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伊豆の伝説の頼朝巡り、その2。

2007年12月21日 04時11分04秒 |   源頼朝


亀石峠にある「自由の翼を得た頼朝の像」。(ウソですってば)

続きまして、私の家の近所にある廣瀬神社へ向かいます。

ここは最近大がかりな整備工事をしてまして、入り口付近が真新しく広々とした感じになってしまっています。前は巨木が大量にあって、鬱蒼とはいかないまでもしんみりとした感じでしたのに。
ここには「頼朝の足跡」の石があるといいます。なんでも、頼朝が大仁の城山(伊豆のへそ)に登ったとき、下山するのがめんどくさくなって、頂上から思いっ切りジャンピングしてここに飛び降りたのだとか。相変わらずやんちゃなお方です。で、この神社のどこかにその時の足跡があるはずなんですけど… そのことを書いた本を読んだのがかなり前の事なので、正確にどのあたりにあったのか良く覚えていません。確か隣接するプールかテニスコートの方にあると書いてあった気がするけど、どうだったかな。確認の為に一応見に行ったのですが、それらしい気配がありませんでした。むしろ境内の方が、大きな石がゴロゴロしてます。しかし、そこそこ大きな岩はたくさんあるのですが、伝説を付与するほどに威厳のある石は無いような気がしますなあ。

ひとつひとつ石の表面ばかりをジッと見ていて、わたくし完全に怪しいおっさんです。(なにをいまさら)。結論、足跡が刻まれた石は無い。全部ただの普通の石だ!、、、、おいおい。誰か神社関係者の方がいたら聞いてみようかと思ったのですが、朝が早かったので近所の散歩のおじさまたちぐらいしかいませんでした。とほほ。


一番ありそうかと思ったのはこの石でした。フォルム的にね。何か謂われを付与したくなりそうな感じはね。でも足跡は無いなあ。名付けるとするなら「頼朝の靴底石」。


真ん中に足跡が? でもこんな形の岩の上に飛び降りたら足をくじきます。絶対。


頼朝の舌べろ石(なげやり)。

・・・石はたくさんあるんだけど、わかりません。ごめんなさい。

頼朝が飛んだという伊豆のへそ。遠いです。
この山にも山頂付近に「頼朝の逆さ竹」があるというんですけれどもね。どうも情報が確定できてませんのでまだ登りません。「行ってみたら意外とすぐ見つかるんじゃないかな?」と無責任に考えるには、400mは高すぎる。車である程度まで登れる道もあるそうなんですが(どこ?)、どうせ登るなら南北朝時代の「金山城」の遺構も見たくなるので。以前登った時、写真はいっぱい撮ったんだけどな~、惜しい事をした。あの頃はまだ驍将・畠山国清については関心を持ってなかったんです。

隣りの葛城山にも、頂上に「源頼朝の像」があるので写真を撮りに行きたいのですが…
ただ写真を撮るためだけにロープウェイ代1200円は大きすぎる。
景色はいいんですけどね。1200円は今の私には… 歩いて登るのがいいんですが、450mの標高には私のかよわく可愛い心臓が耐えきれるかどうか、、ケホッケホッ。おっと、私が病んでいるのは肺、、 いやいや喘息なんだから気管支だったぜっ。(←仮病だ)
いずれ歩いて登ります。

つづきまして。

ここは、前にご紹介した「エロ僧正・仁寛」(=真言立川流を創始した偉人)の墓のある場所です。地名は三福。同じ場所に、「頼朝の幕石」というのもあるというのです。
幕石とはなんなのかというと、頼朝が家来をひきつれて各地を歩き回っていた時、景色のよい場所があったら宴会を開いてどんちゃん騒ぎをするのが常でしたが、この場所は高台になっておりまして、正面にごつごつしい城山の岩山が聳え、眼下には狩野川が滔々と流れ、北方にも富士山の美しい姿が眺められる、ということで頼朝さまがことに愛しておられた場所だそうです。頼朝は小室から六角棒をたくさん運んできて、ここに幕を張ったのだとか。だから幕石。…”幕府”という語句が「司令官が拠点に幕を張って作戦の司令室とした場所」という語源が正しくて、もしこの逸話が本当なら、初めて幕府を開いた男・頼朝の幕府開き始めの地はここなのかもしれませんね。知らんけど。
ちなみに、その幕石、見つけられませんでした。実は違う場所かもしれません(涙)。

ここから見える富士山。美しい。
「静岡県人は必ず自分が住んでいる場所の富士山が一番美しいと言う」といわれますが、なかなかどうして、ここ大仁町から見える富士山が一番だと思うのですよ。実は富士山ってよく見るとかなりデコボコしてるんですが、ここからの富士山は大沢崩れが真中に位置し、小富士も隠れてしまうためか均整がずばぬけて良くなる。安定してるんですよね。他の角度からの富士山の写真と見比べてみてください。大沢崩れの位置が正確に真ん中ではなくてちょっと右寄りなのがこれまたいいんだ。頼朝さまも当然「ここのが一番だ」と思っていたことでしょうよ(だってここに住んでいたんですから)。富士山の美しさや所有を巡っては山梨県と静岡県民の間に喧嘩が起こってしまうほどですが、少なくとも頼朝崇拝家の皆様はここからの景色をプッシュするべきです。頼朝は富士山好きでしたからね。案外、のちに甲斐武田氏との仲が険悪となるのは、富士山話がこじれたせいかもしれない。富士山はどこから見ても美しいんですけどね、伊豆の民はそれだけは譲れない。

その、「長くて棒状の石」が採れるという大仁の棒石山。ゴツゴツの城山と同じ山の連なりにありますが、石の質が何故か違います。これ、柱状節理というのでしたっけか。伊豆では割合多くの場所で見られます。「東京方面で建築資材として売れる」ということで、現在でも大がかりに掘り出して運んでいます。

工場マニアにはたまらない錆びた鉄骨の機械が稼働中で、石材を絶え間なく運び続けています。
この山は二方が崖で登り口が一か所しかなかったことに頼朝が目をつけ、「城を作ろう」と言ってたくさんの木材を頂上まで運んだそうです。しかし戦争に負けてここから逃げ出すことになって、「石になれ!石になれ!」と叫んで木材を頂上から落としたところ、垂直に落ちた木がそのまま石になってしまったそうです。…本には「垂直に」と書いてあるんですけど、よく見ると、

…斜めですねえ。
本をよく読むと、「20年ぐらい前から石の需要が高まり、掘り出しの範囲を広げて頂上付近の土をとりのけてみると、そこは麓とは違って石が横向きに並んでいた。これが、頼朝が頂上に横に積んだ大量の材木を蹴り落として石にした証拠だと、話題になった」と書かれています。工場があるので頂上に行って確認するわけにはいかないんですが、、、、 ななめになっているのはどういう説明を? 蹴り落とした瞬間に石になって空中で固まってしまったのでしょうか。

大仁の三福には「頼朝の隠れ穴」とか「頼朝の兜石」とかがあるはずなんですが、あそこは狭い割に迷路のようになっていて、絶対に見つけ出す自信が無いのが残念なところです。詳しい現地の知人とかができれば別なんですけどねぇ。絶対に案内板とかありそうにないです。

続きまして、亀石峠に向かいます。
亀石峠は、北伊豆地方と伊東を結ぶ重要な峠道。その名の通り、亀の形をした大石があったので亀石峠と呼ばれます。その亀石自体にもいろいろな伝説があるのですが、この亀石は峠のシンボルで、伊東のかわいい姫のもとにこまめに通っていた頼朝が伊東との境のこの亀を見て嬉しさ余って詠んだという歌が、いくつか残っているそうです。…「残っている」っていったってどんな歌だったのか私は知らないんですけど、、、。何かの本に書いてありましたっけ?(失念)。この歌は短歌だったのか俳句だったのか。

で、もともとは亀は頂上付近にあったそうなのですが、道路工事のおりに邪魔なので別の場所に移してしまったそうです。峠の守り神なのになんてことっ。で、一生懸命捜したのにやっぱり見つかりませんでした。つくづく物を探す勘に欠けているヤツだ私は。なので、有料道路のドライブインまで行って、売店のおばさまに聞いてみます。きっと移動するなら私だったらここに置くだろう、伊豆スカイラインの目玉にできるし、と思って。すると、そうではなくて峠から伊東方面に1kmほどくだったところにある、とのこと。しまった、全然見当違いでした。おばちゃんも言ってました。「知らないと分かんないですよ」。うーーーむ、不憫な亀、、、、 なお、車を停める所が無いので歩いていくのがいいそうです。

とぼとぼ歩いてようやく会えた亀。 ・・・・・亀? どこが亀?
でも傍らの案内書きにはちゃんと「亀石」「神石」と書いてある。
なんとなく頼朝が詠んだという歌も大体予想ができたような気がしました。
「もしもしかめよかめさんよ、あなたはほんとにかめなのか、でもカメかメカかなんか、愛する人に会いに行く途中の私にはどうでも良い」(字余り)。
意外と小さい。尽くせぬ謎。

続きまして旧修善寺町に向かいまして、牧之郷にある「田沢(たんざわ)道」。
ここには「伊東に向かう最短ルート」があって、頼朝が良く利用したというのです。現在、韮山から伊東へ向かう道は「亀石峠」と「冷川峠」のふたつなのですが、頼朝の時代にはこれとは別に「反射炉道」と「田沢道」もあったことになる。反射炉の先の道はともなく田沢道の方は現在ほとんどの人が知らない道ですので、興味が高まります。本によると、その入り口付近に、「頼朝の弓掛け石」、「腰掛け石」、「蹄石」、「鞍掛け石」があるといいます。弓掛けて腰掛けて馬の鞍をはずす。一体どんな場所なのでしょうか。

地図を見ると、それらしい道が2つあります。
伊豆箱根鉄道の牧之郷駅の横の道路をそのまま東上する道で、地図上ではそこの地名は「田ノ沢」。本には「牧之郷の北辺の道」と書かれていますが、きっとこの道なのでしょう。手持ちのロードマップを見ると道が途中で消えてしまっているのが心配なのですが。(MSNの地図ではちゃんと繋がっている)
牧ノ原からその沢に入った付近は、民家が密集していて道路の様子がいかめしく、それらしい感じがします。

入り口から300mほどのところにある延命神社。
鳥居だけで社殿も祠も無いです。きっと頼朝の石があるとしたらこの付近だ、と思ってあたりを見渡したんですが、それらしいものはなんにも。????と思いながら念のためにもっと上の方を目指してみます。完全に里山で、里の人たちの車がところどころに停めてあり、姿は見えませんけど林の中で作業をしているようです。でも、それらしい石は無し。・・・あれえ?

刈られた木。

この道がどこに続いているかはわかりませんが、道祖神があったので通行する人たちがあったのは確かなようです。これには大正の年号が刻まれていましたけど。
どうにもお手上げで、2km行った当たりで断念。本の記述によると、道の通行と畑の掘削を邪魔する形で石はあったはずなんですよ。それらしいものはありませんでした。

気を取り直して、もう一方の方に向かいます。
牧之郷の北の端を通って西伊豆へ行く道です。本には「田沢道は大野→競輪学校→巣雲山を通って伊東へ行く」と書かれているのに、地図を見るとこのルートは大野を過ぎたあと田原野に出てしまい、巣雲山まで行かないのが気になるのですが、もしかしたらということもありえます。

こちらの道は、入り口の住宅地を過ぎたあと、ひたすらずっと谷にそって田んぼが続いていて、非常にドライブしていて気持ちいい道だったです。だが、田んぼの幅が広すぎて、変な石があったとしても車の上から見付けられる自信がねえ。車が通れる道路は幾筋かありましたけど、昔の通行路通りに現在の車道が出来てるとも限りませんしねえ。

山の中なので道の脇に大きな石はゴロゴロ転がっているんですけどねえ、伝説の石ほどには見えなかった。ごめんなさい、私、またまた挫折しました。

結論、こういったマイナー伝説石は、表示板でも設置してないと絶対に見付けられない。現地の教育委員会はどんなささいなものであろうとも怪しくあろうとも、すべての伝説に説明板を付けるべきだとおもいます。こういった変なのがささやかな歴史への関心への第一歩を育てるのだから。
私が読んだ何冊かの本に、ちゃんと調べてその様子を記載している方々は、どんな努力をしてそれを調べたのかと考えると、頭が下がります。
よそものが捜しに行っても手がかりすらわからないんだけど、その土地の人たちはみんな知ってる、というような物は、けっこう多いんでしょうねえ。

それにしてもつくづく伊豆というものは小山と谷間でできているんだなと思いました。
頼朝の道は個人的にはやっぱり前者の道であったと思います。


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2 コメント

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相変わらず特徴的な形の山ですね。 (儀一)
2007-12-25 23:51:32
この金山城、半年前にもなるのに一発でその風景を思い出させるインパクトがありますね。

・・・流石にこれは直登ムリです(笑
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うふふ (麁鹿火)
2007-12-26 01:59:50
私にとっても「伊豆といったらこの山」と思えるインパクトです。

この厳めしい岸壁はロッククライミングの場になってまして、休日は人がへばりついてるのを良く見ますが、登山道は別にありまして、元気があったら気持ちよく登れる感じの道でしたよ。確か金山城の遺構は上の方でなく、麓に近いあたりに有ったような気がします。、、、が登ったのが5年ぐらい前なので良く覚えてないです。もったいないことをしました。
手持ちの城郭本でも、縄張り図が中途半端で、良く分からないんですよね。南北朝時代の城の遺構と戦国時代の遺構は別々の位置に存在するとも書いてありますし。また登りたいです。
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