ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

和木町ー第二次幕長戦争芸州口の戦いが行われた地

2019年09月17日 | 山口県和木町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)      
         和木(わぎ)は山口県の東端にあって、北に県境である小瀬川を挟んで広島県大竹市に接し、
        小瀬川の堆積作用と新田開発による平地に立地する。
         
1889(明治22)年に瀬田・和木・関ヶ浜・小瀬の4村が合併して小瀬川村となったが、
        1899(明治32)年に小瀬村を分割して和木村となり、現在の和木町の町域が確定する。
        (歩行 約6㎞)  


        
         2008(平成20)年に新設開業したJR和木駅は、相対式2面2線のホームを有してい
                る。

        
         小瀬・上関往還道は、小瀬の渡し場からこの地点が一里とされた。

        
         県道122号線(大竹和木線)を北上すると小瀬川に突き当るが、手前の和木郵便局を右
        折すると山陽本線に合わす。

        
         線路に沿うと小瀬川に出る。

        
         200年にわたる吉川・浅野藩の国境争いの中で、1752(宝暦2)年には小瀬川口の与
        三野地で騒動が起き、双方に死傷者が出る惨事となった。50年後の1802(享和2)年に
               和解して国境が確定したが、この時に岩国藩主は祠を建てて犠牲となった3名を祀ったと
        いう。祠の前面にある「三秀(みつぼし)神社遺跡紀念碑」は、後世になって建立されたもの
        と思われる。

        
         小瀬川右岸を上流へ向かうと、こんもりとした森が見えてくる。

        
         玉垣に囲まれた中に米元廣右衛門(1823-1889)碑がある。若くして織工、製紙、養蚕など
        の事業を手掛けたが、ことごとく失敗する。晩年、海苔養殖の研究を続けた結果、188
        8(明治21)年に成功を収める。これにより農家では海苔の製造を副業とし家計を潤すこと
        になる。

        
         小瀬川河川敷に遊歩道が設置されている。

        
         1880(明治13)年2月廿日市~和木間に新道が完成し、小瀬川に木橋が架けられた。 
        大竹と和木の連携を深めるため、両地区の頭文字を組み合わせ「大和橋」と名付けられた。

        
         大和橋が完成した5年後には、橋から和木、装束に至る海岸ルートが開通する。これに
        より小瀬峠を越えていた旧山陽道に代わって、1951(昭和26)年新国道2号線が完成す
        るまで国道としての役割を果たす。
         また、大竹から大和橋を渡ると左右分岐であったため、道に迷う者が多く、「道しるべ」
        が設置された。

        
         石柱には竹原七郎平渡渉地点とあるが、1866(慶応2)年6月14日の朝、彦根藩使番
        (つかいばん)・竹原七郎平ら3人が先陣を切って小瀬川を渡りはじめると、対岸の竹藪に身
                を伏せていた岩国の戢翼団(しゅうよくだん)に撃ち殺される。

        
         「四境之役 封境(国境)之地」とある。

        
        
         願掛地蔵の由来によると、八幡山の崖下は深い淵で、毎晩のように得体の知れないもの
        が出没するため、道辺に地蔵菩薩を祀ったところ出なくなったとされる。

        
         安禅寺の境内入口には大門(鐘楼門)がある。ここに架かる扁額は1725(享保10)年に
        寄付されたが、船板が使用されて表面には船虫による無数の虫穴があるとのこと。寺名は
        粟屋元俊の戒名・安禅院によるという。

        
         本堂から離れた所に釈迦堂。

        
         戢翼団(しゅうよくだん)隊長の品川清兵衛が竹原七郎平の遺骸を検めたところ、守袋の中
        に妻から息子が亡くなり、49日の法要を済ませたことが記されていた。
         品川も息子を亡くしており、竹原の胸中を察して芸州口の戦いが終わった後、同寺に墓
        を建立したとされる。

        
         瀬田八幡宮へは急坂である。

        
         参道より小瀬川上流。

        
         きつい上り坂を終えると鳥居の先に石段が待っている。

        
         瀬田八幡宮は、1715(正徳5)年6代藩主・吉川経永の命により修造されたもので、前
        室付三間社流造、向拝(本殿の正面の張り出し部分)一間の銅板葺き社殿である。神社建築
        の様式を継承し、県下でも数少ない18世紀初頭の神社建築である。(説明版より)

        
         江戸時代の和木村では15歳になると若連中に入り、村の働き手になる習いがあった。
        若連中に入ると力試しが行われ、差し上げた石の重さで報酬分配の基準が定められたとい
        う。一番石の重さは240㎏(60貫)で、「和木村の住人都石源之進」と刻まれていて、
        この人以外に差し上げた人がなかったものと思われる。(説明版より)

        
         参道より小瀬川下流域。芸州口の戦いでは、長州藩がこの山に大砲を据えたとある。

        
         中市堰手前の交差点に和木装束水道記(三分一父子顕彰碑)がある。1644(正保元)年に
        建設された用水路を、天保年間(1830-1844)瀬田口から直接水を引いて、和木装束一帯に活
        を与えた父子を称えた碑とのこと。

        
         天保年間(1830-1844)に農業用の中市堰が造られ、長年にわたって役目を果たしてきたが、
        1951(昭和26)年のルース台風で流され、その後、可動堰に改良されたが、治水上の問
        題等から新たな堰が完成する。

        
         1928(昭和3)年創業の三国酢造は、広島県大竹市が広島県西端にあり、廃藩置県前の
        安芸の国、周防の国、石見の国の三つの国の境になることから、三国一の酢になるように
        との願いで「さんごくす」と社名がつけられた。

        
         大竹側にある長州の役(芸州口の戦い)古戦場跡案内板によると、竹原七郎平(120石の
                武士・39歳)は赤い陣羽織に身を固め、軍扇を開き、封書を高く掲げて軍使であることを
                表示していたとされる。

        
         明治百年を記念して青木神社に建立されたが、現在は青木公園に移設されている。
         表には「慶応2年5月28日長州藩応戦を布告。幕府の先鋒井伊・榊原(高田)軍ここ大
        竹口に陣を進め、木野川を隔てて毛利吉川軍と相対す。6月14日未明、戦いの火ぶたが
        切られ激戦、幕府軍敗走兵火により家財を失う者九千人にのぼる。9月2日休戦成りこれ
        より政局は西南雄藩に指導され明治維新へと動く」とある。

        
         1926(大正15)年永久橋(コンクリート橋)に架け替えられ、1997(平成9)年に現在
        の橋が完成する。その際に親柱が記念として残された。

        
         青木神社は、1801(享和元)年安芸国と周防国の長年の境界争いが解決し、国境が確定
        したのを受け、1803年1月に、当地青木新開の守護神として勧請された。青木新開は
        大竹地区の最初の干拓地で、明治初頭まで大規模な干拓事業が行われた。

        
         本町と新町の境道だが古民家などは見られない。

        
         JR大竹駅は、1897(明治30)年山陽鉄道の広島~徳山間が開通すると同時に開業す
        る。広島県と山口県の境をなす駅で、この地には第二次世界大戦中、海兵団や海軍潜水学
        校が置かれ、戦後は臨海工業都市となる。


この記事についてブログを書く
« 萩市椿東の越ケ浜は砂州上の... | トップ | 大竹市木野に古い町並みと岩... »