A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

目を開けたまま夢を見られる時代

2005-08-23 00:09:22 | Weblog
 仕事中に眠くなるときがある。賃金を得るための仕事で寝るなどとはけったいな話である。どんな仕事でも仕事中に寝ていい仕事があるわけがない。私の仕事は監視(看士)の仕事なので、眠るわけにはいかないのである。だが、眠くなるのは自然現象なので仕方がない。
 最近、眠気を催したときはポケットからメモ帳を取り出し、ペンで何か書きつけることにしている。なんでもいいのである。絵でも文字でもかまわない。睡魔に襲われてうつらうつらしながら文字のような絵のようなものを書きつける。だが、あとで見返すとなにやら得体の知れない図像が書きつけてあるのである。自分で書いておきながら、まったく身に覚えがない。書くという行為に集中にすれば、眠気を追い払えるのではないかと思い、始めたのだが、あまり効果はないのかも知れない。

 だが、書きつけられた図像をしげしげと眺めていると、案外におもしろい。書いた本人が覚えていないのだから、赤の他人が書いたもののように見えるのである。これと似た経験を以前したことがある。学校の授業である。先生が黒板に書いたものをノートに書き写す作業である。単調ながらあとのテストのことを考えると、忘れてはいけないことばかりのような気がして書き写したものだ。だが、大事な時に限ってあの睡魔が襲ってくるのである。昼下がり、うとうとし始めるともう駄目である。
「関係代名詞には、以下のような☆~≠♯¥」
何が書いてあるかわからない…。
 何の役にも立たないふにゃふにゃした字の羅列である。字に成りきれない字のようで、字のきたない私はよけい情けなくなった覚えがある。
 あるいは、カメラで写真を撮り、現像してあがってきた写真を見た時だ。ほとんどの写真に、見覚えがあるのだが、1、2枚ほど記憶にない写真があるのである。
「こんな写真撮った覚えはないはずなのに…」
 断っておくが、別に私は健忘症でも記憶喪失でもない。健康な人間である(と思っている)。だが、このように、現実に「なくした記憶」と出会うということがあるのだ。
 眠りと現実の間のドローイング。あえて名付けるならそうなるだろうか。夢と現実を往還しながら書きつけられるドローイングを見て、意識していない無意識の間を思う。この、間には何があるのだろうか。何を私という人間は見て、考えて、書いているのだろうか。ちなみに、これはシュルレアリスムにおける自動記述などからの影響ではない。こんなことをあらためて考えるまで思いもしなかったし、それにこれは作品ではない。ただのらくがきである。ここで私が、興味があるのは、無意識ではなく、記憶(夢)と現実の間なのだ。覚えてはいないが、確実に現実に残ってしまった痕跡。この記憶と現実の落差、空間、間にひかれるのである。
 安部公房の見た夢について書かれた『笑う月』に、こんな一文がある。
「日常を夢の言葉で語るのは、そう面倒なことではない。だが、夢を日常の言葉で語りつくすのは、めったな感覚で出来る事ではないだろう。」
私がメモ帳に書きつけた図像は夢の言葉・言語なのだろうか。捕らえきることのできない夢の世界を、うつらうつらしながら書くことができないか、と最近は睡魔が襲ってくるのを前よりも楽しみにしているのである。
 などと難しいことを考えていたら、眠くなってきてしまった。また、ペンをとることにしよう…。



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