ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市の椿東は明治維新胎動の地

2019年09月13日 | 山口県萩市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         椿東(ちんとう)は、萩城下の東に位置し、大部分は山地で集落は松本川右岸の平野部と田
        床山に西麓に立地する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の椿郷東分村が単独で自治体を形成
        する。1921(大正10)年に椿東村に改称するが、村は7つの小村で構成されていたが、
        その1つである松本市を中心に散歩する。(歩行 約9㎞) 

        
         JR東萩駅へは本線といいながら列車の便数は少なく、JR山口駅から東萩駅行きのバ
        スに乗車すれば1時間30分で当駅に到着する。1973(昭和48)年に駅舎は白壁の武家
        屋敷風に建て替えられた。

        
         駅前にはレンタサイクル、まあーるバスもあるが、松本川に沿いながら松陰神社を目指         して歩くことにする。

        
        月見川に架かる観月橋で左折する。

        
         松島剛蔵(1825-1864)は藩医である父・松島瑞蟠が発狂し廃人となったため、6歳で家督
        を継ぐ。江戸に出て西洋医学を学び、長崎では航海術を学び、1857(安政4)年に藩最初
        の洋艦丙辰丸の艦長となる。禁門の変後に政権交代で失脚し、野山獄で刑死となる。この
        地が宅跡とされる。

        
         松浦松洞(1837-1862)は魚商の子としてこの地で生まれ、幼少より絵画を志し,小田海僊
        らに画を学ぶ。吉田松陰に師事し、その指導で各地の忠士・孝士・烈士を訪ね肖像画を描 
        く。
         吉田松陰が東送される直前に肖像画を描き、その面影を伝えたが、長井雅楽の暗殺を企
        てたが、果たせず京都で自決する。(享年26歳)

        
         松陰神社に入ると左手に「薩長土密議之処」と刻まれた大きな石碑がある。1862(
        文久2)年1月に土佐藩士の坂本龍馬が、藩士の武市瑞山の書簡を持って久坂玄瑞を訪ねる
        ため来萩し、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まる。
         たまたま薩摩藩士の田上藤七らも書簡を持って来萩していた。図らずしも薩長土の藩士
        が一同に会した場所である。

        
         松下村塾は、1842(天保13)年に松陰の叔父・玉木文之進が、自宅で私塾を開いたの
        が始まりとされる。1857(安政4)年に現存する塾舎に移り、1858(安政5)年に閉鎖さ
        れるまで2年10ヶ月の間に、延べ約90名の門人を数え、多くの人材を輩出した。

        
         1856(安政3)年吉田松陰は国外渡航に失敗して野山獄に投獄され、のちに許されて
        実家の杉家で謹慎処分となる。親戚や近所の若者を幽因室(3畳半)で講義を始めるが、1  
        857(安政4)年1月に師弟が増え続けたため、杉家の家族が庭先の小屋を修理して塾を
        引き継がせる。

        
         この地域が小村の松本村(市)であったことから「松下村塾」という名がつけられた。名
        簿は現存しないが約50名ほどいたとされるが、識の高杉晋作・才の久坂玄瑞、吉田稔麿、
        入江九一は四天王と称された。

        
         松陰神社は、1890(明治23)年に杉家の家族が松下村塾改修時に、私祠として土蔵造
        りの小祠を建立されたのが始まりとされる。

        
         品川弥二郎の屋敷地内に小祠を建立して品川神社とされてきたが、のちに現在地へ移転
        改修されて勧学堂となる。

        
         旧社殿は松門神社として、門人であった人々52霊が祀られている。

        
         花月楼は、1776(安永5)年に7代藩主・毛利重就が、三田尻(防府市)の別邸内に建設
        した茶室である。茶道の竹田休和が平安古の自邸内に移し、さらに1888(明治21)年に
        品川弥二郎が自邸内に移したが、1959(昭和34)年に神社境内へ移転される。

        
        
         1853(嘉永6)年のペリー来航をきっかけとして、幕府は諸藩に「洋式砲術令」を発布
        して洋式砲術修業を奨励する。萩藩では鍋や農機具、寺の梵鐘などを造っていた郡司(ぐん
          じ)
鋳造所を大砲鋳造所と定める。

        
         郡司喜平治と郡司武之助が研究を重ね、在来技術である「こしき炉」によって洋式大砲
        が鋳造される。「こしき炉」とは、古来からの鋳物用の溶解炉のことで、この鋳造設備が
        復元されている。
         郡司家が鋳造した大砲は、江戸湾防備のため三浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれ
        たり、1863(文久3)年の関門海峡での外国船砲撃、翌年の四ヶ国艦隊との戦争でも使用
        される。

        
         松陰神社横の月見川遊歩道を進むと山代街道に合わす。街道は萩城下から鹿野、須万、
        広瀬、本郷町を経て、岩国市美和町を繋ぐ萩藩の領内統治上重要な街道であった。

        
         山田顕義(やまだ あきよし・1844-1892)は長州藩士である山田家の長男としてこの地で生
        まれる。14歳で松下村塾に学び攘夷運動に奔走する。
         明治維新後は、岩倉使節団に従い欧米を視察して、「法律は軍事に優先する」ことを確
        信する。内閣発足後は司法大臣として法典編纂に任にあたるが、病気を理由に辞任する。
        1892(明治25)年に再従兄の河上弥市の最期の地を訪れ、生野銀山視察中に倒れて没す。     
        日本大学の学祖とされ、生誕地は顕義園として公園化されている。

        
        
         楫取素彦(小田村伊之助)は藩医の松島家に生まれ、藩儒・小田村家を継ぐ。初代の群馬
        県令となり産業・教育に力を注ぐ。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では時の人となったが、
        今では訪れる人も少ないようだ。(兄が松島剛蔵)

        
         松島剛蔵旧宅地碑が河原家の前にあるが、実際の生家はさらに150mほど東側とのこ
        と。

        
         東光寺は、1691(元禄4)年に3代藩主・吉就が創建した黄檗宗の寺院である。総門は
        桁行三間、梁間二間の八脚門で、中央打ち上げの棟式屋根は黄檗宗様式で、表面はベンガ
        ラを施している(国重要文化財) 

               
        
         1812(文化9)年に藩主・毛利斉煕(なりひろ)が寄進建立された三門は、入母屋造りで三
        間三戸2階建ての二重門である。(上が総門側、下が大雄宝殿側より。国重要文化財)

        
         1694(元禄7)年に藩主・毛利吉広が梵鐘を寄進した際に鐘楼が建立された。黄檗宗特
        有の一重二階もこし付の入母屋造りである。(国重要文化財)

        
         大雄宝殿(本殿)は、1698(元禄11)年に竣工した唐様式の仏殿である。黄檗宗では本
        堂を大雄宝殿と呼び、「お釈迦様がいらっしゃる所」とされている。堂内は土間で中国明
        時代の法要を継承するもので、黄檗宗の読経は立ったまま行われる。建物の正面桁行は五
        間、背面は三間、梁間は四間の入母屋造りである。 (国重要文化財)

        
         大雄宝殿の屋根には24個の鬼瓦が各棟に据えられている。南東隅棟の二の鬼の位置に
        据えられた鬼瓦は、創建当時の鬼瓦であるとのこと。

        
         1896(明治29)年に身をもって難に殉じた藩士のために慰霊墓所が設けられる。禁門
        の変による幕府への謝罪のために切腹した三家老と、俗論派のために萩で自刃させられた
        清水清太郎、幕府の長州征討の起因の責任をとって山口で自刃した周布政之助、反対派に
        より野山獄で処刑された11烈士などが祀られている。

        
         建立当時は新寺の建立は禁止されていたので、厚狭郡松屋村(現下関市松屋)にあった東
        光寺を現在の地に移したものである。吉就没後に廟所とされ、以来、大照院と並んで毛利
        家の菩提寺となる。

        
         3~11代までの奇数代藩主夫妻が葬られている。墓の形式は五輪塔(大照院)ではなく、
        唐破風の笠石付き角柱(位牌)の形に統一されている。

        
         墓所内に整然と左右均等に並んでいる約500基の石灯籠は、家臣らが主人を追って殉
        死する替わりに寄進したのが始まりとされる。

        
         肴板(ぎょばん)は魚の形をしているが、魚は日夜を問わずに目を閉じないことから、寝る
        間を惜しんで修行に精進しなさいという意味があるらしい。使用目的は、これを打って時
                間や行事を報知させた。

        
         大雄宝殿への長い廊下。

        
         団子岩と呼ばれる小高い丘に、1860(万延元)年2月7日吉田松陰の遺髪を埋葬した墓
        がある。松陰の後側に高杉晋作の墓があるが、松陰を背後からお守りするという意味だそ
        うだ。

        
         吉田松陰生誕地から萩の町並みが見える。

        
         杉家は川島に住んでいたが文化・文政の大火に遭い、1825(文政8)年に父が俳人の八
        谷聴雨の別荘を買い求めた。松陰誕生後の1848(嘉永元)年、現在の松陰神社境内に生
        活の場を移す。

        
         松下村塾の創設者であり吉田松陰の叔父にあたる玉木文之進は、1842(天保13)年に
        塾を開いて多くの子弟を教育した。1876(明治9)年に前原一誠の起こした萩の乱を阻止
        できず、多くの門弟が参加したことから「自己の教育責任を一死をもってこれを償う」と
        自刃する。(享年66歳)

        
        
         14~28歳まで起居した伊藤博文の旧宅は、木造平屋建て29坪の小さなものである。
        萩藩中間の伊藤直右衛門の居宅であったが、1854(安政元)年に博文の父・林十蔵が一家
        をあげて伊藤家に入家した。(国史跡)

        
        
         伊藤博文が別邸として、1907(明治40)年に東京・大井に建てたもので、その後、上
        杉家に譲渡され、ニコンが1944(昭和19)年に取得したが、傷みがひどく解体されるこ
        とになった。
         このことからが萩市が、1998(平成10)年に玄関、大広間、離れ屋敷3棟を移築した。

        
        書院の間と次の間。

        
         奈良にあった樹齢1000年の吉野杉を一枚板(厚さ5㌢、幅2m、長さ10m)として
        使った鏡天井廊下である。

        
         松下村塾の四天王と呼ばれた吉田稔麿(1841-1864)の生誕地。1864(元治元)年6月5
        日の京都・池田屋事件で命を落とすことになるが、最期については諸説あるようではっき
        りしないという。

        
         松下村塾で学び、攘夷運動に奔走した品川弥二郎(1843-1900)の生誕地。禁門の変に参加
                したが敗けて帰国し、御堀耕助らと御楯隊を結成。維新後は内務大臣などを歴任する。

        
         この付近に椿郷東分村役場があったとされる。

        
         松本川右岸をJR東萩駅まで戻るとJR(美祢線経由)、JRバス(山口駅)、防長バス(新
        山口駅)行きの路線がある。