ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市の富海は旧山陽道の半宿だった地

2019年09月08日 | 山口県防府市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         富海(とのみ)は江戸期のはじめは萩藩領であったが、支藩の徳山藩が誕生すると徳山藩領
        に組み込まれる。域内を山陽道が通り、宿場町(半宿)が形成されたが漁村であった。安永
        年間(1772-1781)になると、漁船が旅客や貨物を運搬するようになり、大阪まで陸路で2週
        間かかるところを約6日で行ったと伝えられている。(歩行 約6㎞)

        
         JR富海駅は、1898(明治31)年に山陽鉄道の延伸により開業するが、今でも開業当
        時の雰囲気を残す駅である。「とのみ」とは読めない難読駅の1つでもある。

        
         駅から富海海岸に出ると看板に目が留まる。明治の終わり頃に、富海海岸の美しさに魅
        了されたエドワード・ガントレット博士により、富海が広く紹介されて鉄道による海浜リ
        ゾート地になったとのこと。
         ガントレット博士(1868-1956)は、山口高等商業学校(現山口大学経済学部)の英語教師と
        して、8年6ヶ月を山口で過ごす。その間、秋芳洞の学術調査を行い海外へ初めて紹介し
        たことでも知られる。1898(明治31)年に作曲家・山田耕作の姉である恒子と日本で最
        初の国際結婚をした人物でもある。

        
         松原から海岸線が遠くなったが、湾の東側には周防灘に突き出た八崎岬がある。江戸時
        代、飛船が岬を見ながら出入りしたとされる。

        
         伊藤俊輔(博文)と井上馨は、1864(元治元)年に四国連合艦隊が下関襲来を知り、急遽、
                英国から3ヶ月の航海を経て、6月10日に横浜港へ到着する。
         ザフォード・オールコック英国公使と面談し、長州説得を条件に6月20日、軍艦ハ
        ロサ号で大分県の姫島に着いた。

        
         その後、飛船入本屋磯七宅へ密かに上陸し、身支度を整えて陸路で三田尻を経由して山
        口に入ったとされる。(建物は老朽化のため解体された)

        
         港の出入口に竜神が祀られ、山陽本線が走る。

        
         今井・中西君受難碑が浦開作第1踏切傍に建てられている。裏書きには、1944(昭和
          19
)年7月21日運転中の前方に列車転覆事故を発見し、非常手段を講じたが及ばず‥‥
        今井機関士20歳、中西機関助手18歳とある。

        
         飛船で栄えた富海港だが、現在の富海漁港は第1種漁港とされ、利用範囲は地元の漁業
        を主とする漁港である。

        
         海から国津姫神社に通じる鳥居は、1839(天保10)年に海上安全を祈って飛船乗組中
        が寄進したとある。

        
        
         国津姫神社は富海の氏神様で、祭神は厳島神社や宗像大社と同じ海の女神三柱が祀られ
        ている。景行天皇や神功皇后が船で立ち寄ったことや、毛利元就が社を修復したことなど
        の由来が残されているようだ。

        
         1872(明治5)年に学制が公布され、神祥寺跡に石川・佐伯両家の寺小屋を引き継ぎ、
        富海小学校が開校される。1902(明治35)年に神社境内地に移転したとある。(解体作
        業中であった)

        
         脇集落の山手側に脇古墳がある。古墳時代後期に造られたとされる横穴式石室の古墳で、
        墳丘の土が流れて石の間から中を覗くことができる。

        
         国道2号線を横断して旧山陽道を山手に向かうと円通寺(真宗)がある。創建時は椿峠に
        あったが、延宝年間(1673-80)に現在地へ移転する。1866(慶応2)年に設置された徳山
        藩小隊の陣屋となる。

        
         酒造業をされていたと思われる大きな古民家がある。

        
         「白菊」と記された煙突等は撤去され、当時の面影は失われていた。(2011年撮影)

        
         新川の「ひがしじょう橋」から山手に向かうが急坂である。見晴らしのよい所に上がる
        と、富海の町並みや周防灘などが開ける。

        
         石原薬師堂は仏門に帰依した平重盛の曾孫・金剛房南岳大僧都が、壇ノ浦の戦いで敗れ
        た平家一門の菩提を弔うために、鎌倉期の1211(建暦元)年に建立したとされる。古くは
        光福寺と称していたという。

        
         聖観音像は平安時代後期、薬師如来像は鎌倉時代、脇士不動明王・毘沙門天は室町時代
        の作とされる。(ガラス越に拝見) 

        
         再び国道2号線を横断して富海小学校脇に出ると、JA支所前で旧山陽道と合わす。角
        には国登録有形文化財の清水家がある。

        
         清水家は江戸時代前期には紺屋業、のちに酒造業を営み町年寄を務めた清水弥兵衛が、
        1878(明治11)年に建てたとされる。桟瓦葺きの木造平屋(厨子2階あり)漆喰仕上げの
        町家で、街道に面して出格子を備えている。

        
         富海宿は東町、中市、新町で構成され、町の長さは約527mあり、町の中心は中市で
        あった。宿は半宿で町年寄の支配に属し、宿馬15疋が置かれていた。

        
         脇本陣だった入江家。

        
         入江家の角には「當国20番 瀧谷寺道」の石柱があり。周防33観音霊場20番札所
        とされている。
         1615(慶長20)年当地を領していた内藤元盛は、佐野道可と変名して大坂城に入って
        豊臣方として戦う。(主家の意向を受けたとも)
         大坂城が落城すると逃走したが捕らえられて切腹させられる。元盛の長男である元珍(も
          とよし)
は徳川氏より京都に呼び出されたが、大坂城に入城しなかったことで許されて国元
                に戻る。
                  しかし、毛利輝元は切腹を命じ、瀧谷寺(りゅうこくじ)で自刃した。(享年34歳)

        
         富海本陣は徳山藩に直属する御茶屋で、永代御茶屋預けとして石川家が命じられる。維
        新後は石川家の所有となったが、その後、S家とA家の所有となり、A家の家屋新築で土
        塀などの遺構が消滅する。S家は一部建物を解体したため、土塀と門だけが遺存されてい
        る。この本陣は、東隣の福川宿や西隣の宮市宿が混雑する時に利用された。

        
        
         入江家前から海側への路地を抜けると船蔵通り。

        
         飛船問屋大和屋政助の船蔵で、2階が客室、1階が台所兼物置、地下が倉庫となってい
        て、船を地下に横付けして乗客や荷物を載せた。
         大和屋政助は幕末、勤皇の志士の活動を援助し、1863(文久3)年9月には中山忠光公
        を匿い、1864(元治元)年には俗論派に追われた高杉晋作も政助を頼り、飛船で赤間関ま
        で送ったとされる。

                
         イギリス積み煉瓦構造の建物がある。地元の方によると荷受け倉庫だったとのこと。

        
         この小道が江戸時代の海岸線であったとされ、船蔵に船を横付けできる構造で、最盛期
        には50~60軒の飛船問屋があったとされる。海岸線と各家は石段で結ばれている。

        
         山陽本線下を潜る。

        
         船蔵通り出入口に南画家「小田海僊(おだかいせん)の生誕地」の碑がある。海僊(1785-18
        62)は廻船業の河内屋に生まれ、下関市の「小田家」の養子となる。22歳のとき松村呉春
        に絵を学び、中国風の画風を取り入れて南画家として有名になる。高野山や京都御所の障
        壁画などを手掛けている。

        
         旧理髪店前で旧山陽道と合流して西町に入り、山陽道を進むと右手にえびす堂がある。
        生業を守護として福利をもたらす神で、鯛と竿をもっている姿から海浜に祀られ、漁師が
        大漁を祈って祀っていた。

        
         大和屋政助の墓は品川弥二郎の揮毫で、墓碑銘「攘夷義民大和屋政助墓」とされている。
        燈籠にも「燈籠1基品川氏」とある。
         裏面ははっきりと読めないが、明治19年(1886)8月9日死 碑面 子爵品川‥」とあ
        る。

        
         同じ墓地内の右手奥に入江石泉(せきせん)の墓もある。富海の町年寄で海坊僧として知ら
        れた月性に学び、私財を投じて文学堂などを設け、富海における尊王攘夷の指導的役割を
        果したとされる。(墓の近くにJR富海駅)


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