僕は音痴なので歌は歌わない
コーラスもやらない
歌っても息が上がるばかりで気持良くなれないのだ
だからカラオケも苦手
「どーしても」と言われる時は
「歌っても良いのですが、お客さんから苦情が来ても責任持てないですよ」
と言うと、大体諦めてくれる
更に「どーしても」という場合は
アヒルが喉を絞められたような声を披露することになる
こうなるともはや人前に立つこと自体、破れかぶれなとこがある...^^;
ところが、こんな自分がつい最近
歌うことの気持ち良さを感じられる体験をした
それは、昨日の二松学舎でもやったのだが
「朗読すること」の中で持てた感覚なのだ
馬頭琴とのコンサートの時のみ請け負ってる朗読
僕は勿論、語りのプロではないし
普段の喋り方も滑舌が悪い
だからある時この朗読を、
とある事情でいたしかたなく請け負ってからというもの
どうしたら聴き手に届く語りが出来るか、かなり試行錯誤してきた
そしてある程度場数を重ね、慣れて来た頃に結局気付いたことは
ギターを弾いてるのと同じやり方を当てはめて朗読してた、
ということだった
情感に訴えるものが出てくるまで
「間」だの「感情移入」だの模索を繰り返す
それは決して答えの出ない作業で、本人がどこかで手を打たなければ
一生探し続けても終わりは来ない
でも、この作業をしつこくしつこく繰り返すと
遂に頭の中に映像が浮かんで1本の映画を見ているような感覚になってくる
そしてそうなればもう忘我の状態で勝手に口が動いてくれる
ギターをコントロールしてするのと同じように
自分の語る声が、自分自身のイマジネーションを掻き立ててくれるか否かを
自分に課した合格ラインとしているとこがある
しかし僕が朗読してるのは「スーホの白い馬」という民話、たった一つだけなのに
それは練習も含めたらもう百回以上読んでるのに、まだ映像が浮かばない場面がある
どういうふうに読んでも映像が浮かびづらい場所がある
その朗読の中に最近、ギターのBGMを当ててみたのだ
語りながらギターを弾くという行為は凄く難しいので
やったら良さそうに思っていたけど今まで避けていたのだが...
因みにこの民話の朗読は、叶高さんとご一緒させていただく時は
タカシさんが朗読なさるので、僕はBGMを担うことが出来る
朗読が進んで行く流れに
馬頭琴とかギターとか簡単なパーカッションなど
複数の音色をBGMとして、入れ替わり任意にその場面場面に当てがって行くと
声だけで描く朗読より、
また馬頭琴1音色だけでBGMを当てがうより、
場面場面の色分けがはっきりしてきて、ストーリーが立体的に感じられ
そうすると、このお話の中にどんどん引き込まれて行く
やっぱり自分が朗読する時にもギターのBGMが欲しいな...
前からそう思ってたことを最近やり始めてみた
話しの導入部と最後の下りの2カ所だけなのだが
それが入ることによって、急に話全体の立体感が増した
でもやはり難しくて
語りに感情移入するとギターの拍数を見失ってしまうし
ギターに意識が行き過ぎたら勿論朗読が希薄になってしまう
その異物感を自分の中で調整して行くと結局
コード進行の区切りの良いところに
語りの文章の区切りの良い分だけ当てがう形に自然となっていった
それは丁度、ギターの弾き語りをしているような感覚に近くて
朗読の文章があたかも歌詞であるかのように感じられて来たのだ
感情移入って、過剰にやりすぎると厭らしくなってしまう
でもBGMという形で音楽が合わさることで、過剰な厭らしさが緩和される
そこにBGM効果で更に映像も浮かびやすくなり、どんどん自分が入り込んでゆける
あたかも自分が弾き語りをして歌っているような感覚になって
気付いた時には山本譲二のように熱唱していた(朗読を)
こんな気持ち良い感覚なんて、今まで知らなかったぞ...
でももう知ってしまったもんね
ギターというフィールドでの知識が、朗読に新しいやり方を教えてくれた
これが自分の中でこなれた頃、またギターにフィードバックされるだろう
自分の中に作られがちなカテゴリー分けを取り払って感覚を自由に行き来させる
その流通が、大分スムーズになってきてる気がする
それが幸せに感じられる
結婚したこと、子供を持ったこと
自分の親が祖父母になった姿見ること
ギターを弾くこと、語ること、
そして歌うこと
相手の想いを受け止めること
そして触れ合うこと
そういうことたち全てが一つの歌となって
その歌を皆と歌いながら生きて行く
そういうふうに生きて行けば良いような気が、今している