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日記に…なるかしらん

あ、これ完全に読書メモですんで……気にしないでネ 上

2016年04月17日 13時38分30秒 | 日記
吉川弘文館 人物叢書・第285巻 『最上義光』 伊藤 清郎 2016年3月刊


元弘三(1333)年
六月
 後醍醐天皇(46歳)、鎌倉幕府の滅亡後に京に帰洛し天皇親政を開始する(建武政権)。
 建武政権、鎌倉幕府討滅に大功のあった武将・足利高氏(29歳)を鎮守府将軍ならびに左兵衛督に任命する。
八月
 建武政権、参議・葉室光顕(はるあき 37歳)を出羽守ならびに秋田城介、参議・北畠顕家(16歳)を陸奥守に任命する。
 鎮守府将軍・足利高氏、建武政権の命により武蔵守を兼任し、後醍醐帝より偏諱を拝領し名を「尊氏」とあらためる。
十月
 北畠陸奥守顕家、後醍醐帝の第七皇子・義良親王(のりよし 6歳)を奉じて陸奥国府・多賀城に入城する。
十一月
 北畠陸奥守顕家、多賀城に式評定衆・引付衆・政所・侍所・評定奉行・寺社奉行・安堵奉行を開設し、陸奥国内各地に郡奉行・郡検断を配置する。

建武二(1335)年
七月
 鎌倉幕府執権家の末裔・北条時行(?歳)、亡命先の信濃国諏訪で挙兵し武蔵・相模・駿河国を制圧し鎌倉を奪回する(中先代の乱)。
八月
 建武政権、鎮守府将軍・足利尊氏(31歳)を征東将軍に任命し北条時行の反乱を鎮圧させる。
十一月
 征東将軍・足利尊氏、重臣・斯波高経の嫡男・家長(15歳)を奥州管領に任命し陸奥国に派遣する。
 建武政権、鎌倉で独自に政務を始める征東将軍・足利尊氏に対して全国に征討令を発令する。
 建武政権、北畠陸奥守顕家(18歳)を鎮守府将軍に任命し足利尊氏の征討を命じる。
十二月
 足利尊氏、鎌倉に向かう建武政権の征討軍を駿河・相模国境の箱根竹ノ下合戦で撃破し上洛を開始する。
 鎮守府将軍・北畠顕家、義良親王(8歳)を奉じ兵5万を率いて鎌倉へ進撃を開始する。

延元元(1336)年
正月
 鎮守府将軍・北畠顕家(19歳)ひきいる征討軍、鎌倉を制圧し尊氏軍を追い東海道を西上する。
 足利尊氏(32歳)ひきいる鎌倉軍、上洛し京を制圧する。後醍醐帝(49歳)、比叡山に亡命する。
 征討軍、近江国から侵攻し尊氏軍から京を奪回する。
二月
 建武政権、京奪回の功により北畠顕家を鎮守府大将軍に任命する。
 尊氏軍20万、摂津国豊島河原合戦で征討軍10万に敗れ九州地方に撤退する。
三月
 鎮守府大将軍・北畠顕家、東日本の足利軍掃討のために陸奥国に下向する。
五月
 鎮守府大将軍・北畠顕家、陸奥国府・多賀城に帰還する。
六月
 足利尊氏、西日本の兵力を総動員して上洛し京を再び制圧する。
十一月
 足利尊氏、比叡山の後醍醐帝と和睦し持明院統の光明天皇(15歳)に譲位させ、建武式目を制定する(室町幕府の発足)。
十二月
 後醍醐帝、京を脱出し大和国吉野に亡命、自らの譲位を撤回し南朝政権を発足させる(南北朝時代の開始)。

延元二(1337)年
正月
 鎮守府大将軍・北畠顕家(20歳)、関東地方の足利軍をにらみ陸奥国府を多賀城から南の霊山城に移す。
八月
 鎮守府大将軍・北畠顕家、建武政権の要請を受け義良親王(10歳)を奉じ兵10万を率いて鎌倉へ進撃を開始する。
十二月
 北畠顕家ひきいる征討軍、鎌倉を制圧し奥州管領・斯波家長(17歳)を討つ。
 北畠軍、第二次上洛を開始し東海道を西上する。
 足利尊氏(33歳)、側近の石塔義房(?歳)を奥州管領に任命し陸奥国に下向させる。

暦応元(1338)年
二月
 鎮守府大将軍・北畠顕家(21歳)の上洛軍、大和国般若坂合戦で幕府軍に敗れ義良親王(11歳)を吉野朝廷へ送還する。
五月
 北畠顕家、和泉国石津合戦で幕府軍に敗れ討死(21歳)。
 吉野朝廷、北畠顕家の弟・顕信(19歳)を陸奥介ならびに鎮守府将軍に任命する。
八月
 足利尊氏(34歳)、征夷大将軍に就任する。

暦応二(1339)年
?月
 鎮守府将軍・北畠顕信(20歳)、陸奥国に下向するが幕府軍の多賀城を攻め落とせず霊山城を拠点とする。

貞和元(1345)年
?月
 将軍・足利尊氏(41歳)、奥州管領・石塔義房(?歳)を解任し、後任に吉良貞家(?歳)と畠山国氏(?歳)を任命し共同統治とする。

貞和三(1347)年
?月
 幕府軍の攻撃により南朝の霊山城が落城し、鎮守府将軍・北畠顕信(28歳)、出羽国に撤退する。

貞和五(1349)年
閏六月
 将軍・足利尊氏(45歳)と弟・足利直義(44歳)の対立が決定的となり幕府が内乱状態となる(観応の擾乱)。
九月
 将軍・足利尊氏、四男・足利基氏(10歳)を初代鎌倉公方に任命し鎌倉に下向させる。

観応二(1351)年
二月
 足利直義派の奥州管領・吉良貞家(?歳)、観応擾乱に乗じて足利尊氏派の奥州管領・畠山国氏(?歳)の居城・陸奥国岩切城を攻め国氏を自害させる。
十一月
 鎮守府将軍・北畠顕信(30歳)、観応擾乱に乗じて出羽国で挙兵し、陸奥国広瀬川合戦で幕府軍を破り陸奥国府・多賀城を奪回する。

文和元(1352)年
三月
 奥州管領・吉良貞家(?歳)、鎮守府将軍・北畠顕信(31歳)の陸奥国多賀城を攻撃し奪回する。顕信、陸奥国南部の宇津峰城に拠点を移す。

文和二(1353)年
五月
 奥州管領・吉良貞家(?歳)、鎮守府将軍・北畠顕信(32歳)の陸奥国宇津峰城を攻め落城させる。顕信、出羽国へ撤退する。

文和三(1354)年
?月
 幕府、奥州管領・吉良貞家(?歳)を解任し初代奥州管領・斯波家長の叔父・斯波家兼(47歳)を奥州管領に任命する。

延文元(1356)年
六月
 奥州管領・斯波家兼、死去(49歳)。家兼の嫡男・斯波直持(30歳)、奥州管領に就任する。
?月
 幕府、奥州管領・斯波家兼の次男(?)・斯波兼頼(42歳)を羽州管領に任命し、出羽国山形に下向させる(最上家の成立)。
 ※以上のように、本来ならば兄であるはずの斯波直持と弟であるはずの斯波兼頼との間には年齢上の食い違いが存在する。
 羽州管領・斯波兼頼、出羽国の天台宗立石寺を復興させる。
 奥州管領・斯波家兼、三男・斯波義宗(?歳)を出羽国村山地方の有力国人・天童義景(?歳)の養子に送り天童家を勢力下に置く。

永和元(1375)年
?月
 奥州管領・斯波直持(49歳)、奥州管領職を嫡男・大崎詮持(?歳)に譲り隠居する。
?月
 羽州管領・斯波兼頼(61歳)、羽州管領職を嫡男・最上直家(?歳)に譲り隠居する。
 ※直家の在世中、叔父・天童義宗の死去にともない直家は次男・頼直を天童家の養子に送り天童家支配を強化させている。

康暦元(1379)年
六月
 前羽州探題・斯波兼頼、死去(65歳)。

明徳三(1392)年
?月
 幕府、陸奥・出羽2ヶ国の統治を鎌倉公方に移譲する。

応永六(1399)年
三月
 第3代鎌倉公方・足利満兼(22歳)、次弟・足利満直(?歳)を陸奥国安積郡篠川、三弟・足利満貞(?歳)を陸奥国岩瀬郡稲村に派遣し東北地方の統治を強化する(篠川公方と稲村公方の誕生)。

応永七(1400)年
?月
 奥州管領・大崎詮持(?歳)、東北地方の大名・伊達政宗(48歳)の鎌倉公方に対する反乱に乗じて挙兵するが、鎌倉公方の攻撃に敗れ自害する。

応永九(1402)年
?月
 東北大名・伊達政宗(50歳)、鎌倉公方の命を受けた羽州探題・最上直家らの奥羽大名連合軍に陸奥国刈田城を攻められるが撃退する。

応永十七(1410)年
正月
 羽州探題・最上直家、死去(?歳)。嫡男・最上満直(?歳)が家督を継承する。
 ※最上満直、在世中に次男・満基を山形城の支城・中野城(山形城の北西)の城主とし最上本家を補佐させる。
 ※満直はさらに在世中、三男・満直(二世)を大窪城主(現在の山形県村山市中心部)、四男・満国を楯岡城主(現在の村山市東部)とし支配を北方に拡大させている。

応永二十(1413)年
?月
 東北大名・伊達持宗(21歳)、陸奥国大仏城を拠点として鎌倉公方に対して挙兵し、篠川・稲村御所を攻撃する。
 ※伊達持宗は初名を泰宗といったが、室町幕府第4代将軍・足利義持より「持」の偏諱を賜り持宗に名を改めた。以来、伊達家歴代当主は足利将軍家から偏諱を受ける慣習となる。
 鎌倉公方の命を受けた羽州探題・最上満直(?歳)ら奥羽大名連合軍、伊達持宗の大仏城を落城させ反乱を鎮圧する。

応永二十三(1416)年
八月
 羽州探題・最上満直、死去(?歳)。嫡男・最上満家(?歳)が家督を継承する。
 ※最上満家は、在世中に山形城の北方の長瀞地方(現在の山形県東根市)に支配を拡大させている(最上家の分家・長瀞家のはじまり)。
十月
 前関東管領・上杉禅秀氏憲(?歳)、第4代鎌倉公方・足利持氏(19歳)に対して挙兵し鎌倉を制圧する(上杉禅秀の乱)。

応永二十四(1417)年
正月
 室町幕府による鎮圧軍の総攻撃を受け、上杉禅秀、鎌倉で自害(上杉禅秀の乱の終結)。

応永三十一(1424)年
?月
 羽州探題・最上満家(?歳)、家督を嫡男・最上頼宗(?歳)に譲り自身は長瀞城に隠居。
 ※その後、母の実家・陸奥国芦名家の後見を受けた頼宗と、母(満家の正室)の実家・出羽国寒河江家の後見を受けた異母弟・政家(?歳)との間で対立が発生する。

貞享二(1430)年
?月
 羽州探題・最上頼宗(?歳)、家督を異母弟・政家(?歳)に譲り隠居。
 ※最上政家は在世中に室町幕府第8代将軍・足利義政より「義」の偏諱を賜り名を「義春」と改めた。以来、最上家歴代当主は足利将軍家から「義」の偏諱を受ける慣習となる。

永享十一(1439)年
二月
 第4代鎌倉公方・足利持氏(42歳)と叔父の稲村公方・足利満貞(?歳)、幕府軍の攻撃を受け武蔵国永安寺で自害する(鎌倉公方の滅亡)。

永享十二(1440)年
六月
 篠川公方・足利満直(?歳)、下総国で勃発した結城合戦に乗じて挙兵した陸奥国人に篠川御所を攻められ自害する。
 ※鎌倉公方体制の崩壊により、東北地方の統治は奥州管領大崎家と羽州管領最上家に一任されることとなる。

嘉吉(1441)元年
二月
 前羽州探題・最上頼宗、死去(?歳)。

嘉吉三(1443)年
三月
 元羽州探題・最上満家、死去(?歳)。

宝徳二(1450)年
?月
 羽州探題・最上義春(?歳)、出羽国庄内地方に侵攻し大名・大宝寺淳氏(きようじ ?歳)と戦うが生け捕られ和睦する。

享徳三(1454)年
十二月
 第5代鎌倉公方・足利成氏(21歳)、関東管領・上杉憲忠(22歳)を誅殺し京の室町幕府に対して挙兵する(享徳の乱)。

享徳四(1455)年
三月
 鎌倉公方・足利成氏(22歳)、拠点を鎌倉から下総国古河に移す(古河公方)。

長禄四(1460)年
?月
 室町幕府第8代将軍・足利義政(25歳)、羽州探題・最上義春(?歳)、出羽国庄内地方の大名・大宝寺淳氏(?歳)ら奥羽地方の諸大名に鎌倉公方・足利成氏追討令を発するが諸大名の多くは兵を動かさず。

寛正二年(1461)年
十月
 羽州探題・最上義春(?歳)、室町幕府による第一次足利成氏追討軍に出兵。

寛正三(1462)年
九月
 出羽国庄内地方の大名・大宝寺淳氏(?歳)、将軍・足利義政(27歳)の推挙により出羽守に補任される。

寛正五(1464)年
?月
 大宝寺淳氏(?歳)、上洛して将軍・足利義政(29歳)に謁見する。

文正元(1466)年
?月
 羽州探題・最上義春(?歳)、室町幕府による第二次足利成氏追討軍に出兵。

応仁元(1467)年
?月
 東北大名・伊達成宗(33歳)と陸奥国大名・国分盛行(?歳)の第一次合戦、起こる(東北地方における戦国時代の始まり)。
?月
 出羽国庄内地方の大名・大宝寺健氏(淳氏の嫡男 ?歳)、山形城で羽州探題・最上義春(?歳)と会見し友好関係を強める。

文明二(1470)年
八月
 東北大名・伊達成宗(36歳)と陸奥国大名・国分盛行(?歳)の第二次合戦、起こる。

文明四(1472)年
十一月
 東北大名・伊達成宗(35歳)と陸奥国大名・国分盛行(?歳)、第三次合戦を経て和睦する。

文明六(1474)年
三月
 羽州探題・最上義春、死去(?歳)。義春の弟・最上義秋(?歳)、家督を継承する。

文明十一(1479)年
十二月
 東北大名・伊達成宗(42歳)、対立していた出羽国大名・寒河江為広(?歳)の寒河江城を攻めるが寒さにより撤退する(出羽国における戦国時代の始まり)。

文明十二(1480)年
二月
 羽州探題・最上義秋、死去(?歳)。分家の中野満氏(義秋の従弟 35歳)が家督を継承する。
三月
 東北大名・伊達成宗(43歳)、寒河江為広(?歳)を再び攻めるが菖蒲沼合戦で大敗し重臣・桑折播磨守宗義(?歳)を討ち取られる。
 ※菖蒲沼合戦における最上家の動向は不詳だが、最上満氏は戦後に伊達成宗と共同で出羽国慈恩寺山中に桑折宗義の菩提寺・松蔵寺を寄進している。

明応三(1494)年
七月
 羽州探題・最上満氏、死去(49歳)。嫡男・最上義淳(?歳)が家督を継承する。

永正元(1504)年
七月
 出羽国大名・寒河江宗広、死去(?歳)。
 宗広の死後、寒河江家の次期当主を巡り次男・祥真(?歳)と六男・孝広(2歳)との間で抗争が発生する。
九月
 羽州探題・最上義淳、死去(?歳)。
 最上義淳の嫡男・義定(13歳)、最上家当主と羽州探題を継承し寒河江家の内紛に乗じて寒河江地方に三度出兵するが、制圧に失敗する。
 寒河江の大寺院・慈恩寺、寒河江家と最上家の戦乱により焼亡する。

永正二(1505)年
?月
 寒河江孝広(3歳)を擁する勢力、寒河江祥真とその支援勢力を滅ぼし孝広を寒河江家当主とする。

永正五(1508)年
?月
 東北大名・伊達尚宗(56歳)、出羽国上山に侵攻し羽州探題・最上義定(17歳)と対立する。

永正六(1509)年
八月
 東北大名・伊達尚宗(57歳)、陸奥国大名・国分盛綱(72歳)と出羽国大名・寒河江孝広(7歳)を勢力下に置く。

永正十一(1514)年
二月
 東北大名・伊達尚宗の嫡男・伊達高宗(のちの稙宗 25歳)、出羽国山形に侵攻し最上義定(23歳)に勝利、上山城・長谷堂城を占拠する。
 最上義定、山形城から中野城に退避。
 伊達高宗、一門衆の重臣・小梁川親朝(高宗の曽祖父・持宗の孫 ?歳)を長谷堂城主に置く。
五月
 東北大名・伊達尚宗、死去(62歳)。嫡男・高宗(のちの稙宗 25歳)が家督を継承する。

○伊達高宗(稙宗)の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力99、統率力65、知略96

永正十二(1515)年
?月
 伊達高宗(26歳)、寒河江家の仲介により最上義定(24歳)と和睦し、妹を最上義定の継室に送り最上家を事実上の支配下に置く。
 最上義定、山形城に帰還。

永正十四(1517)年
?月
 東北大名・伊達高宗(28歳)、室町幕府第10代将軍・足利義稙(52歳)より偏諱を賜り「稙宗」に名を改める。

永正十七(1520)年
二月
 羽州探題・最上義定、死去(29歳)。義定に子が無かったため、最上家当主は一時不在となる。
四月
 出羽国上山城主・上山義房(?歳)、伊達家に対して挙兵する。
 東北大名・伊達稙宗(31歳)、挙兵した上山義房の鎮圧を名目に出兵し、山形・上山・天童・高擶(たかたま)地方を制圧する。

大永元(1521)年
?月
 天童頼長、前年の合戦で伊達家に加担した立石寺(山寺)を焼き討ちする。
七月
 東北大名・伊達稙宗(32歳)、最上家ら支配下の軍勢を率いて出羽国高瀬山に布陣し出羽国大名の寒河江孝広(19歳)と対峙する。
八月
 伊達稙宗、寒河江孝広との合戦に決着がつかず撤退する。

大永二(1522)年
?月
 前羽州探題・最上義定の弟・中野義建(よしたつ ?歳)の嫡男・中野義清(?歳)の次男・長松丸(のちの最上義守 2歳)、最上家当主となる。
 ※2年前に29歳で急死した最上義定の弟である中野義建に、この時点で2人の孫がいるという状況は不自然である。
 2歳の長松丸の後見として、最上義定の未亡人(伊達稙宗の妹)が実権を掌握する。

○最上義守の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力42、統率力39、知略21

四月
 最上長松丸を傀儡とした伊達家による最上家の支配に対抗した出羽国大名・成生(なりゅう)三郎、中山朝勝、天童頼長、東根頼景(頼長の甥)が挙兵するが、伊達家の出兵により鎮圧される。

大永三(1523)年
?月
 東北大名・伊達稙宗(36歳)、室町幕府としては史上初の陸奥国守護に任命される。
 ※それまで室町幕府は、陸奥国は奥州探題、出羽国は羽州探題が統治するという体制だった。

天文四(1535)年
?月
 最上長松丸(15歳)、元服して義守と名乗り、天童頼長の焼き討ちにより荒廃していた立石寺を復興させる。

天文六(1537)年
?月
 陸奥国守護・伊達稙宗(50歳)、次男・小僧丸(12歳 のちの大崎義宜)を奥州探題・大崎義直(?歳)の養子に送り大崎家を勢力下に置く。

○大崎義直の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力46、統率力50、知略27

○大崎義宜の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力45、統率力26、知略44

天文十一(1542)年
六月
 陸奥国守護・伊達稙宗(55歳)の嫡男・伊達晴宗(24歳)、父・稙宗の独裁体制の強化に反対する勢力を率いて稙宗幽閉未遂事件を起こし、伊達家中に稙宗・晴宗父子の内乱が発生する(天文の乱)。
 天文の乱の勃発にともない、奥州探題・大崎家も晴宗派の当主・義直(?歳)と稙宗派の養子・義宜(17歳)との間で内乱が発生する。
 最上義守(22歳)、義母の兄である伊達稙宗に加勢して長谷堂城を最上家直轄に戻し、出羽国南部の置賜地方に侵攻する(最上家の実質的な伊達家からの独立)。

○伊達晴宗の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力84、統率力61、知略76

十一月
 最上義守、置賜地方を制圧する。

天文十二(1543)年
四月
 最上義守(23歳)、出羽・陸奥国境の笹谷峠まで侵攻する。

天文十五(1546)年
正月
 最上義守(26歳)の嫡男・白寿丸(のちの最上義光)、誕生する。

○最上義光の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力83、統率力73、知略86

天文十六(1547)年
?月
 伊達稙宗派の有力大名・芦名盛氏(27歳)、同じ稙宗派の大名・田村隆顕(?歳)との陸奥国中通り地方を巡る抗争から晴宗派に寝返り、稙宗派が劣勢となる。
 稙宗派の最上義守(27歳)、芦名盛氏の寝返りに乗じて晴宗派に寝返る。

○芦名盛氏の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力82、統率力84、知略78

○田村隆顕の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力44、統率力76、知略53

天文十七(1548)年
九月
 陸奥国守護・伊達稙宗(61歳)、家督を嫡男・晴宗(30歳)に譲り隠居し、天文の乱が終結する。

天文十九(1550)年
五月
 奥州探題・大崎義直(?歳)、天文の乱以来対立していた養子・義宜(25歳)を暗殺する。

天文二十四(1555)年
?月
 陸奥国守護・伊達晴宗(37歳)、奥州探題職を大崎義直から禅譲され名実ともに陸奥国を単独支配する。

永禄元(1558)年
?月
 最上義守の嫡男・白寿丸(12歳)、元服して室町幕府第13代将軍・足利義輝より偏諱を賜り最上義光と名乗る。

永禄三(1560)年
三月
 最上義守(40歳)、寒河江兼広(32歳)の寒河江城を攻めるが落とせず撤退する。

永禄六(1563)年
六月
 最上義守(43歳)・義光(17歳)父子、上洛して将軍・足利義輝(28歳)に謁見する。

○足利義輝の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力57、統率力73、知略26

永禄七(1564)年
?月
 最上義守(44歳)の次女・義姫(17歳)、伊達輝宗(21歳)の正室となる。

○伊達輝宗の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力67、統率力58、知略50

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