長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

山梨、山梨、うっさい!!  ~映画『太陽の坐る場所』 かなりおもしろかったです~

2014年10月28日 20時26分37秒 | ミステリーまわり
 へっへっへ~い。どうもこんばんは! そうだいです。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました。
 いやはや、ついに10月もおしまいが見えてきまして。秋ですね~。寒くなってきましたね~。
 私も、いちおう関東地方で迎える秋はこれがしばらくの見納めという気持ちで毎日を送っていますと、今までよりもいっそう感慨深く、夏が遠ざかって冬が近づいてくる変化を感じることができます。今までたいへんお世話になりました……

 ただ、しみじみ感じ入っているばかりでもなく、いろいろと毎日毎日、お仕事のないときにもやらなければならないことは山積みになっていまして、なかなかのんびりしてもいられない時期になってきました。正直言って、思うとおりにいかずもどかしい気持ちになることもしばしばなのですが、こればっかりはあせっていても仕方がない、ということもあるし……気長にいきたい、しかし時間の浪費は許されないという静かな緊張感が続いております。まぁとにかく、カゼだインフルエンザだには足元を救われないように健康第一で! あ、あとエボラも。

 そうこういう中、本日も千葉の中心市街地に行って、いくつかの仕事とか用事をすませる……前に、映画館で映画を観ました。
 え? いや、アレですよ。別に優先順位的に映画のほうが上だから先にしたってわけじゃないんですよ。観たい映画が朝イチの午前9時からの回しかやってなかったからさ……私だって、早起きする必要のない日は、いつもよりも長めに眠っていたかったんですが、1日に1回しか上映してないって言われたら、そりゃ松屋で朝定食(焼き魚)たのまざるを得ないでしょ。も~、なんで朝にしかやってないのよ!



映画『太陽の坐る場所』(2014年10月4日公開 102分)

 辻村深月の第7長編小説『太陽の坐る場所』(『別冊文藝春秋』2008年1~11月号に連載)を原作とする。山梨放送開局60周年記念作品。


あらすじ
 高校卒業から10年。毎年開かれてきたクラス会に、人気女優となったキョウコは今回も出席しなかった。元同級生たちは次こそキョウコを呼ぼうと、それぞれの思惑を胸に画策するが、高校時代の苦い思い出がひとりひとりの脳裏に蘇る。キョウコの欠席は、あの出来事が原因なのか……?


おもな登場人物
※原作では、物語の舞台となる県立藤見高校は、東京都に接する田舎「F県」に存在するという設定になっている。

キョウコ …… 木村 文乃(26歳)、高校生時代のキョウコ …… 吉田 まどか(17歳)
 女優。映画『アマノ・イワト』で天宇受賣命(アマノウズメノミコト)を演じてその演技と踊りを絶賛され、以降はメディアでの露出が増えている。

島津 謙太 …… 三浦 貴大(28歳)、高校生時代の謙太 …… 大石 悠馬(19歳)
 クラス会の幹事。F県内の地方銀行に就職し、東京支店に配属された。

水上 由希 …… 森 カンナ(26歳)、高校生時代の由希 …… 山谷 花純(17歳)
 大手アパレルメーカー「ホリー」で働いている。ミーハーな性格で、会社ではキョウコと同級生だったと自慢している。

清瀬 陽平 …… 柿本 光太郎(20歳)
 高校生時代にキョウコと付き合っていた、隣の3年1組の生徒。学年の中心人物だった。

浅井 倫子 …… 椎名 琴音(21歳)
 高校2年生の終わりに転校した元同級生。現在は新潟県に住んで2人の子供もいる主婦。

高間 …… 水川 あさみ(31歳)、高校生時代の高間 …… 古泉 葵(17歳)
 F県の地元テレビ局の女性アナウンサー。

吉田 …… 中山 龍也(19歳)
 高校生時代に由希が付き合っていた彼氏。

高間の上司アナウンサー …… 山中 聡(42歳)
 高間に東京キー局からの引き抜きの誘いを勧める。


おもなスタッフ
監督 …… 矢崎 仁司(57歳)
脚本 …… 朝西 真砂
音楽 …… 田中 拓人
配給 …… ファントム・フィルム

主題歌 …… 『アメンボ』(2014年 藤巻亮太)
挿入曲 …… 『1905年10月1日、街頭にて』第2楽章『死』(1905年 レオシュ=ヤナーチェク)
       ジョルジュ=ビゼー『カルメン』より『ハバネラ』(2012年 ヴァスコ=ヴァッシレフ)
       『西小山サマーアイランド』、『愛の鼓動』(2012年 ジャバループ)
       『永遠と一瞬』(2005年 レミオロメン)
       


 というわけでありまして、他ならぬ辻村先生原作の映画化なんでありますから、こりゃもう這ってでも観にいかなければなりませんでした。といっても私、WOWWOW の『鍵のない夢を見る』はいまだにチェックできてないんですけどね。今月の頭に DVDがリリースされたんですよね? ヒーコラ働いて買うしかありませんかねー。このわたくしが TVの連続ドラマの DVDを買うとは……自分でもビックリです。それにしても、ドラマの DVD化って、丸一年待たなきゃいけないものなんですかね? それとも、この『鍵のない夢を見る』が特別に遅いんだろうか?


 そんでもって本題の『太陽の坐る場所』なんでありますが、これがまた……原作者のファンを自認する私からすれば、ずいぶんと不思議な映画だったんだ。

 それはもう、原作小説を最後まで読んだ方だったら、どなたにでも共感していただけることかと思うんですが、映画版の『太陽の坐る場所』は、本編を1秒たりとも観ずとも、それ以前に映画のあらすじを読んだ時点で、もしくは映画のキャスティング表をながめた時点で、「え! そこ、言っちゃうの!?」と仰天してしまう采配がほどこされています。

 まぁ、それは「殺人事件の犯人やトリックを最初からぶっちゃけている」というような致命的なものではないのですが……いや、読む人の「読み方」によっては、そのくらいのレベルにもとられかねない大ごとなのかもしれないけど……

 とにかくはっきり私が言えることは、これほど「原作未読者おことわり」な映画も珍しい! ということなのであります。
 いや、それは「原作を読んでいなければストーリーがまったく理解できない」という、原作の後日談みたいな、『新世紀エヴァンゲリオン』の旧劇場版みたいな不親切さではなくて、映画は映画で、誰でもひとつの物語を楽しむことができる構図にはなっているんです。いるんですが、その物語に関する「情報の提示の仕方と順番」が、原作と映画とでまるで違うんですよね。
 簡単に言えば、原作はミステリーなんですが、映画はミステリーじゃないんですよ。映画は、「ミステリーの解決篇」だけの映画化だったんですね。それでも、だいたいのミステリーで、探偵に真相を暴かれた後に真犯人が語る「犯行にいたるまでの経緯」が、「表」の事件そのものに匹敵するくらいに、「裏」に流れるひとつの物語になっているように、この映画『太陽の坐る場所』も、小説『太陽の坐る場所』に対応するネガのポジションで成立しているわけなのです。

 つまり、原作小説は後半の展開で、作品がミステリーであるゆえんともいえる「読者の感覚のちゃぶ台返し」が華麗にキマります。その後に、読者が「あぁ~、あれがこうで、これがあぁなってたのか!」とスッキリする「脳内映像の修正」が展開されていくわけなのですが、まさにそこが一連の映画版の物語である、のではないのでしょうか。

 ですから、原作小説がミステリーで、映画版がミステリーでないのは至極当然のこと、となるわけなのです。映画版の物語は「謎が謎でなくなった」あとの、「ある人物の回想の物語」なのですから。 TV のサスペンス劇場でいう「前門の断崖、後門の船越英一郎か片平なぎさ」シーンだけをひとつの作品にした、っていう感じなんですね。

 もちろん、だからといって映画『太陽の坐る場所』が、真犯人が事件の真相を告白する「倒叙ものミステリー」のようなわかりやすいものである、というわけではありません。まなざしはもっともっと高い視点から送られていて、単純明快な真犯人も名探偵もいないこの物語の、全ての登場人物の「真相」をわけへだてなく容赦なく暴いているのです。それこそ、「おてんとさまにかくしごとはできねぇ」という日本古来の道徳の物語ですよね。


 難しいですねぇ。まず、原作を読んだ後でこの映画を観るというのは、非常に適切な順番だと思います。ただ、その逆は……それぞれ「別の作品」として楽しむことはできると思うのですが、映画を観た後に原作を読んだら、ただひたすら「なんてもったいないことをしてくれてるんだ、この映画は!?」という思いが沸き起こるんじゃなかろうか。

 ただし、おそらくこの映画の監督は、ミステリーである原作小説ぜんたいの映像化を早々に断念したぶん、非常に細密に「ある登場人物」の心もようを描き出すことに全力を投入しており、そこは大いに成功していると感じました。だから、映画は映画でおもしろかったんですから、それはそれでよかったのではなかろうかと思うんですねぇ。
 そして、その人物を中心にガッチリすえて、あくまで彼女と、彼女が現在、自らのかたくなな意思でその身を置き続けている故郷の土地の存在感を常にアピールしつつ、その上で周辺のキャラクターたちの掘りさげをおこなっていくという物語の一貫性もかなりしっかりしていたので、そのぶんだけ、私はあの映画版『ツナグ』よりも、この『太陽の坐る場所』のほうがよっぽどおもしろかったです。映画版『ツナグ』はほら、中盤の橋本愛さん無双が良くも悪くも作品全体のバランスを崩しちゃってましたからね。


 しっかしまぁ~、なにはなくとも、さすがは「山梨放送開局60周年記念作品」であります。原作小説ではちゃんと「F県」ってフィクションになっていたのに、登場人物たちがいた地元の風景がどこからどう見ても山梨県です本当にありがとうございました!!
 いちおう、私の記憶している範囲では、さすがにセリフで「山梨」や「甲府」という固有名詞は出てこなかったと思うのですが、地元の TV局で花形アナウンサーをつとめている高間さんが「山梨学院大学」の受験会場をリポートして、自分自身もそこの出身だと明言するシーンもあったのですから、それはもう山梨県であるといわざるを得ないというかなんちゅうか。
 そうでなくても、東京に隣接していながらも近くはなく、見わたす限りのぐるりを高い山々に囲まれた盆地であり、比較的寒そうな空気の早朝を高校生たちが自転車に乗って元気に登校していく、そして話す言葉は「~し」や「~じゃん」の甲州弁ときたら、そりゃあね。

 言うまでもなく、今回、映画『太陽の坐る場所』を手がけた矢崎仁司監督と同様に、辻村先生は山梨県の出身だそうですし、原作の『太陽の坐る場所』や、その後の長編小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』や『水底フェスタ』などは特に、山梨県が舞台になったと思われる描写が目立つ作品であるわけなのですが、そこはおそらく意図的に、読者に対する作品の普遍性をかんがみて、特定の地方色が強調される「方言」は、辻村ワールドでは極力排されていたかと思われます。そういう配慮は、山梨色はないけどやっぱり地方ものの『島はぼくらと』もそうでしたよね。

 そこをまぁ、映画版はこれでもかというほどに山梨、山梨で染めあげちゃってさぁ! いや、いいですよ? いいんですけど、そんなにアピールしてこなくてもいいじゃないっすかぁ! もういいじゃないのよ、『花子とアン』だけでさぁ。なにもそんなに山梨でひとりじめしなくてもいいじゃないかとも思っちゃうんですけど……山形県生まれのわたくしといたしましては! もうさぁ、クライマックス近くで出てきた、大きな川の堤防下の河川敷シーンも、まさか「信玄堤」なんじゃないだろうなと肝を冷やしましたよ。そうじゃなかったみたいだけど。

 ただ、物語の中で登場人物たちをつなげる重要なキーワードとなる「母校の同窓会」というものの性質を考えてみれば、県にいる側も、県を離れて大都会に住んでいる側も「集まろうと思えば集まれる」という絶妙な距離感にある山梨県は、やっぱり『太陽の坐る場所』の舞台としては非常に的確なんですよね。山形はダメだずねぇ~、東京が遠すぎっがら! 関東に行っちゃったら、もうよっぽどの親友でないかぎりお互いに「生死不明」ですよね。
 それでもムリに考えれば、「山形」と「仙台」で『太陽の坐る場所』はできるかな……いやいや、仙台に東京の代役つとまるか!? あ、いや、仙台さん、別になんでもありません、すんません……

 そういえば、東京で生活しているデザイナー(気取りの会社員)の由希がふと思い立って帰郷したシーンで、由希がおそらくは電波のいい場所で通話しようと思ってか、実家のベランダに出てスマートフォンをいじくるくだりがあったのですが、その行動自体がなかなかに地方であることもよかったのですが、夏という設定でグダグダなTシャツを着くずして汗ばむ由希と、少し暗くなりはじめた午後6時ごろの、高さのない家屋だけが続く盆地の光景がたまらなく「いなかの夕方」という感じで、ものすご~くノスタルジックな気分にひたってしまいました。
 しかし、あえて注文をつけさせていただけるとするのならば、私はもうど~しても、アレをこのシーンで入れてほしかった!

 あれ、田舎の盆地いっぱいに唐突になりひびく、農家の鳥よけの「ッポォ~ン!!」っていう空砲!!

 地方の屋外シーンなんですからね、これが聞こえてこなければおかしいと思って固唾を呑んでいたのですが、結局それが意味なく高らかに鳴り響くことは、ついにありませんでした……矢崎監督、それはいかん! 実際に私、山梨県にあそびに行ったときに聞いたんだもの!! 確かあれは甲府市じゃなくて、その隣の笛吹市だったんですけど、おんなじ甲府盆地ですからね。


 とまぁ、いろいろと山梨の件で言いましたが、あくまでも物語は、全国統一的に画一化された「典型的なふつうの高校」の中で起きた過去の出来事と、その約10年後の現在を生きている「ふつうの大人たち」の心象風景とが、淡々とではありつつ巧みに交錯する構成になっており、さほどインパクトのある大事件も起きないふつうの時間の中にありながら、それでもふとしたきっかけでささやかな「悪意」や「疑念」が発生し、それがじょじょに肥大化し、侵蝕していって人物関係を変容させていくという、普遍的で繊細な情景をきわめて丁寧につづっています。アプローチの仕方はだいぶ違っていても、核心にあるテーマの重さはやっぱり辻村カラーというか、学校生活を経験したことのある日本人ならばどこかで必ずひっかかる「痛み」が仕掛けられていましたね。

 なんにせよ、この『太陽の坐る場所』を映像化するにあたって最も肝要なことは、原作が持ち味としているこの無数の「痛み」を、どのように出演する俳優さんがたが視覚化していくのか、という部分だと思うわけです。つまり、登場する人物たちが間違いなく、10年前に「ふつうの高校生」としての日々を経験していて、その3年間の中で忘れられない他者に出逢って、自分というものの存在を揺るがされるような衝突を味わう。その、ごくごく当たり前ではあるのですがものすご~くリアルで痛々しい記憶を、ちゃんと心の奥底に刻みながら大人になっている人たちなのか? というチェックポイントをしっかりとふまえているか。そこが大きな関門になるわけなのです。

 ただ、それって意外と、花の芸能界にひしめく容姿端麗な美男美女の俳優、女優さんがたには難しいことのような気がするんですよね。単純に、その作品の制作された時期に旬になっている、という方々だけを集めたキャスティングにしてしまうと、往々にして、「えぇ~、そんなに美少女なのにクラスで目立たないの?」とか、「お前がその顔でモテないのはおかしいだろ!」という違和感が、観客の作品全体への興味をそいでしまうことがあると思うんです。こういうスクールデイズものって。少女マンガじゃねぇんだから、なんなんだそのクラスの容姿レベルの高さは!? っていう問題ですよね。

 その点、この映画版『太陽の坐る場所』は、高校生時代も大人時代も、かなり絶妙に「もっさりした」空気を身にまとった方々がキャスティングされていたことに、私はなにげなくも深く感じ入ってしまいました。いや、ほめてます! ほめてるんですよ!!

 特に、主要キャラクターである4名の男女のうち、高校生時代のキョウコと高間と、大人時代の島津と由希を演じたみなさんが、まぁ~すばらしかったと思うんですね。

 高間を演じた古泉葵さんは、確かにクラスの女子陣営の中心に位置する輝きはありながらも、その人気のかげりを常に恐れている人並みな繊細さを持っている少女。キョウコを演じた吉田まどかさんは、もっさりを絵に描いたような目立たなさを基調にたもちつつも、化けようによっては将来、大女優に成長してもおかしくはないという説得力をその瞳に秘めているすごみがあったように感じました。まさしく高校生時代のキョウコは、爆発するエネルギーをひたすらたくわえ続けている、「ばくだんいわ」のような危険性を持った地味子さんを、寡黙ながらもびっくりするくらいに雄弁に演じていたと思います。そんな彼女が、誰もいない放課後の体育館でふら~、ふら~と踊り始める、そのドラマティックさですよね。ミステリー作品ではないわけですが、これは十二分にミステリアスですよ。でも、確かに私のクラスの片隅にいた「あの子」は、誰もいなくなった放課後の校舎のどこかで、人知れずそんなことをしていたのかもしれない! そのリアリティですよね。
 大人時代の由希を演じた森カンナさんの、「美女だけど、なんか惜しい」感もすばらしかったですね。タバコを馴れた手つきでスパーとふかすしぐさも、彼女が心酔しているらしい『ティファニーで朝食を』のヘプバーンの衣装を逐一再現できるルックスも言うまでもなくステキであるわけなのですが、そんな彼女がうだつの上がらない会社員であり、上司の男の都合のいいようにホイホイ動いてくれる軽~い女性であるという事実の哀しみが、それを本人がかたくなに認めないからなおさらクローズアップされるという、この痛々しさね! 地方都市で臆面もなくヘプバーンの真似事をし、電話では友人に平然と「え? いま、ニューヨーク。」と言い放つ悲劇を、無言でスクリーンを通して凝視する作品の冷酷な視線に、慄然とせずにはいられない「おてんとさま」の恐ろしさを見たような気がしました。これまた、高校生時代に泣きながら学校を飛び出して家に帰る経験をしたという過去が、こういう大人になってしまった由希、というキャラクターに不思議な説得力を持たせていたのではないのでしょうか。あの事件があったから、今のこの人生がある。高間とキョウコの関係もありつつ、ここにもひとつの物語がありましたね。青春は痛い!

 その一方、とかく女優さんが前に出る作品の中で、「リアルに気持ち悪い部分もある男子」という非常に重要なファクターをほぼひとりで担った、島津役の三浦貴大さんも良かったんですねぇ。
 三浦さんだって、普通にそこにいたら充分に男前だし、まぁよくよく見てみたら目元と口元が母ちゃんに似てるかな、というセクシーさも兼ねそなえた魅力あふれる俳優さんであるわけなのですが、そんな部分は極力おさえつつ、高校生時代の生き方がわざわいして、大人になった今現在もどことなく消極的ではっきりしない不器用さを全身からにじませる「いいひと」という人物を的確に好演していたと思います。
 大人になっても「それ」を肌身離さず持っているなんて、島津きもい! 実際にきもい私から見ても、それはきもい!! でも、その気持ちはわからなくもない。そして、そういうきもい部分を高校生時代の島津ではなく大人になったはずの島津がなおも引きずり続けていて、その象徴でもある「それ」を島津がやっと捨てたことによって彼の物語が未来へ動き始める、という一連の流れにも、他の女性たちの物語に勝るとも劣らないドラマティックさがあってよかったですね。
 はた目から見たら、転勤するにあたってサラリーマンのお兄ちゃんが身のまわりのものをまとめて捨てている、というだけの行為であるわけなのですが、そこに何かしらの決意を秘めていた三浦さんの表情はステキでした。だが、きもい!! ちょっと君、よりによってそれを何にも包まずに、がさっとゴミ袋の表面側に入れて収集所に出すのは、いくらなんでも危険なんじゃないのかね!? そこは島津らしく、もっと繊細に配慮しつつ捨ててほしかった……

 同じ男子として、物語の中に「まともな男」がなかなか登場してくれない、という展開は多少なりとも心苦しい部分があったのですが、作中に登場したら、明らかに周囲を揺るがす存在になっていたはずの「高校生時代の太陽」こと、リア充男子の清瀬陽平が意図的に遠い場所にいる、その位置関係も含めて、

「自分の人生を劇的に動かしてくれる、はっきりした超人的存在なんていない。でも、自分から探したら意外と近いところにいる。」

 という現実世界の哲理を、アプローチはちょっと違いつつも、映画版『太陽の坐る場所』もまた、ちゃーんと原作小説と同様におさえているんだな、ということを強く感じました。そこがあるんだったら、大丈夫ですよね。

 作中のキーワード「太陽はどこにあっても明るい」に込められた意味は、読む側の解釈によるのでしょうが、私はこれを、「太陽を暖かく感じるのも、うとましく感じるのも自分次第。」と受け取りました。そして、他人がどう感じようが、太陽は常に自分の変わらぬルールにのっとって、そこにあり続けているものなのです。さぁ、あなたは天動説派? それとも地動説派? 要するに、ほんとに宇宙の構造がどうなっているのかなんて、おそらくは地球の地面の上で生まれて死んでいくいち生物にとっては、けっこうどうだっていいことなわけで。そういう意味で、あくまでもこの『太陽の坐る場所』で語られる「太陽」とは、太陽系の中心にある恒星のことではなくて、『古事記』で語られるような「あまてらすおおみかみ」のことでなければならないわけなんですね。


 と、まぁいろいろくっちゃべってまいりましたが、この映画版『太陽の坐る場所』は、出演する役者さんがたが、派手な見せ場こそさほどはないものの、それぞれのポジションを非常に手堅く演じてのけている、小ぶりながらも全体的なバランス感覚に優れた名作であると感じました。太陽、太陽と言いつつも、その実は「天岩戸に隠れた太陽」の、長~い思索の心象をつづったようなほの暗い湿度を持った、繊細な作品。だからこそ、主人公たちの現在いる世界はクライマックスの再会シーンまでひたすら、つまらない俗物にまみれた閉塞感を持っており、その反面、折にふれて思い出される過去の高校での風景は、どことなく明るくノスタルジックな魅力にあふれているのです。あんなにイヤ~な時代だったのに。

 劇中、夢想する高校の校舎の中をさまよう高間の目の前で、現実では観たこともないような蟲惑的な笑みを浮かべたキョウコがピアノを弾いているという印象的なシーンがありましたが、そこでキョウコが弾いていた曲が、ヤナーチェクの『死』である、という演出は、まぁ~わかりやすく高間が恐れ、とはいいつつもどこかで魅力を感じているものの正体を言い表していたと思います。

 そして、人は生きている限り、そういう甘い誘惑と闘い続けていかなくてはならない、という厳しさをこれでもかと提示していく原作小説に比べて、映画版は多分に「敵側より」な甘めな作りかたになっていたかな、という気もするのですが、そこはそれ、そういったつれづれと苦闘する水川あさみさんの静かなたたずまいは、間違いなく辻村ワールドを体現するたくましさを陰に持っていたと思います。
 なんか、どっかの感想で「主人公の水川さんに魅力がない。」とかいうアホまるだしな声がありましたが、あの水川さんのどこをどう観たら魅力なく感じるのか教えていただきたいです、ホント! 悩める30代の美しい面差しのオンパレードだったじゃねぇかァア!! あれを観てどうとも感じないんだったら、死ぬまで10代アイドルとか CGアイドルの、きれいなだけのおゆうぎ会を眺めて暮らしてたらいいんじゃないですか。


 一点、私個人としては原作小説の中で最も魅力的に感じていた「しがない小劇団の女優・半田聡美」をはじめとする、味わい深い主要登場人物の大半の物語が豪快にカットされているという部分には少なからずもったいなさを感じ、そのあおりをくらったというわけでもないのでしょうが、全国的に有名な女優になったはずのキョウコの具体的な活動が、半田さんが出ているような抽象的な舞台演劇の稽古風景くらいでしか描写されなかったため、地方アナウンサー特有のパッとしない日々が詳細に描かれていた高間の位置から観たキョウコが、どのくらい輝かしい存在になっているのかという比較がイマイチはっきりしなかったのは残念でした。そこは徹底的にキョウコのサクセスぶりをアピールするべきだったのではないのかと感じたのですが、全体的に高間の鬱屈しかクローズアップされない印象になったのは、ちょっとテイストがかたよりすぎのような。

 非常に野心的な作りでありつつも、今回の映画版『太陽の坐る場所』は、全体的にはものすごく均整のとれた一貫性のある物語に仕上がっていたと思います。もっと原作小説のミステリー性を活かした映像化もあっていい気もしますが、まず、これはこれでひとつの興味深いこころみになったのではないのでしょうか。おもしろかったなぁ。比較的、小規模な形での劇場公開になっちゃったのはもったいないですよ、これ。


 まぁ、50代後半の男が作った映画が、当時20代の女性が執筆した小説よりも遥かに甘ったるくめめしいテイストになっているってのは、若干どうかと思うんですけどね……女子に鏡に反射させた光をあててニヤニヤするなんて、リア充男子グループがやる所業とは思えないんですが。きm……いえ、その、なに? 高踏的ですよね。

 日本男児よ、盗んだ女子の服なんか大空にほうり投げて、立ち上がれ! っていうか、盗むな!!
 盗まずに、正々堂々と「くれ!!」と叫んで徹底的にきもがられる……それがまことの青春だ。死屍ルイルイ♪

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