幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

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【平和の象徴】現代の世界に、麒麟を連れてくるのは誰か!

2020-01-26 23:46:44 | TV番組・芸能・スポーツ

「麒麟がくる」の画像検索結果

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先週日曜日から始まったNHK大河ドラマ『麒麟がくる』、第2話も見させていただきました。

時代は戦国中期、美濃の国(今の岐阜県)が舞台です。

このドラマの演題に出てくる麒麟(きりん)ですが、中国神話に現れる伝説上の霊獣です。

中国神話では獣類の長で、同じく霊鳥の鳳凰(ほうおう)が鳥類の長だそうです。

また、儒学の経典『礼記』では、「王が仁政を行うときに現れる神聖な生き物とされ、鳳凰、霊亀(れいき)応竜(おうりゅう)と共に「四霊」と総称されています。

「麒麟」の画像検索結果

青龍・朱雀・白虎・玄武の「四神獣(ししんじゅう)」とイメージが重なりますが、四神獣が、お互いを牽制し合いながらの防衛系武闘派神獣ならば、麒麟などの四霊は、「平和のと幸福の象徴」なのでしょうね。

なおアフリカなどに生息するキリンの名は、この伝説上の麒麟が元になっているらしいです。

このドラマでは、戦で焼かれた町の中で、「きっと誰かが、戦を終わらせる麒麟を連れてくる。」と門脇麦さんが演じる京の娘が、主人公明智光秀に訴えるシーンが印象的でした。

後に明智光秀は、当時の脱戦国政策「天下布武」を掲げた織田信長に仕えるも反逆、結局、現実的な天下布武政策で天下統一、つまり戦国の世を終わらせる豊臣秀吉に、バトンを渡す歴史的役割を担いました。

今の日本は、実際に歴史上に存在したかつての戦国時代を、まるでバーチャルな別空間の出来事のようにとらえているかもですが、一歩海を渡り、海外に目を向けてみれば、今の世界は、まさに戦国の世です。

そう今の世界は、400年前の日本とも言えるし、その要因が「宗教」であるならば、聖徳太子と蘇我氏の仏教派と、物部氏ら日本神道派との紛争をした、1500年前の日本とも言えます。

聖徳太子以降、仏神融和政策による完全な信教の自由社会となった日本の歴史は、これからの時代、大いに着目されるべきだと私は思います。

私たちが当たり前にいだく素朴な宗教観は、世界から紛争を消す力がある可能性があるのです。

「大川隆法」の画像検索結果

しかしその前に、現実的に世界から大きな紛争を止めなければなりません。

今の人類は、力を持ちすぎているからです。

今の世界で、戦争を終わらせ平和をもたらす麒麟を連れてくるのは、やはり大川隆法幸福の科学グループ総裁しかいないと思うのです。

というのも、立宗以来、仏教を基軸に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が同根であること、そして儒教や日本神道なども、大いなる地球神の心の側面であることを、あらゆる角度から説き続けています。

世界に平和をもたらす、思想の論理的支柱は、幸福の科学の思想しかありません。

世界の宗教紛争や民族紛争を解決する宗教が、日本の、幸福の科学なのです。

本日は経典『朝の来ない夜はない』(大川隆法著 幸福の科学出版)より、一神教と多神教について、大川隆法総裁が語った一節をご紹介いたします。

        (ばく)

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「新しき繁栄の時代へ」ー2019年「エル・カンターレ祭」ダイジェスト(2)ー 天使のモーニングコール 1478回 (2020/1/25・26)

朝の来ない夜はない

キリスト教もイスラム教も一神教ですが、一神教では、一つの神を立て、その神のために戦い、ほかの宗教を異端・邪教と見て、潰そうとします。これが延々と続いているのですが、両方とも、神の名の下に戦っているのです。このような問題を何とかして解決しなければいけないと私は思っています。

幸福の科学は、寛容さ、包容力を持ちながら、宗教の、ある意味での統一性をつくろうとしています。
時間はかかりますが、おそらく、幸福の科学以外で、世界で起きている「宗教に基づく戦争」を終わらせることができる宗教はないと思います。

一神教に、評価すべきところがあるとすれば、ある意味で宗教のイノベーションを起こしたことです。「旧いしがらみである伝統的な宗教を一掃して、宗教を革新した」ということは、ほめるべき点ではあります。
しかし、「多神教は間違いであり、一神教のみが正しい」という考えは、多神教の宗教を迫害するための考え方にもなってしまうのです。

パキスタンとインドの対立を見ても、パキスタンのほうはイスラム教なので一神教であり、「アッラーだけが神だ」と考えるのですが、インドのほうは多神教であって、神がたくさんいます。
では、どちらが正しいかというと、「神はたくさんいる」という考え方のほうなのです。神は本当にたくさんいるのです。

この場合の「神」を定義するならば、神とは、天使・大天使、菩薩・如来などといった高級霊のことです。こういう人たちのなかには、一つの宗教を起こせるような人もたくさんいます。だいたい、宗教を起こせるぐらいの霊格があれば、神としての格はあるわけです。

そういう意味では、神というものは確かに数多くいます。
日本でも、「八百万の神々」といって、大勢の神がいるのです。それは、神としての格を持っている人であり、要するに、死後に神社が建つような人です。

日本では、特定の人を祀った「××神社」というものがよく建ちます。祀られている人のなかには、かなり昔の人もいますが、近年の人であっても、明治天皇のように、神格があるような人には、明治神宮という社が建ちます。それから、乃木希典には乃木神社が、東郷平八郎には東郷神社が建っています。

アメリカは、かつて日本と戦争をしたときには、日本神道について、「こんな宗教は邪教だ」と考えていたと思います。一神教の側から見れば、「おかしい」と思っていたでしょう。

しかし、この見方は、一神教の側の「霊界についての理解不足」によるものだろうと思うのです。
神様のような人は数多くいます。

神としての格というものはあります。ただ、その格には差があるわけです。
『朝の来ない夜はない』(大川隆法著 幸福の科学出版)P190~193

 

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