今なら電車とバスで行くが、谷あいの町から鎌倉海岸へ行くのは大変だった。
あの頃は小遣いを倹約するために、行きは2時間近くかけ、歩いて行った。
1.
戦後暫くは空腹で海水浴どころではなかった。
海水浴に行けるようになったのは、小学校5、6年生になった頃だろうか。
近所のお兄さんを先頭にし、友だちと誘い合わせて行った。
巨福呂坂を越え、八幡様を抜け、若宮大路を歩いて一の鳥居まで行くと、辺りは一面の松林。潮の匂いが強烈だった。
砂丘の先は滑川の河口である。右は由比ガ浜、左は材木座海岸だ。
2.
荷物は風呂敷で包んだおむすび。洗濯板を担ぎ、それ以外はな~んにも無し。
海水パンツも無く、出かける時から半ズボンの中は小さな黒ふん。帰りは歩いて乾かした。
小食堂をやっていた友だちの食パン1枚は、何と美味かったこと!
洗濯板の用途は、浮き輪の代わり。
親から指定された、遠浅の材木座海岸で遊べばいいものを、少し危ない由比ガ浜で、洗濯板につかまりチャプチャプやっていた。
滑川河口は生活排水で不潔、海流が複雑で危険、と親から厳重注意されていて、近付かなかったものだ。
しかし、河口以外の海水は澄んでいた。
3.
食堂をやっていた家の子が食パンを持ってきて、みんなに少しずつ分けてくれた。
何もつけず、真っ白な食パンが何と美味かったことだろう。
あれほど美味い食パンに、その後会っていない。
海岸で冷たく甘いアイスキャンデーをしゃぶるのも楽しみだった。
アイスキャンデーを買うと、帰りの電車賃が無くなったけれど。
夕方前に、広告塔の中に隠しておいたシャツと半ズボンを履いて、また歩いて帰った。
行く時にはふざけながら渡った八幡様の太鼓橋も、帰りは横目で通過。長い巨福呂坂を上るのは辛かった。
坂を下り、ようやく円覚寺の前に着いた。
県道沿いの、今は生めてしまった井戸から溢れる水が美味かった。
4.
一緒に海水浴に行った友だちの内、3人は既に亡くなっている。
何も無く、いつも空腹だったあの頃は真っ平である。
それでも、鎌倉の海は懐かしい。
1.由比ガ浜の砂丘(子供たちの足跡) 2.滑川河口の木橋(台風のたびに流された)
3.真ん中の女性はミス鎌倉(当時の海岸風景) 4.八幡様の太鼓橋(大人は渡らない)
「岩波写真文庫・鎌倉」から。挿絵は森生画。