飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

まいた種が…

2024年08月15日 05時54分34秒 | 教育論
まいた種が、全部生えるということはないでしょうが、同時にまたまいた以上は、どんな痩地でも、必ず若干は生えるものです。
そこでわれわれ教師としては、生徒の素質いかんを言う前に、まず生命の種子を相手の心の中へ巻き込むことです。
生命の種子をまくとは、自分の全信念を傾けて教えるということです。

批評眼は持つべし。
されど批評態度は慎むべし。
すべからく他を批判するの目を自己に返照し来って、創作実現へと踏み出すべし。
他よりの批評に対して、直ちに駁論を為すが如きは、真の一流者の多くはとらざるところなり。

すなわちただ現在の眼前に、ちょこなんと腰掛けている子どもたちに話しているだけでなく、その背後には、常に二十年、三十年の後、かれらが起き上がって活躍する姿を思い浮かべて語る、そういう趣がなくてはならぬでしょう。
すなわち諸君らが、かくあれかしと思う姿を、常にその心中に思い浮かべつつ、教えなくてはならぬでしょう。
同時にその時諸君らの話す一語一語は、子どもたちの心の中に種子まかれて、やがて二十年、三十年の後に開花し結実するでありましょう。
かくして真の教育とは、ある意味では、相手の心の中へ種子まくことだとも言えましょうが、とくにこのことは、小学教師の場合に当てはまると思うのであります。

saitani




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