動物行動学の日高敏隆さんが若い頃に書いた文章は、
いま思うと大丈夫かと思うくらい、
また、ハッタリじゃないかと思うくらい物事を断言していたそうだ。
特に学位論文にはある種の派手さが必要で、
多少無理があると思ってもAならAを「Aである」と断定しないと目につかない。
それに若いから怖いもの知らずで断定は若さの特権だろう、と日高さんは言う。
しかし歳を重ね学会のあれこれを知ってくると、怖いもの知らずとはいかなくなる。
Aと言い切ればどうせまた外野からチクチク言われて面倒だ、という狡さも生まれてきて、
・Aではなかろうか。
という表現になってくる。それに更に頭に「おそらく」をつけて
・おそらくAではなかろうか。
そんな技術が磨かれて、
・Aであろうかと思う。
・Aであろうと思うのは、私だけだろうか。
・Aであろうと思うほかはないような気がする。
という具合に、どんどん曖昧表現が培養されて、面白いですよ、ということだった。
などと赤瀬川原平さんは、著書「優柔不断術」にルル書いています。
「林住記」をこそこそ書いてる森生は、実は相当なじじぃです。
なのに平気で断言するのは、チクチク言ってくれる読者がいないからですが.......。
120123
読者諸氏諸姉は曖昧感・朦朧感を求めてはいませんのでせふ
その中に、記憶は曖昧?ではあるのですが
『…言い切れる事なんて何もない…断定する事はできない…』(断定?(笑))と言う一節がありました。
だから 人が断定していたとしても、『それは違う』とは言い切れない。 ので 『そうかもしれないけれど 私はこう思うような気もするよ。』と思う(言う)ことにしています。(笑)
閲覧数が伸びないのは 憎まれ口の所為かと.....
四捨五入すれば既に百 そろそろお迎えも近く 誰からも愛される好々爺にもなりたい
といっても つい愚痴が出て 嫌味たらたら
こんなじじぃにも 極楽はあるのでせうか
おかめお姐さまの歯痛は お見舞いしますが やっぱり.....
え? ?????
よく分かったような分からないような といえないこともない おコメント
でも 正しい行いのような 気がしないでもない......
うふふ
憎まれじじぃ 世にハバカル
と昔からいいますからね
惜しまれて早死にするよりも 勝手気侭に長生きしたほうがトクかもね
同期会 忘年会 新年会をこなしてみると 人生はサバイバル と思います