アニメ映画『宇宙の法・黎明編』女帝ザムザ役で、声優に初挑戦した千眼美子
世の中、現代文明というものは、科学万能というものらしい。
私は看護師として、一応科学的思考を要する職業に従事ていますけれども、「はて?科学って、万能だったっけぇ??」と常々思っている者です。
人間は科学万能ができるほど、賢いのでしょうか?
まぁ百歩譲って賢いとして、すべてを推し量るほどの、基礎知識や、良質の情報を得られているのでしょうか?
たとえば、目に見える世界の話として、私たちが見ている現実の世界は、地平線や水平線の範囲の中でしかないわけです。
その他の世界のことは、情報とか知識とか、そういうものを組み合わせて認識しているだけで、目に見える世界というのは、地平線、水平線の中の世界だけなのです。
それで、「我は万能じゃ!」と言い切れるだけの見識は得られているのでしょうか?
またたとえば、来月10月12日(金)から映画『宇宙の法・黎明編』が始まりますが、夜になると星空が見えて、上空には無限の宇宙が広がっているように見えていますが、現実的に私たちが見えている宇宙は、銀河系の中の、ほんの一部でしかありません。
地球から観測できる、最も遠い星というのは、164億光年先にあるらしいです。
それをもって、宇宙の始まりは168億年というのが定説となっているようですが、もっと先に、まだ観測できていない星があるとか思わないのでしょうか?
すると、まるで生きているアメーバーの直径を計っているような感じで、計算する基軸が変わってしまうので、「それって、何をもって真実としているの?」と思ってしまう。
また大それたことを言うと、164億光年先の星の光というのは、「164億年前の光」ということですので、その遠くの星が今あるかないかもわからないわけで、そのようなものを基軸にしているということは、現代最先端の科学というのは、案外あやふやなものを立脚点として、「我は万能じゃ!」と言い切っているように思えてならないんですね。
何が言いたいかと言うと、「私たち現代人は、知らないことだらけだ。」ということです。
そして、「現代の宇宙科学というのは、光の速度を最高で一定の基軸としていますが、それをしている限り、今以上の進歩は不可能なんじゃないか?」と思うのです。
もっともっと人類は、賢くならないといけないし、もっともっと多くの良質の知識が必要だと思うし、それにはやはり、「現代文明は、知らないことだらけだ。」ということを認めないといけないし、はっきり言うと、「神さまの真なる智恵」という見識を謙虚に学ぼうとするべきだと思うんです。
先日の、『宇宙の法―黎明編―』の体感研修において、千眼美子さんが、「この映画、宇宙の法・黎明編を信じれば、民族問題も、人種差別も、宗教問題も、世界から消えてなくなる。」と言っていたが、本当にその通りだと思う。
さあ科学万能と言われる世間に、「これで、世界で困っていることは、すべてOKじゃ!」と呼べるものが、果たしてあるのでしょうか?
とにかくも、宇宙の法・黎明編は現代人必見の内容です。
ということで本日は、経典『悟りの挑戦(上巻)』(幸福の科学出版)より、「疑問探究と信」について、大川隆法幸福の科学グループ総裁が語った一節をご紹介いたします。
(ばく)
仏法真理が語る「地球創世記」-大川隆法大講演会『宇宙時代の幕開け』特集(1)- 天使のモーニングコール 1401回 (2018.8.4,5)
映画『宇宙の法ー黎明編ー』スペシャルインタビュー映像
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疑問というものは、現代では非常によいことのように言われていることも多いのです。
科学的探究の態度、あるいはジャーナリスティックな態度で、どんどん疑問を解明していくのは素晴らしいことだという捉え方をされていることが多いです。しかも、近代以降の哲学は、そうした疑問の追究・探究ということ、分析的にものを見るということを非常に重視しているので、それが合理化される傾向があります。
ただ、ここに、信仰の世界に対しては非常に大きな危険が潜んでいると言ってもよいでしょう。
宗教というのは、結局、最後は「信」なのです。信仰なのです。信仰というのは目に見えないものを信ずるということなのです。
心というものは見えるものではありません。神も仏も本当は見えるものではありません。大宇宙の光も見えるものではありません。愛も見えるものではありません。慈悲も見えるものではありません。すべて見えない世界のものなのです。
それを信ずるというところに人間の尊さが生まれてくるのです。動物と違ったところとして、そういう尊さが、この信仰ということを通して出てくるのです。
ですから、学習態度、研究態度のなかに、追究するというところがあること自体は悪いことではないのですが、これが「疑」、疑いというものになって常に出てくると、このいちばん大事な宝物、あるいはいちばん大切な果実を手にすることができなくなる惧れがあるのです。(中略)
ですから、疑問探究の姿勢も大事なのですが、いちばん大切なものを損なうようなかたちですべきではないし、常に疑いの心でいっぱいの場合、人は平静心あるいは平常心というものは持てないのです。心が平らかになりません。
また、人に対する疑いでもそうです。他の人に対しても、いつもいつも疑っていたらきりがありません。もちろん人間は、すべてが自分の思うようにはいきませんし、裏切られることもあります。
しかし、「そういうこともあるな」ということを心の一部には持っていながら、大きなところでは信ずる心が大事ではないかと思うのです。
『悟りの挑戦(上巻)』(幸福の科学出版)P96~99
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