ところで、他人の仕事やその姿に感動できるためには、その人も、その人と同じ自分を超えた何か大きなものを知っている、共にそれを感じているのでなければならないね。感動するということは、共感するということに他ならないからだ。だから、ある天才の仕事に感動できるとしたなら、君は、天才だ。天才が何をしようとしていたのかを理解できるなら、君は天才だ。天才を理解できるのは天才だけだという動かせない対応とは、両者が共に自分を超えた大きなもの、つまり「天」を見ているということで理解し合うということなんだ。「天」を見ない人、「天」を知らない人は、結局は天才を理解できない。
天才だなんて、そんな大それた才能は僕にはありませんって言いたいだろ。違うんだ、才能のあるなしは問題じゃない。そんなものは、二人として同じ人はいないという、個性の違いに過ぎない。問題は、君が天才と共に天を見られる人であるかどうかということだ。天を見るとはどういうことか、もうわかるよね。ちっぽけな自分を捨てることだ。無私の人であることだ。君が自分を捨てて、無私の人であるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。真実だよ。人は、個に徹するほど天に通じることになる。この宇宙は、なぜかそういうつくりになっているからだ。
池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』トランスビュー、2003年、128頁。
無心に天を見ている。
天才だなんて、そんな大それた才能は僕にはありませんって言いたいだろ。違うんだ、才能のあるなしは問題じゃない。そんなものは、二人として同じ人はいないという、個性の違いに過ぎない。問題は、君が天才と共に天を見られる人であるかどうかということだ。天を見るとはどういうことか、もうわかるよね。ちっぽけな自分を捨てることだ。無私の人であることだ。君が自分を捨てて、無私の人であるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。真実だよ。人は、個に徹するほど天に通じることになる。この宇宙は、なぜかそういうつくりになっているからだ。
池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』トランスビュー、2003年、128頁。
無心に天を見ている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます