘が突かれている。(時
        報鐘)

        
         本丸への最後の関門となる櫓で、城中に合図する太鼓が置かれていたことから太鼓門櫓
        と呼ばれた。他の城もしくは寺の門を移築したものとされる。

        
         門を潜って見返ると東側には壁はなく、柱の間に高欄を設けて音を響かすようにしてい
        る。

        
         千鳥破風,唐破風,花頭窓などの意匠を凝らす天守は、井伊家14代が居城した城であ
        る。外観だけでなく城本来の機能にも優れているとされる。(国宝)

        
         1604(慶長9)年より着工し、20年の歳月をかけて築城された。天守はは関ヶ原合戦
        で西軍の猛攻撃を受けながらも、落城しなかった大津城の天守を移築したとされ、2年足
        らずで完成したとされる。(城郭の完成は1622年)

        
         明治維新後の彦根城は、他の多くの城と同じく取り壊される予定であった。しかし、1
        878(明治11)年に明治天皇が北陸巡幸中、参議・大隈重信の進言により廃城を免れたと
        いう。

        
         2つの急階段を上がれば最上部に出る。

        
         あいにくの天候で眺望はよくないがびわ湖が望める。

        
         彦根の町並みが一望できる。(正面に駅前お城通り)

        
         着見櫓跡から西の丸の石垣群とびわ湖。

        
         西の丸への道は、牛蒡積みと呼ばれる石垣の上に、三階三重の天守がそびえている。

        
         黒門から西の丸への入口に設けられた城門跡。

        
         井戸曲輪は小さな曲輪であるが、黒門から侵入する敵兵に対する防御と、城内で守備す
        る兵士の生命維持するため、物品などが備蓄された重要な曲輪であったとされる。水は石
        組み溝で集められた雨水を浄化して、貯水する仕組みであった。

        
         黒門跡。

        
         玄宮園の長い塀が続くが、城主の日常生活の場(槻御殿)に隣接して、接客饗応のための
        庭園としてつくられた。雨で時間を費やしてしまったため見学を残念する。

        
         内堀を巡ると御表門跡に出る。

        
         広小路沿いには、家老・脇家のなまこ壁長屋門の一部が残されている。

        
         京橋方向へ進むと右手に旧西郷屋敷長屋門がある。西郷家の初代は徳川家康に仕えてい
        たが、1582(天正10)年に家康の命により井伊直政の付家老となり、幕末まで仕えて同
        じ土地で替地はなかったとされる。

        
         彦根城は中堀に面して4つの城門を開いていた。その1つが京橋口門である。桝形には
        中堀に接して高麗門があり、内側には石の階段(雁木)が設けられ、多くの兵が一度に多聞
        櫓を駆け上がれるように造られている。

        
         中堀に出る。(京橋より)

        
         京橋を渡ると正面には、白壁と黒格子の町屋風に統一された夢京橋キャッスルロードと
        なっている。

        
         旧鈴木家長屋門は、彦根城の中堀に面した第三郭に建っている。主屋などすべてが取り
        壊され、長屋門のみ現存している。中間や女中の部屋ほか、馬屋や物置として利用された。

        
         中堀沿いの松並木で、江戸時代は「松の下」と呼ばれていた。当時47本の松が植えら
        れていたことから、いろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになった。

        
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