ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市佐々並は伝統的建造物保存地区

2019年09月08日 | 山口県萩市

                
        この地形図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号令元情複第546号)
         佐々並は萩往還道の整備とともに成立した集落である。江戸後期の屋敷数は62軒、御
        茶屋や御客室などの休憩施設のほか、目代(もくだい)所・伝馬・人夫など通信、運搬の組織
        や施設が置かれた。町並みは往時の景観をとどめ、伝統的建造物群保存地区に指定されて
        いる。(歩行 約3.5㎞) 

        
         JR山口駅からJRバスJR東萩駅行き約45分、根引バス停で下車すれば萩往還道と
        合わす。

        
         バス停から往還道に入ると、要所にはブルーの道標が設置してある。

        
         「落合の石畳」を緩やかに下って行く。

        
         落合の石橋は、1945(昭和20)年代にオート三輪で荷物を運んでいる途中、真ん中の
        石橋が折れたとか。 (国登録有形文化財)

        
         長さ2.4m、幅1.7mの石橋は、江戸後期に造られた刎(はね)橋で、石組みの両岸から
        張り出した石を橋桁にした山口県特有の石橋である。

        
         千持峠へ向けて坂を登って行くと、途中には休憩所もある。(舗装路の分岐を右)

        
         峠から緩やかに下って、久年(くどし)集落への石畳を踏む。

        
         佐々並の町が見えてくる。

        
         江戸期の久年集落は農業を営む傍らで、人や荷物を運ぶために必要な人夫や馬を負担し
        た。

        
         小川家はかつて饅頭屋を営んでいたという。江戸末期の建物とされ、平入り平屋建ての
         西側一間半に3枚戸を建て、外側に雨戸を引き通し、東側一間半に跳ね上げの蔀戸を設け
        ている。

        
         西岸寺(さいがんじ)は慶長年間(1596-1615)に、毛利輝元が参勤交代の際に休憩場所とする
        ため、中畑集落の地から今の場所に移築した。現在の本堂は1738(元文3)年築、山門は
        1850(嘉永3)年頃に建てられた。

        
         参勤交代の際は、馬に乗って出入りできるように門が大きく造られている。門は中心柱
        のほか、控え柱で支える四脚門である。

        
         平入り二階建てで農家系住宅の名残りをとどめている。(手前から旧山中家、三浦家、
        山田家)

        
         山田家(右)は牛馬小屋を兼ねて納屋を設け、隣家との間に通路部分を設けている。馬は
        この通路から萩往還道に出て、目代所に駆け付けていた。

        
         弘中家(食料品店)は昭和初期の建物とされ、手前が片入り母屋で奥は切妻屋根の珍しい
        構造である。(改築されたようだ)

        
        
         佐々並橋を渡ると左側に高札場があったが、現在は河川敷になっている。ここには幕府
        や藩のお触れが掲示されていた。1966(昭和41)年の洪水により佐々並川が拡張された
        際、枡形となっていた道も直線的に改修された。

        
        
         田中商店として明治以降に呉服店を営む。1895(明治28)年築の主屋には虫籠窓・格
        子が残る。残念ながら伝建地区にあって、改修されずに崩壊の途をたどっている。裏手に
        は、1899(明治32)年築の蔵も残されている。

        
         小林家は目代所として人馬や駕籠の調達、賃金の徴収などをしていたが、明治から衣料
        ・雑貨商を営む。主屋は、1907(明治40)年頃この地の南側にあった旅館を移築したと
        のこと。

        
        
         小林家住宅の内部を見学できるようになっている。2階から中庭が眺められ、緑の中に
        石州赤瓦が映える。

        
         2階から街道を見通すことができ、土蔵には様々な資料が保管されている。

        
         林家は江戸期以来、林屋と号して旅館を営む。幕末期には高杉晋作,桂小五郎、坂本龍
        馬も宿泊したとされる。

        
         白漆喰に袖壁を配した椿家は、1888(明治21)年築の建物で、江戸時代は薬や薬草を
        扱っていた。
         手前の林家は、江戸時代は酢を製造していたが、大正期には衣料品店をされていたとい   
        う。

        
         1933(昭和8)年に山口~萩間のバス定期路線が開設され、鉄道省営バス停留所として
        洋風建築の佐々並駅が設けられた。当時は木炭バスのため路線時間は3時間半も要してい
        た。

        
         町並みは左折して上ノ町へ連なる。通路の中央には流・融雪溝が設けてある。

        
         木村家は御茶屋の予備として置かれたもので、家老、役人、他国使者の宿泊所として使
        用された。周囲は茅葺きであったが瓦葺きで葺かれていた。1917(大正6)年に佐々並村
        役場が隣の地に置かれた。

        
         往還道を隔てて北側にも木村家と同じく御客屋の井本家があった。役目を終えて当分の
        間、姿をとどめていたが敷地分割で姿を消してしまったとのこと。
         浅川理髪店は井本家の敷地跡に建っており、建物はその一部であるとされている。週1
        回の営業だったそうだが、高齢のため廃業されたとのこと。

        
         明治前期の建物とされる野崎家(手前)と隣の青木家。1865(元治2)年1月15日の夜
        半から16日にかけて長州の内訌戦が佐々並の地で行われ、12軒の家が焼失したが、そ
        の直後に再建された。

        
         三浦酒造の建物も佐々並の戦いで焼失して明治前期に建てられた。当初は「土山酒造」と
        号して酒造業を営んでいたが、1913(大正2)年に土山家から三浦家が譲り受けた。
        (現在は酒造りをされていない)

        
         大野家(畳屋)も佐々並の戦いで焼失するが、江戸後期から明治にかけて再建された農家
        系茅葺き屋根建築である。

        
         廃藩とともに御茶屋はなくなり、今ある建物は旧佐々並小学校校舎で、学校移転した後
        は市区公会堂として利用されている。

        
         毛利輝元が萩へ移る際に長松庵で休憩したとされ、後にこの地へ御茶屋が建てられたと
        伝える。御茶屋は670㎡の広さがあって、本館、長屋門、御蔵、番所などがあった。

        
         鉄筋の代わりに鉄砲の銃身が使われているとも云われる三浦酒造の煙突。勝手口側には
        かつての生活用水が流れている。

        
         市頭一里塚は石で畔をつくり、土を盛って塚木を立てたものであった。塚木には「従三
        田尻船場八里(約32㎞)・従萩唐樋高札場四里(約16km)」と記されていた。

        
         貴布禰神社は京都貴布禰神社から勧請し、大内時代に建立された。元々は御茶屋を見下
        ろす位置にあったが、殿様を見下ろすのは不敬だと現在地に移したとされる。

        
        
         貴布禰神社から台山に上がると佐々並の町並みが一望できる。

        
         台山から道の駅「あさひ」方向へ下ると佐々並バス停があり、ここから山口市内へ戻る
        ことができる。


防府市の富海は旧山陽道の半宿だった地

2019年09月08日 | 山口県防府市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         富海(とのみ)は江戸期のはじめは萩藩領であったが、支藩の徳山藩が誕生すると徳山藩領
        に組み込まれる。域内を山陽道が通り、宿場町(半宿)が形成されたが漁村であった。安永
        年間(1772-1781)になると、漁船が旅客や貨物を運搬するようになり、大阪まで陸路で2週
        間かかるところを約6日で行ったと伝えられている。(歩行 約6㎞)

        
         JR富海駅は、1898(明治31)年に山陽鉄道の延伸により開業するが、今でも開業当
        時の雰囲気を残す駅である。「とのみ」とは読めない難読駅の1つでもある。

        
         駅から富海海岸に出ると看板に目が留まる。明治の終わり頃に、富海海岸の美しさに魅
        了されたエドワード・ガントレット博士により、富海が広く紹介されて鉄道による海浜リ
        ゾート地になったとのこと。
         ガントレット博士(1868-1956)は、山口高等商業学校(現山口大学経済学部)の英語教師と
        して、8年6ヶ月を山口で過ごす。その間、秋芳洞の学術調査を行い海外へ初めて紹介し
        たことでも知られる。1898(明治31)年に作曲家・山田耕作の姉である恒子と日本で最
        初の国際結婚をした人物でもある。

        
         松原から海岸線が遠くなったが、湾の東側には周防灘に突き出た八崎岬がある。江戸時
        代、飛船が岬を見ながら出入りしたとされる。

        
         伊藤俊輔(博文)と井上馨は、1864(元治元)年に四国連合艦隊が下関襲来を知り、急遽、
                英国から3ヶ月の航海を経て、6月10日に横浜港へ到着する。
         ザフォード・オールコック英国公使と面談し、長州説得を条件に6月20日、軍艦ハ
        ロサ号で大分県の姫島に着いた。

        
         その後、飛船入本屋磯七宅へ密かに上陸し、身支度を整えて陸路で三田尻を経由して山
        口に入ったとされる。(建物は老朽化のため解体された)

        
         港の出入口に竜神が祀られ、山陽本線が走る。

        
         今井・中西君受難碑が浦開作第1踏切傍に建てられている。裏書きには、1944(昭和
          19
)年7月21日運転中の前方に列車転覆事故を発見し、非常手段を講じたが及ばず‥‥
        今井機関士20歳、中西機関助手18歳とある。

        
         飛船で栄えた富海港だが、現在の富海漁港は第1種漁港とされ、利用範囲は地元の漁業
        を主とする漁港である。

        
         海から国津姫神社に通じる鳥居は、1839(天保10)年に海上安全を祈って飛船乗組中
        が寄進したとある。

        
        
         国津姫神社は富海の氏神様で、祭神は厳島神社や宗像大社と同じ海の女神三柱が祀られ
        ている。景行天皇や神功皇后が船で立ち寄ったことや、毛利元就が社を修復したことなど
        の由来が残されているようだ。

        
         1872(明治5)年に学制が公布され、神祥寺跡に石川・佐伯両家の寺小屋を引き継ぎ、
        富海小学校が開校される。1902(明治35)年に神社境内地に移転したとある。(解体作
        業中であった)

        
         脇集落の山手側に脇古墳がある。古墳時代後期に造られたとされる横穴式石室の古墳で、
        墳丘の土が流れて石の間から中を覗くことができる。

        
         国道2号線を横断して旧山陽道を山手に向かうと円通寺(真宗)がある。創建時は椿峠に
        あったが、延宝年間(1673-80)に現在地へ移転する。1866(慶応2)年に設置された徳山
        藩小隊の陣屋となる。

        
         酒造業をされていたと思われる大きな古民家がある。

        
         「白菊」と記された煙突等は撤去され、当時の面影は失われていた。(2011年撮影)

        
         新川の「ひがしじょう橋」から山手に向かうが急坂である。見晴らしのよい所に上がる
        と、富海の町並みや周防灘などが開ける。

        
         石原薬師堂は仏門に帰依した平重盛の曾孫・金剛房南岳大僧都が、壇ノ浦の戦いで敗れ
        た平家一門の菩提を弔うために、鎌倉期の1211(建暦元)年に建立したとされる。古くは
        光福寺と称していたという。

        
         聖観音像は平安時代後期、薬師如来像は鎌倉時代、脇士不動明王・毘沙門天は室町時代
        の作とされる。(ガラス越に拝見) 

        
         再び国道2号線を横断して富海小学校脇に出ると、JA支所前で旧山陽道と合わす。角
        には国登録有形文化財の清水家がある。

        
         清水家は江戸時代前期には紺屋業、のちに酒造業を営み町年寄を務めた清水弥兵衛が、
        1878(明治11)年に建てたとされる。桟瓦葺きの木造平屋(厨子2階あり)漆喰仕上げの
        町家で、街道に面して出格子を備えている。

        
         富海宿は東町、中市、新町で構成され、町の長さは約527mあり、町の中心は中市で
        あった。宿は半宿で町年寄の支配に属し、宿馬15疋が置かれていた。

        
         脇本陣だった入江家。

        
         入江家の角には「當国20番 瀧谷寺道」の石柱があり。周防33観音霊場20番札所
        とされている。
         1615(慶長20)年当地を領していた内藤元盛は、佐野道可と変名して大坂城に入って
        豊臣方として戦う。(主家の意向を受けたとも)
         大坂城が落城すると逃走したが捕らえられて切腹させられる。元盛の長男である元珍(も
          とよし)
は徳川氏より京都に呼び出されたが、大坂城に入城しなかったことで許されて国元
                に戻る。
                  しかし、毛利輝元は切腹を命じ、瀧谷寺(りゅうこくじ)で自刃した。(享年34歳)

        
         富海本陣は徳山藩に直属する御茶屋で、永代御茶屋預けとして石川家が命じられる。維
        新後は石川家の所有となったが、その後、S家とA家の所有となり、A家の家屋新築で土
        塀などの遺構が消滅する。S家は一部建物を解体したため、土塀と門だけが遺存されてい
        る。この本陣は、東隣の福川宿や西隣の宮市宿が混雑する時に利用された。

        
        
         入江家前から海側への路地を抜けると船蔵通り。

        
         飛船問屋大和屋政助の船蔵で、2階が客室、1階が台所兼物置、地下が倉庫となってい
        て、船を地下に横付けして乗客や荷物を載せた。
         大和屋政助は幕末、勤皇の志士の活動を援助し、1863(文久3)年9月には中山忠光公
        を匿い、1864(元治元)年には俗論派に追われた高杉晋作も政助を頼り、飛船で赤間関ま
        で送ったとされる。

                
         イギリス積み煉瓦構造の建物がある。地元の方によると荷受け倉庫だったとのこと。

        
         この小道が江戸時代の海岸線であったとされ、船蔵に船を横付けできる構造で、最盛期
        には50~60軒の飛船問屋があったとされる。海岸線と各家は石段で結ばれている。

        
         山陽本線下を潜る。

        
         船蔵通り出入口に南画家「小田海僊(おだかいせん)の生誕地」の碑がある。海僊(1785-18
        62)は廻船業の河内屋に生まれ、下関市の「小田家」の養子となる。22歳のとき松村呉春
        に絵を学び、中国風の画風を取り入れて南画家として有名になる。高野山や京都御所の障
        壁画などを手掛けている。

        
         旧理髪店前で旧山陽道と合流して西町に入り、山陽道を進むと右手にえびす堂がある。
        生業を守護として福利をもたらす神で、鯛と竿をもっている姿から海浜に祀られ、漁師が
        大漁を祈って祀っていた。

        
         大和屋政助の墓は品川弥二郎の揮毫で、墓碑銘「攘夷義民大和屋政助墓」とされている。
        燈籠にも「燈籠1基品川氏」とある。
         裏面ははっきりと読めないが、明治19年(1886)8月9日死 碑面 子爵品川‥」とあ
        る。

        
         同じ墓地内の右手奥に入江石泉(せきせん)の墓もある。富海の町年寄で海坊僧として知ら
        れた月性に学び、私財を投じて文学堂などを設け、富海における尊王攘夷の指導的役割を
        果したとされる。(墓の近くにJR富海駅)