今年は「戦後70年の節目の年」だという。10年刻みの区切りが節目なのか。それとも、戦後70年を経て、日本が戦後の歩みに一区切りをつける時が来たという意味なのか。
1月1日、NHKは総合テレビ午後5時からNHKスペシャルを放送した。終戦までの東京の歴史を、当時の白黒映像をカラー化して放送した。白黒映像をカラー化する技術は20年以上前に開発されていたが、コストがかかりすぎるということで実用化には至らなかった(短時間のカラー化はされていたかもしれない。NHKの映像もすべてをカラー化したわけではない)。
その放送の中で、NHKは「1938年が節目の年になった」と位置付けた。新鮮な歴史認識の視点で、過去の歴史観を塗り替えようとしたと言うのであれば、その挑戦意欲は買うが、残念ながら論理的な検証とは言えない。
1938年に何があったか。
これまでの戦争史観では、2.26事件(1936年)が、日本が軍国主義への、坂道を転がり落ちる雪だるまのような急傾斜への節目とされてきた。2.26事件とは、皇道派青年将校らが企てたクーデター。たった1400余人で国家改造を実現しようとしたのだから、たった一人で自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んで自衛隊の決起を促そうとした三島由紀夫と、大差のないバカげた行動にすぎなかった。
しかし、2.26事件が歴史の転換点を作ったことは疑いを容れない。青年将校らの行動がメディアの報道によって国民の同情を集め、それが日本の流れを大きく変えることになった。軍部、とりわけ陸軍がそうした空気の変化を利用して、軍国主義への道を突き進んだこともすでに検証された歴史的事実である。
閉鎖された情報化社会においては、情報網を握ることが権力を奪取しようとする者にとっては最も重要な手段である。いま北朝鮮や中国の権力者たちが、いかにネット社会から閉鎖的情報空間を守ろうと躍起になっているか、そのことを考えただけでも理解できるだろう。もし北朝鮮や中国が、ネット社会を完全に解放したら、いかに軍部を掌握していたとしても、権力構造は一瞬にして崩壊する。民衆が立ち上がったら、軍部はいとも簡単に権力に反旗を翻すことは、歴史がやはり証明している。
翻って、三島由紀夫が切腹自殺を遂げたとき、しらけきっていた自衛隊員に対して、メディアが一斉に批判の嵐を浴びせていたら、自衛隊を巡る空気はその瞬間一変していた。2.26事件も、メディアが「お前ら、アホか。たった1400人余で何ができるというのか。織田信長を本能寺に襲って、いったん天下を掌握したかに見えた明智光秀は数万の軍勢を率いていた。どうように、大義のない反乱は単なる暴動にすぎない」と、こっぴどく批判していたら、その後の日本がたどった歴史はまったく違うものになっていたはずだ。
日本の軍国主義への傾斜を掃き清めた「露払い」は、はっきり言って当時の
メディアだった。
権力とメディアが癒着したら、国民は彼らが吹く笛と太鼓に踊らされることは、これまた歴史が証明している。
1938年の話に戻る。その前年37年7月7日、盧溝橋で日中軍が軍事衝突し、日中戦争が始まった。戦線は上海、南京と拡大し、翌8月には日本軍は対中全面戦争に突入していた。もう日本は後戻りできないところまで進んでしまった。メディアが「大義のない戦争だ」と批判していたら別だったが…。
では1938年に何があったというのか。歴史年表を頼りに振り返ってみよう。
1月、日本政府は対中和平交渉を打ち切り「国民政府(※蒋介石政権)を相手にせず」と声明。
4月、国家総動員法公布(5月5日施行)。
12月、近衛首相、日中国交調整につき善隣友好・共同防共・経済連携の3原則を発表。
めぼしい事件はそのくらいだ。はっきり言って日本政府も揺れていた。1月には「国民政府を相手にせず」と強硬姿勢を打ち出しながら、12月には事実上対中和平を呼びかけている。私は歴史家ではないので、詳細な検証は歴史家にお任せするが、おそらく英米の干渉によって、日本政府も和平への道を探らざるを得なくなっていたのではないだろうか。これまで、私のブログでの、「事実」を根拠としない論理的推測はすべて結果によって検証されている。
この年を、なぜNHKは「節目の年」としたのか。
実はNHKは白黒映像のカラー化で、「この年の国民の軍国主義への傾斜」を放映した。本当にその映像が、その年のものであったかどうかは、定かではない。メディアが「その年の映像」と位置付ければ、私たち視聴者はそれを「事実」として受け入れるしかない。メディアが国民を思想操作しようとすれば、このように赤子の手をひねるように簡単だ。意図的に「思想操作」しようとしたのではなくても、言論の自由の名のもとにねつ造映像を放映されても、それがねつ造であることを視聴者が見破ることは、容易ではない。
なおNHKが「節目の年」とした38年以降、日本の政界はどういう道をたどったか。
39年4月、政友会分裂。
7月、日英会談(8月、決裂)。
米、日米通商条約破棄を通告。
8月、日本、ドイツに対し独ソ不可侵条約は防共協定違反と抗議。
9月、日本、欧州戦争不介入を声明。
11月、日米会談開始。
40年2月、民政党・斉藤隆夫議員が衆議院で戦争政策批判(同議員は3月、議員を除名されたが、メディアはこの民主主義の破壊行為に対してどう報じたか、メディア自身による検証はない)。
3月、聖戦貫徹議員連盟結成。
7月、社会大衆党解党。日本労働総同盟解散。内務省、左翼的出版物に対する弾圧強化。
8月、民政党解党(全政党の解党終了)。
9月、日独伊3国同盟成立。
10月、大政翼賛会発足。
12月、情報局官制公布。以降、メディアに対する言論統制が始まる。
本来、日本を占領したGHQは、日本の軍国主義への道を掃き清めた「露払い」役のメディアを解体すべきだった。が、そうしなかった。なぜか。
日本に健全なメディアが残っていたら、おそらく軍部に協力したメディアは一掃されていた。が、メディア自身が自分で自分の首を絞めた結果、メディア自身が自主性を完全に失っていた。メディアは自分自身が生き残るため、操をGHQに売ることにした。GHQにとっても、メディアの「売春行為」は歓迎すべきことだった。占領政策を成功させるためには、メディアの協力が欠かせないからだ。
クーデターを成功させるためにはメディアを抑えることが絶対必要条件であることはすでに述べた。メディアが操を売った経緯を、私は知っているわけではない。GHQが与えたエサにメディアが飛びついたのか、それともメディアがGHQにすり寄ったのか…あるいは日本的な表現で言えば「阿吽の呼吸」でそうなったのか。
いずれにせよ、メディア自身に、自己検証抜きの「戦後70年」を語る資格はない。
最後になったが、新年のご挨拶を。「今年もよろしく」。
「おめでとうございます」とはとても書く気にはなれないので…。
1月1日、NHKは総合テレビ午後5時からNHKスペシャルを放送した。終戦までの東京の歴史を、当時の白黒映像をカラー化して放送した。白黒映像をカラー化する技術は20年以上前に開発されていたが、コストがかかりすぎるということで実用化には至らなかった(短時間のカラー化はされていたかもしれない。NHKの映像もすべてをカラー化したわけではない)。
その放送の中で、NHKは「1938年が節目の年になった」と位置付けた。新鮮な歴史認識の視点で、過去の歴史観を塗り替えようとしたと言うのであれば、その挑戦意欲は買うが、残念ながら論理的な検証とは言えない。
1938年に何があったか。
これまでの戦争史観では、2.26事件(1936年)が、日本が軍国主義への、坂道を転がり落ちる雪だるまのような急傾斜への節目とされてきた。2.26事件とは、皇道派青年将校らが企てたクーデター。たった1400余人で国家改造を実現しようとしたのだから、たった一人で自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んで自衛隊の決起を促そうとした三島由紀夫と、大差のないバカげた行動にすぎなかった。
しかし、2.26事件が歴史の転換点を作ったことは疑いを容れない。青年将校らの行動がメディアの報道によって国民の同情を集め、それが日本の流れを大きく変えることになった。軍部、とりわけ陸軍がそうした空気の変化を利用して、軍国主義への道を突き進んだこともすでに検証された歴史的事実である。
閉鎖された情報化社会においては、情報網を握ることが権力を奪取しようとする者にとっては最も重要な手段である。いま北朝鮮や中国の権力者たちが、いかにネット社会から閉鎖的情報空間を守ろうと躍起になっているか、そのことを考えただけでも理解できるだろう。もし北朝鮮や中国が、ネット社会を完全に解放したら、いかに軍部を掌握していたとしても、権力構造は一瞬にして崩壊する。民衆が立ち上がったら、軍部はいとも簡単に権力に反旗を翻すことは、歴史がやはり証明している。
翻って、三島由紀夫が切腹自殺を遂げたとき、しらけきっていた自衛隊員に対して、メディアが一斉に批判の嵐を浴びせていたら、自衛隊を巡る空気はその瞬間一変していた。2.26事件も、メディアが「お前ら、アホか。たった1400人余で何ができるというのか。織田信長を本能寺に襲って、いったん天下を掌握したかに見えた明智光秀は数万の軍勢を率いていた。どうように、大義のない反乱は単なる暴動にすぎない」と、こっぴどく批判していたら、その後の日本がたどった歴史はまったく違うものになっていたはずだ。
日本の軍国主義への傾斜を掃き清めた「露払い」は、はっきり言って当時の
メディアだった。
権力とメディアが癒着したら、国民は彼らが吹く笛と太鼓に踊らされることは、これまた歴史が証明している。
1938年の話に戻る。その前年37年7月7日、盧溝橋で日中軍が軍事衝突し、日中戦争が始まった。戦線は上海、南京と拡大し、翌8月には日本軍は対中全面戦争に突入していた。もう日本は後戻りできないところまで進んでしまった。メディアが「大義のない戦争だ」と批判していたら別だったが…。
では1938年に何があったというのか。歴史年表を頼りに振り返ってみよう。
1月、日本政府は対中和平交渉を打ち切り「国民政府(※蒋介石政権)を相手にせず」と声明。
4月、国家総動員法公布(5月5日施行)。
12月、近衛首相、日中国交調整につき善隣友好・共同防共・経済連携の3原則を発表。
めぼしい事件はそのくらいだ。はっきり言って日本政府も揺れていた。1月には「国民政府を相手にせず」と強硬姿勢を打ち出しながら、12月には事実上対中和平を呼びかけている。私は歴史家ではないので、詳細な検証は歴史家にお任せするが、おそらく英米の干渉によって、日本政府も和平への道を探らざるを得なくなっていたのではないだろうか。これまで、私のブログでの、「事実」を根拠としない論理的推測はすべて結果によって検証されている。
この年を、なぜNHKは「節目の年」としたのか。
実はNHKは白黒映像のカラー化で、「この年の国民の軍国主義への傾斜」を放映した。本当にその映像が、その年のものであったかどうかは、定かではない。メディアが「その年の映像」と位置付ければ、私たち視聴者はそれを「事実」として受け入れるしかない。メディアが国民を思想操作しようとすれば、このように赤子の手をひねるように簡単だ。意図的に「思想操作」しようとしたのではなくても、言論の自由の名のもとにねつ造映像を放映されても、それがねつ造であることを視聴者が見破ることは、容易ではない。
なおNHKが「節目の年」とした38年以降、日本の政界はどういう道をたどったか。
39年4月、政友会分裂。
7月、日英会談(8月、決裂)。
米、日米通商条約破棄を通告。
8月、日本、ドイツに対し独ソ不可侵条約は防共協定違反と抗議。
9月、日本、欧州戦争不介入を声明。
11月、日米会談開始。
40年2月、民政党・斉藤隆夫議員が衆議院で戦争政策批判(同議員は3月、議員を除名されたが、メディアはこの民主主義の破壊行為に対してどう報じたか、メディア自身による検証はない)。
3月、聖戦貫徹議員連盟結成。
7月、社会大衆党解党。日本労働総同盟解散。内務省、左翼的出版物に対する弾圧強化。
8月、民政党解党(全政党の解党終了)。
9月、日独伊3国同盟成立。
10月、大政翼賛会発足。
12月、情報局官制公布。以降、メディアに対する言論統制が始まる。
本来、日本を占領したGHQは、日本の軍国主義への道を掃き清めた「露払い」役のメディアを解体すべきだった。が、そうしなかった。なぜか。
日本に健全なメディアが残っていたら、おそらく軍部に協力したメディアは一掃されていた。が、メディア自身が自分で自分の首を絞めた結果、メディア自身が自主性を完全に失っていた。メディアは自分自身が生き残るため、操をGHQに売ることにした。GHQにとっても、メディアの「売春行為」は歓迎すべきことだった。占領政策を成功させるためには、メディアの協力が欠かせないからだ。
クーデターを成功させるためにはメディアを抑えることが絶対必要条件であることはすでに述べた。メディアが操を売った経緯を、私は知っているわけではない。GHQが与えたエサにメディアが飛びついたのか、それともメディアがGHQにすり寄ったのか…あるいは日本的な表現で言えば「阿吽の呼吸」でそうなったのか。
いずれにせよ、メディア自身に、自己検証抜きの「戦後70年」を語る資格はない。
最後になったが、新年のご挨拶を。「今年もよろしく」。
「おめでとうございます」とはとても書く気にはなれないので…。
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