ぶらっと散歩

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萩市明木は萩往還道と赤間関街道の追分

2019年09月06日 | 山口県萩市

                
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号令元情複台第546号)
         明木(あきらぎ)は萩往還道と赤間関街道が交差する地に形成された集落である。江戸時代
        後期の屋敷数は73軒、御客屋(公用の休憩施設)などの公的施設も置かれた。1891(
          治24)
年の大火後、往年の町並みに沿って再建された。(歩行約7㎞)

        
         JR新山口駅在来線口から防長バス東萩駅行き約1時間、横瀬橋バス停で下車する。

        
         下横瀬公民館(国登録有形文化財)は明木村立図書館として、1906(明治39)年に日露
        戦争記念として明木尋常高等小学校内に開設される。
         この建物は、1928(昭和3)年に建設された2代目で、1959(昭和34)年に下横瀬の
        公民館として移築される。(残念ながら施錠されて内部を見ることができず)

        
         建物の外観は下見板張りの壁に、正面には左右対称に欄間付き上げ下げ窓を設け、窓上
        部に単純な装飾をつけている。

        
         赤間関街道中道筋は明木の牛地から上横瀬までの間、一部を除いて国道262号線と県
        道萩秋芳線に重なっているため、明木川に沿って集落道を北上する。(角力場集落付近)

        
         1604(慶長9)年萩城が指月山の麓に築かれる際に功績のあった、菅蓋(すげぶた)の又十
        郎の生誕地碑が建てられている。

        
         里道を進むと国道262号線に合流する。国道の反対側に「萩市特産品販売所つつじ」
        があり、トイレ、レストランも併設されている。

        
         国道を横断して旧国道に入ると、右手に街道を示す道標がある。

        
         牛地集落を見ながら街道に沿うと、明木小学校で街道は寸断されている。

        
        
 萩往還道(直進)と赤間関街道(右)の堂尾追分に出る。

        
         追分の山手側に荒神社と庚申塚、石像3体がある。

        
         大庄屋だった瀧口本家。

        
         下って行くと往還道は突き当って右折するが、当時、左折する道は人家で塞がれており、
        1884(明治17)年に三差路となる。

        
         左手の倉床商店の日除けテントには、萩往還一升谷入口を示す案内が記されているが、
        この先からは明木市である。

        
         1867(慶応3)年に建てられた道標が、JAあぶらんど萩明木支所の敷地内角にある。
         「右 せき道 左 山口道」と彫られていることから、道標は堂尾追分にあったと思わ
        れる。

        
         明木神社参道の右手には、1884(明治17)年に建てられた土蔵造りの藤井家があり、
        洋風の銅板窓が取り付けてある。
         福沢諭吉に師事し、西洋式簿記(複式簿記)の普及に努めた藤井清の生家である。       

        
         1891(明治24)年の大火で瓦葺きの藤井家が焼け残ったこともあり、茅葺き家屋から
        瓦葺き家屋が増加する。(石段の左手が藤井家)

        
         1906(明治39)年に萩寄りの原集落にあった権現社を明木神社に改め、1908(明治
        41)年に、堂尾の菅山神社跡に移転させて村社とした。

        
         1868(明治元)年創業の瀧口酒造には、白壁と石州瓦の蔵、高い煙突は地域のシンボル
        とのこと。

        
         呉服店だった証がそのまま残されている。

        
         街道沿いに見事な山門がある瑞光寺。

        
         明木村時代から村役場があった地である。1955(昭和30)年に佐々並村と合併し、明
        木の「あ」と佐々並の「さ」をとって旭村となる。合併の際に役場の位置を決めなかった
        ため、2年毎に役場本所と支所を入れ替えをするという全国的に珍しいシステムが行われ
        てきた。
         1995(平成7)年電算化に伴い明木に固定化され、現在は萩市旭総合事務所が置かれて
        いる。

        
         大庄屋瀧口家の分家にあたる瀧口酒造の表口。

        
         総合事務所駐車場の隣は門と格子戸のある中谷家。

        
         江戸時代には人や馬などの手配を担っていた目代所(もくだいしょ)が置かれていた場所で
        ある。現在の大玉家は、1891(明治24)年の大火後に建てられた建物であるが、中2階
        部分には虫籠窓が見られる。

        
         参勤交代の際に重臣たちが休憩した御用屋敷のあった地で、吉田松陰が金子重輔と共に、     
        江戸から送還された時、最後に宿泊した場所とされる。現在は原家で改装されている

        
         参勤交代の際に藩主が休憩した御客屋跡。今は「乳母の茶屋」と命名され、萩往還を訪
        れる人のための休憩施設になっている。

        
         お地蔵さんがある場所に、明木市の高札場・春定札場があったとされる。お地蔵さん傍
        には札場に使われたと思われる大きな石が残されている。

        
         西来寺門前には市尻の土橋が架かっていたとされ、その橋脚の痕跡が寺側の川岸に残さ
        れているとのこと。

        
         1934(昭和9)年築の旧郵便局は、民家として利用されている。

        
         石崎酒店前を左折すると明木橋。

        
         西来寺山門前の石碑は、1604(慶長9)年に萩城が指月山に築かれる際に、明木の里に
        石工の技に秀でた古戦場の彦六と菅蓋の又十郎という青年がいた。
         その働きに対して「何なりと望みのものを申せ」といわれ、明木村より搬出する口屋銭
        (萩城下に売り出す薪炭・野菜などに対する明木の里全員に課せられた税)の免除を願い、
        後世に永く恩恵を残したとある。(説明板より)

        
         吉田松陰が伊豆下田で密航を企てたが失敗し、捕らわれの身となって萩へ護送される。
        1854(安政元)年10月24日に明木橋を渡った際に、「わたし松陰は少年の頃、この明
        木橋において志を書いたことがある。そして今、監に入れられて返されてきたが、故郷に
        錦を飾って帰る思いである」と詠む。

        
         原集落の川上側に明木橋で詠んだ漢詩が石碑に残されている。

        
         県道32号線(萩秋芳線)の函渠を潜り、明木川の土手を北上する。(左手は原集落)

        
                 1865(慶長9)年の長州藩は、正義派と俗論派が激しく対立し、大田・絵堂の戦いなど
        で正義派が勝利する。諸隊に対して萩へ突入しないように説得と和平交渉を進めるため、
        1865(元治2)年2月10日に鎮静会の香川半介、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎が
        山口の諸隊を訪れる。
         翌日、山口からの帰路、権現原で藩軍の刺客に襲われて江木を除く3名が絶命する。

        
         この地蔵は三士殉難の地に、三士の冥福を祈って建立されたとも、いつも明木川が権現
        原で氾濫するので、田畑を水害から守るために建立されたともいわれている。
         地蔵の建立時期は定かではないが、石灯籠には「奉献 明治12年(1879)7月24日」
                とある。

        
         三士殉難の地からさらに萩方面へ進み、明木川に架かる中所橋を渡る。

        
         国道に出ると瓜作(うりづくり)バス停はバス2社の停留所で、湯田温泉及びJR新山口駅
        行きがある。時間は重なっていないため到着時間に合わせてどちらかのバスに乗車できる。