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日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第27回 「豊前国小倉城&長門国赤間神宮」資料編

2016年01月15日 23時25分22秒 | 全国城めぐり宣言
豊前国(ぶぜんのくに)小倉城(こくらじょう)とは……

 小倉城は、現在の福岡県北九州市小倉北区に存在した城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。JR九州の西小倉駅から徒歩で10分、小倉駅から徒歩で15分。

 小倉城は13世紀中期(鎌倉時代中期)に紫川(むらさきがわ)の河口西岸にあった丘に築城されたといわれ、近世の江戸時代前後に戦国武将の毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造りの城郭を築き、江戸幕府大名の細川忠興が南蛮造りの天守閣などを建てた。
 本丸を中心に、南に松丸、北に北ノ丸、それらを囲むように二ノ丸、三ノ丸、外郭が配された梯郭式平城であった。建造物は、野面積みの石垣の上に大天守と平屋の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、各所に狭間3271を配していた。城下は、城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し城内に町を取り込んだ総構え形式を採っていた。現在、一部の石垣と堀が残り、天守閣・櫓・庭園と大名屋敷が再建されている。天守閣の内部は郷土資料館として利用されている。

 天守閣は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守であった。大天守は、最上階の外廻縁(そとまわりえん)が徳川幕府への遠慮により重数を少なく見せるため、また雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りである。さらに最上層の入母屋破風を除き、破風を用いないものであった。現在、建造されている唐造りの天守閣はこの小倉城と周防国岩国城の天守閣の2例しか存在せず、どちらも昭和時代の再建によるものである。
 かつての天守閣は天保八(1837)年に失火によって本丸御殿とともに焼失し、天守台には「御三階櫓」と呼ばれる櫓を建て、天守閣の代用としていたとされる。現在見られる天守閣は、1959年に『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』などの史料をもとに鉄筋コンクリート構造によって復興された。最上層以外の破風構造などは地元観光面への考慮から要望によって付加されたもので、大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などの破風が見られる。
 2004年の発掘調査により、篠崎口から清水門の外堀で畝堀(うねぼり)と堀障子(ほりしょうじ)が発見される。これは忠興時代に造られたものと考えられている。

歴史
文永年間(1264~74年)
 緒方大膳亮帷重が居城した、というのが初見とされる。
元徳二(1330)年
 黒崎土佐守景経が居城。後に守護大名・大内家の持ち城となる。
嘉吉二(1442)年
 太宰少弐頼冬が占領し、文明年間(1469~86年)には菊池家が居城とした。
永禄十二(1569)年
 毛利家と同盟し大友家と対立していた岩屋城主・高橋鑑種が大友家に降伏し、小倉城に領地替えとなる。
天正十五(1587)年
 高橋鑑種の養子・高橋元種が豊臣秀吉の九州征伐に小倉城を開城。豊臣秀吉の重臣であった毛利勝信が豊前国小倉6万石を与えられ小倉城に入城する。この当時の城の様子は史料がなく不明。なお、勝信の嫡男・勝永にも豊前国に1万石が与えられている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となる。
慶長五(1600)年
 関ヶ原の戦いで石田三成に加担した毛利勝信・勝永父子は改易処分となり、論功行賞で細川忠興が豊前国を領する。忠興は初め中津城に入城したが、豊前一国40万石の大名の居城として、1602年から7年かけて毛利家の小倉城を改築し、そこに居城した。なお、この際に城下町も整備され紫川で東西に二分し、西は侍町、東は町人や下級武士の町とした。
寛永九(1632)年
 細川家が肥後国に移ると、譜代大名として播磨国から小笠原忠真が15万石を領して小倉城に入り、以後、小倉藩藩主の居城となる。
天保八(1837)年
 失火により本丸御殿と天守閣が焼失し、それ以後天守閣は再建されなかった。
文久三(1863)年四月
 江戸幕府の攘夷政策にともなう海防強化のため、城の外郭で海からの入口に当たる紫川の河口両岸に東浜台場と西浜台場を造営。
慶応二(1866)年
 第2次長州戦争での小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城へ撤退。同年八月一日、小倉藩は小倉城に火を放ってさらに撤退し、藩主は肥後国熊本藩に退避。家老ら藩首脳陣は小倉の南の香春(かわら)で指揮を執った。
慶応三(1867)年
 長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし小倉城を含む地域は引き続き長州藩の領有となり、小倉城は再建されなかった。


長門国(ながとのくに)赤間神宮(あかまじんぐう)とは……

 赤間神宮は、現在の山口県下関市阿弥陀寺町に存在する神社である。旧社格は「官幣大社」。平安時代末期の壇ノ浦合戦で幼くして崩御した安徳天皇を祀る。
江戸時代までは「安徳天皇御影堂」といい、仏式で祀られていた。源平合戦で滅亡した平家一門を祀る塚があることでも有名であり、怪談『耳なし芳一』の舞台でもある。JR下関駅から徒歩で10分。

 平安時代前期の貞観元(859)年に、阿弥陀寺として開闢された。
 寿永四(1185)年三月二十四日の壇ノ浦合戦で入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、建久二(1191)年、朝廷は赤間関(現在の下関)に安徳帝の御影堂を建立し、帝の母である建礼門院平徳子ゆかりの尼僧に奉仕させた。以後、勅願寺としての崇敬を受ける。
 明治時代の神仏分離政策により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また明治二十二(1889)年七月、歴代天皇陵の治定に際し、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が「擬陵」として公式に治定された。天皇社は1940年8月に官幣大社に昇格し「赤間神宮」に改称した。
 太平洋戦争の空襲により社殿を焼失したが、1965年4月に新社殿が竣工した。

平家一門の墓(七盛塚)…… 壇ノ浦合戦で滅亡した平家一門の合祀墓(供養塔)。平知盛、平教盛ら一門14名の供養塔が並び、名前に「盛」の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する。
水天門 …… 神社の神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門。「水天」の名称は、安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる。
文化財 …… 『長門本平家物語』20巻(重要文化財)、『赤間神宮文書』(重要文化財)

先帝祭
 安徳天皇の命日である毎年5月2~4日(新暦)に行われる年中行事。2日には平家落人の子孫らの参列のもと御陵前での神事を始め、平家一門追悼祭などがある。翌3日には、平家の遺臣・中島四郎太夫が漁師に身をやつして平家再興を計り下関に潜伏、先帝の命日には威儀を正して参拝したという故事に因んで、その子孫に端を発する「中島組」という漁業団体員が参拝する「中島組参拝の式」が行われる。それに次いで「上臈・官女参拝の式(上臈道中)」となるが、これは壇ノ浦合戦の後に地元の住民に救助された建礼門院平徳子の侍女たちが、住民に養われつつ御陵に香花を手向け、先帝の命日には容姿を整えて参拝したことに縁由するという。その後、妓楼を営むようになった住民が、侍女たちやその遺族も没したために、抱える遊女たちにその宮廷装束をまとわせて参拝させるようになり、これが江戸時代に至って、当時存在した稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれて現在の上臈道中となったといい、吉原の花魁に模した太夫が禿(かむろ)、上臈、稚児、警固(けいご)らを従え、下関市中を外八文字を踏んで歩く。その他、檀ノ浦では源平合戦の再現合戦が行われる。例祭の翌々4日には神幸祭が行われる。
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