ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

長門市の通浦は鯨捕鯨が盛んだった地 

2019年09月22日 | 山口県長門市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         大日比浦(おおひびうら)は青海島内にありながら仙崎に属する。(歩行約1.3㎞)

        
         大日比には夏みかんの原樹と、日曜学校が行われた西円寺があるので立ち寄るが、バ
        スの便数が少なく通浦まで行くとなると車を利用せざるを得ない。

        
         バス停からかってのメインロードを西行する。

        
         通りには数軒の古民家が見られる。

        
         大日比が夏みかんの発祥の地とされるが、、安永年間(1772-1780)頃に同地の西本チョウ
        さんが、海岸に流れ着いた果実の種を播いたのが始まりと伝えられている。(国史跡及び天
        然記念物)


        
         原樹に万が一があってはいけないと、原樹の枝の一部が山口県萩きつ試験場で育てられ
        たが、試験場廃止に伴い大日比に戻ってきた。

        

         
海近くに西円寺。
        
        
         寺下の駐車場傍に「世界最初日曜学校発祥地」の碑が建立されている。1779(安永8)
        年に大日比三師法岸上人が、毎月5日に子供念仏会を開いた。現在の日曜学校に相当する
        システムで、現在に至るまで続けられている。 

        
         西円寺参道に大きな自然石の大日比三師遺跡碑がある。1779(安永8)年に法岸が住職
        となり、法州・法道に伝えた。この三師は高僧の聞こえが高く、世に大日比三師として尊
        信された。

        
         山門はもと萩の大照院にあって、明治の寺禄廃止に伴い、1891(明治24)年に寄進さ
        れ移築された。三間二重門、正面に向拝一間付構造の格式ある山門は、桃山建築の名残を
        とどめている。

        
         1825(文政8)年建立の本堂は、向拝がなく、入口を左右両橋にとる特異な形式をもち、
        向って右側が女性、左側は男性参詣者が出入りするようになっている。本堂はもっぱら念
        仏と御講説の場で、簡素ではあるが堅実な造りである。

        

        

        
                 通浦(かよいうら)は青海島の東部に位置し、南は仙崎湾を臨み、海岸沿いを県道青海島線
        が走る。集落は南岸の内海側に集中し、段町のみが外海側に形成されている。(歩行 約4
        ㎞)

        
        通浦入口の小浦バス停付近に駐車する。

        
         通浦の特色は江戸時代に捕鯨で栄え、鯨に関する史跡などが残されている。現在も近海
        漁業を中心とした漁村集落である。(バス停前が漁港)

        
         旧道に入ると航海安全・漁業繁栄を信仰する住吉神社がある。

        
         かってのメインストリートは湾に沿って家々を結んでいる。

        
         1763(宝暦13)年に造立された小浦の黒地蔵尊は、参詣者が多く、香煙で尊体が黒光
        りすることから黒地蔵と呼ばれている。

        
         御魂神(みたみかみ)神社は明治の初め頃、この地に創建され、鯨の御魂を祀っていると云
        われている。建物の老朽化が激しく改築するには多額の費用が必要なため、御神体を住吉
        神社参集殿の神殿に合祀したと案内されている。

        
        
         静かな通りで出会えるのは猫ばかりである。

        
         くじら資料館の傍にある清月庵(観音堂)は、向岸寺五世讃誉上人が51歳で隠居して鯨
        の菩提を弔らう。

               
         鯨墓の石塔正面には「業尽有情雖放不生」「故宿人天同証佛果」「南無阿弥陀仏」と印
        刻され、側面には「元禄五年(1692)壬申五月」とある。
         解体された母鯨の胎内で死亡した子鯨を見たとき、さすがの漁師も哀れみを感じ、墓を
        建立し経を唱えて丁重に葬る。墓の背後には70数体の鯨の胎児が埋葬されており、19
        35(昭和10)年に国の史跡に指定される。

        
         マンホール蓋には鯨の絵が描かれているが、その数361もあり、地元では鯨絵を踏ま
        ないように避けて通るという逸話もあるそうだ。

        
         わずかな平地に寄り添うように生活の場がある。

        
         青海島はいくつかの島が砂州でつながり、一つの島を形成している。その近江島の東端
        にある集落
である。

         
         海岸沿いの集落には、板貼りの家屋に混じって漆喰塗の家屋も見られる。

        
         江戸時代には廻船問屋として栄えた見嶋邸。

        
         細い路地が続く段町の町並み。

        
         大師像、地蔵尊、正観音像がバランスよく配置されている段町の大師堂。江戸時代の
        大火時も類焼しなかったといわれているが、建立時期は不詳とのこと。

        
         段町の漁港。

        
         通浦と瀬戸崎浦は漁場が隣接し紛争の種があったにもかかわらず、1889(明治22)
        の町村制施行時に県が強制的に「仙崎通村」とする。
         10年後の1899(明治32)年4月に通村となり、渡船・魚類販売を村営とし、この地
        に村役場を置いた。現在は民地となっているが、階段と側面の石積みに遺構が見られる。

        
         捕鯨の記録を残す向岸寺(浄土宗)は、1679(延宝7)年に鯨墓を建立した讃誉上人によ
        って始められた鯨回向法要は、現在も当山で毎年1回行われている。

        
         金子みすゞの父親(金子庄之助)は、この寺の檀家の出身で、彼女は子供の頃、しばしば
        ここに遊びに来ていたという。「鯨法会」と題された彼女の詩が残されているが、父を亡
        くし、母とも隔てられたみすゞの心と重なっているようにも感じられる。

        
         向岸寺から見る通浦地区。

        
         向岸寺を登り詰めると通小学校に出合い、左折して下って行くと墓入口を示す看板があ
        る。

        
         この大越の浜には将兵ら千余人を乗せて戦場の中国に向かう途中、撃沈された常陸丸の
        戦死者の遺体が流れ着いたとのこと。
         また、翌年には日本海海戦で撃沈されたロシア兵士の遺体も流れ着き、日露兵士の遺体
        を住民が埋葬したという。

        
         右側の墓碑は、1904(明治37)年6月14日にロシアの軍艦により、陸軍徴傭運送船
        ・常盤丸が撃沈された。1921(大正10)年に墓碑が建立される。
         左側には翌年の5月27日に行われた日本海海戦によるロシア兵士戦没者の墓碑である。
        当初は自然石だったが、1968(昭和43)年現在の墓に建て替えられる。

        
         かつてのメインロードに入ると漆喰塗と板塀の家並み。

        
         早川家住宅は江戸時代後期築といわれ、捕鯨家の住宅としては全国で唯一の国重要文化
        財建造物に指定された。中世の早川家は、この地域を支配した土豪で、毛利氏の時代に早
        川姓を賜り、通浦の庄屋役を務め、江戸時代以降も代々網頭や浦方役人として活躍した家
        柄である。

        
         厨子二階建てと千本格子の民家。

        
         金子みすゞの父・庄之助は石津助四郎の四男として生まれ、通小学校卒業後は家業を手
        伝い、結婚後に金子姓を名乗る。渡海船の仕事をしていたが、義弟の上山文英堂書店清国
        営口の支店長となったが、みすゞが3歳の時に清国で不慮の死をとげる。

        
         通くじら祭りのハイライトは、全長13.5mのナガスクジラの模型を用いて、江戸時代
        の古式捕鯨が再現される。

        
        
         くじら資料館には、古式捕鯨と漁民の歴史を伝える品々を展示してある。北浦とよばれ
        る沿岸地域は、古くから捕鯨が行われていた。江戸時代に全盛を迎え、近代捕鯨が始まる
        明治の終わりに、その歴史に幕を閉じる。

        
         漁港前で歩きを終える。