ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

大竹市木野に古い町並みと岩国市小瀬は旧街道町

2019年09月19日 | 山口県岩国市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)      
         木野(この)は小瀬川を挟んで左岸にある広島県大竹市の町で、小瀬(おぜ)は木野の対岸に
        位置する山間の地にあり、山口県岩国市に属する。(歩行 約2.5㎞)

           
         JR大竹駅前から坂上線バス(さかがみバス)鮎谷行き約15分、下中津原バス停で下車
        する。便数は平日で4便、土日祝日は3便と少ない。

           
         木野の町中には2本の道が通っているが、古い町並みが見られるのは山側の道である。
        (バス停から大竹側に引き返す)

           
         中津原格子戸通りとされる道に入る。

           
         明治から昭和に入っても中津原地区は、手すき和紙やその他の集結地として繁栄する。

           
         繁栄期には酒造・醤油などの産業地として、銀行も2行あったとのこと。

           
         繁栄期の面影を色濃く残し、格子戸のしっとりした町並みを見ることができる。

           
         神社参道の両側にも格子戸の家が連なる。

           
         一般的に神社の「本殿」は正面からは見えないが、この厳島神社は、土地に制約があっ
        たのか本殿、幣殿、拝殿を見ることができる。

           
         急峻な山肌に沿って厳島神社が建立されている。

           
           
         境内の石段を上がると、摂末社である天満宮と恵比寿神社が祀られている。拝殿には左
        から祇園、稲荷、金毘羅、人丸神社が鎮座する。


           
         境内から木野の町並み。

           
         見応えのある通りである。

           
         白壁と格子戸の町家も趣がある。

           
         妻入りの大きな家だが、木野は平入り、妻入りの家が混在する。

           
         醤油製造の叶屋さん。

           
           
         ここも妻入りの大きな家である

           
         和紙を商いとされた商家の建物が連なる。

           
         屋根も切妻と入母屋が混在している。

           
         木野川が川止めとなれば中津原にも大名等が宿泊する場所が必要となり、「津屋の御茶
        屋」と呼ばれた本陣(私設の休泊所)が設けられる。
         当時の津屋市郎左衛門は庄屋格の村役人で、御境見廻役を勤めていたが、元々の家業は
        酒造りで、御茶屋を副業としていた。

           
         西進すると小瀬川に合わす。

           
         案内板で小瀬の渡し場付近の状況を知ることができる。

           
         駕籠置き場とされていた「ごじんじ」が再現されている。

           
         堤防の築堤年代は定かではないが、「巻石」といわれる約100mにおよぶ城の石垣の
        如く強固な石組みを築いたのは、福島正則の時代に入ってからと語り継がれている。

           
         
1700(元禄13)年に巻石の上手に「小林の三角和久(さんかくわく)」が設けられている
        が、洪水の水圧と巻石の重要な保護のため築かれたとのことで、今もそのままの状態で見
        ることができる。


           
         舟渡しは公儀の飛脚を最優先させ、たとえ真夜中であろうと舟を出すよう義務づけられ
        ていた。このため、渡し守の3人ずつが昼夜2人1組で両藩が交替し、費用は安芸・周防
        両国で負担した。
         渡し賃は芸防に限らず、江戸時代には一般に武士は無料、百姓・町人は有料であった。
        ちなみに寛永期(1625年代)には1人米1合であったが、1720年代の「享保増補村
        記」によると、人は2文・牛馬は4文とされ、公定の賃銭が払われたようである。


           
         
小瀬川は川が流れる地域によって木野川、大竹川、小瀬川、国境川などいくつもの呼び
        名があった。
河川法により基本的に源流から河口もしくは合流点までは同一の名称で統一
        されることになり、右岸にある小瀬の地名から小瀬川になったという。

           
         小瀬集落は平地を耕作地とするためか、山裾に民家が集中する。

           
         両国橋から籌勝院(ちゅうしょういん)までの小路は、どこにでもある風景である。

           
         籌勝院(曹洞宗)の山門は閉じられているが、脇戸から入ることができる。

           
         幕末の第二次幕長戦争芸州口の戦いでは、遊撃隊の本陣となる。

           
         境内には芸州口の戦いで戦死した遊撃隊兵士の墓がある。

           
         籌勝院は慶長年間(1596-1615)香川光景の菩提寺として香川春継が建立する。光景は戦国
        時代から江戸時代前期にかけては安芸武田氏家臣であったが、後に毛利氏の家臣となる。
        光景の次男であった春継は吉川氏に仕えるようになり、家老として吉川氏を支えた。

           
         渡し船待ちの茶屋が、渡し口から100mほどの所に設けられていた。庄屋だった嘉屋
        氏が営んでいたようで、白い壁の家が茶屋跡とされる。この付近に一里山と呼ばれる一里
        塚があったようだ。


           
         小瀬村は1889(明治22)年の町村制施行により、関ヶ浜村、瀬田村、和木村と合併し
        て小瀬川村が発足する。
         しかし、10年後に合併を解消して大字小瀬の区域をもって小瀬村となり、小瀬川村は
        和木村に村名変更する。1955(昭和30)年の合併では和木村ではなく、岩国市に編入さ
        れる。
岩国市となるまでこの地に村役場があった。

           
         渡しにある吉田松陰歌碑には「夢路にもかえらぬ関を打ち越えて いまをかぎりと渡る
        小瀬川」と刻まれている。
         1859(安政6)年5月28日幕命を受け、駕籠で江戸へ護送される吉田松陰が、小瀬川
        でいよいよ故郷の国を離れ、もう二度と戻れないと覚悟して詠んだものである。この年の
        10月江戸伝馬町の獄舎で斬罪に処せられた。

           
         16時16分のいわくにバスでJR和木駅に戻る。こちらも便数が少なく、土・休日は
        この便が最終便である。(小瀬から駅まで4.2㎞)