ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

長門市仙崎は童謡詩人・金子みすゞが過ごした町 

2019年09月26日 | 山口県長門市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         仙崎は仙崎湾と深川湾に突き出た半島部に集落があり、北には100m余の瀬戸を隔て
        て青海島がある。南部はJR仙崎線、主要地方道仙崎港線が走る。
         地名について風土注進案は、「瀬戸崎、古くは紫津ヶ浦といった由(中略)、また瀬戸崎と
        いうのは、古く青海島の王子山に祇園社があり陸続きであったが、その後いつとなく砂州が
        崩れて迫戸となったので瀬戸崎というようになった」とあり、仙崎は瀬戸崎が訛ったもので
        あろうとされる。(歩行 約5.5㎞)

           
         JR長門市駅から仙崎線があるものの便数が少なく利便性に欠ける。長門市駅からバス
        利用して道の駅センザキッチンバス停で下車する。

           
         美祢線の貨物支線として1930(昭和5)年5月に開業したが、鉄道網から外れてしまう。
        民意を反映させるべきと国鉄当局へ陳情・請願を繰り返し、1933(昭和8)年8月に駅舎
        と3㎞の盲腸線が開通する。

           
         みすゞ通りの正面にあるJR仙崎駅は、仙崎出身の童謡詩人・金子みすゞ展示施設にも
        なっている。


           
         JR仙崎駅からみすゞ通り。みすゞの「こだまでしょうか」の最後の一節「こだまでし
        ょうか いいえ 誰でも」は、2011(平成23)年の東日本大震災の直後から民放テレビ
        で放映された。


           
         みすゞが通った瀬戸崎小学校跡。

           
         静かな通りである。

           
         町家も現存する。


           
         今も生誕地前には郵便局がある。「郵便局の椿」には幼い頃に見た赤い椿、黒い門と古
        い郵便局は懐かしいとある。


           
         みすゞ生誕地前にあった氷蔵。改造されてお店となっているが、その壁に描かれたみす
        ゞのモザイク画。

           
         みすゞ生誕百年にあわせて、金子文英堂跡に建てられた実家と記念館が、2003(平成
          15)
年にオープンする。隣の記念館は旧上田酒店の外観をとどめた形になっている。

           
         金子文英堂に入ると当時の復刻版が並んでいる。

           
         帳場から店と通り。

           
         二階がみすゞの部屋。窓から通りが見える。

           
         白井酒食品店(乾物店)と旧上田酒店との間には、「馬つなぎ場」の碑が立つ。みすゞの
        童謡「角の乾物屋」では「三軒目の酒屋の炭俵、山から来た馬いま飼葉」とある。


           
         「角の乾物屋」である白井酒食料店は駅から4つ目の角にあり、みすゞの家は2軒手前
        にあった。下関に引っ越しても忘れられない所であったと思われる。

           
         ツタで外観を見ることができないが、洋館建てだった仙崎湯。(白井酒食品店の交差点を
        左折する)
 
  
        
         通りに戻ると明治期からの材木商だった松岡家。

           
         みすゞの童謡では「八百屋のお鳩」と題し、「おや鳩、こばと お鳩が3羽 八百屋の
        軒で」とある。

           
         1692(元禄5)年創建の普門寺。

           
         本堂裏の墓地には魚鱗成仏を願った「一字一石塔」が建立されている。石碑の正面に「
        法華経一字一石」、側面には「諸浦繁栄魚鱗成仏」宝暦9(1759)年建立とある。


           
         妻入りの作道商店。

           
         大正時代から醤油屋を営んでいた五嶋家。綺麗な格子が目を引く。

           
         極楽寺はみすゞにとって楽しかった家族との情景だろうか、「和布結飯のお辯當で、お
        辯當で、さくら見に行ってみてきたよ」とある。今でも参道には桜の木が現存する。みす
        ゞが仙崎の町を詠んだ8ヶ所の1つである。

           
         みすゞが詠んだ「極楽寺」に出てくる横丁。

           
           
         金子みすゞの墓所がある遍照寺。無縁墓同然だったようだが墓碑銘には「昭和5年3月
        10日上山ミチ娘金子テル()」とある。

         みすゞ(本名金子テル)は、1903(明治36)年4月11日に生まれ、23歳で結婚する
        も不幸な結婚生活に疲れ、26歳で離婚して自ら命を絶った。

           
         造り酒屋だった持山家。18世紀頃に建築されたという。

           
         案内板のある場所が日本近代式捕鯨発祥の地とされ、ここに日本遠洋漁業株式会社があ
        った。日本で最初に近代式捕鯨を手がけた企業で、社名は変遷したが、現在の日本水産㈱
        に至っている。


           
         近代捕鯨発祥の地から路地に入ると立野家。18世紀頃に建築されたとされ、裏口には
        船着き場があった。


           
         遍照寺、浄岸寺、西覚寺、極楽寺、普門寺と続く寺町の裏通り。

           
         深川湾側の海岸線に出ると北に青海島。

           
         海岸から花津浦(はなづら)の鼻藻岩が見える。「むかしむかしよ 花津浦よ みんなむか
        しになりました」と、浜で花津浦を眺めていた頃が、遠い昔の出来事なってしまったと締
        られている。ここもみすゞの仙崎八景とされている。

           
         仙崎の北端と青海島の間は約100m。1965(昭和40)年に青海島大橋が完成するま
        では渡し船によって結ばれていた。


          
         青海大橋の急坂を進むと、みすゞの仙崎八景とされる王子山。「木の間に光る銀の海 
        わたしの町はそのなかに 龍宮みたいに浮かんでる (中略) 王子山から町見れば わた
        しは町が好きになる」

           
         入港に便利な下関港は、アメリカ軍が投下した機雷により危険であったため、仙崎港が
        引揚げ港に指定された。1945(昭和20)年9月2日、第一便の興安丸が引揚者7,000
        人を乗せて入港。約1年間で延べ41万人の人々を受け入れた一方で、朝鮮に帰国した人
        も約34万人に及んだ。


           
         瓣天島(仙崎八景)は、みすゞがこよなく愛した場所と思われる。「あまりいい島だから
        ここには惜しい島だから 貰っていくよ 綱付けて (中略) 朝は胸もどきどきと 駆けて
        浜辺にゆきました 辨天島は波のうへ 金のひかりにつつまれて‥」

           
         北端の洲崎町にある洲崎神社は古祇園と呼ばれ、創建年代は不詳である。仙崎祇園祭の
        初日、八坂神社より御神輿が出立し、最終日に八坂神社へ戻るという神事が行われる。

           
         1889(明治22)年の市町村制施行時は仙崎通村だったが、1953(昭和28)年の町村
        合併促進法公布時には仙崎町となる。旧町役場跡は長門市役所の支所になっている。


           
         支所から仙崎湾へ向かうとモザイクアートがある。

           
         白壁が美しい円究寺。戦後の外地からの引揚げに際し、外地引揚同胞救援山口県出張所
        が設けられた。

         
         1933(昭和8)年8月10日種田山頭火は三隅町より行乞し、円究寺近くの寺田屋(
        在かんのや仏具店)に宿泊する。観音堂の「千日参り」の縁日に参詣して左の句を詠む。
        翌日、仙崎を行乞して美祢の伊佐に遍路したとある。(寺の案内より)

           
           
         みすゞの生家近くにある八坂神社(祇園社)。仙崎で暮らした頃に戻ることができない寂
        しさを詠んだのだろうか、「はらはら 松の葉が落ちる お宮の秋は さみしいな

           
         センザキッチンバス停に戻る。

           
         この大漁のいう詩は、雑誌「童謡」に応募して西條八十に認められたみすゞの出世作で
        ある。碑は道の駅「センザキッチン」入口にある。