goo blog サービス終了のお知らせ 

長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

こんなんでいいじゃん!レトロ感たっぷりのひらきなおりエンタメ ~『黒蜥蜴』2024エディション資料&メモ~

2024年10月15日 22時18分33秒 | ミステリーまわり
 え~、どもども! そうだいでございます。いよいよ秋めいてきましたね~。

 あのですね~、先日ついに、我が『長岡京エイリアン』でもこの秋注目大本命と目していた『黒蜥蜴』2024エディションが堂々放送されたわけなのでございますが……

 すんません、録画した作品を本腰すえてチェックするまでに、え~らい時間かかっちゃった!
 いやあの、今年に限った話でもないのですが、秋はいろいろ忙しいのよ! その上、週末は必ず映画館に行ってる感じでなんかしらの新作品を観てるし、『黒蜥蜴』の感想をぐだぐだ言ってる余裕はなかったんですよね……

 でもまぁ、だからと言って記事にもせずにスルーするなんていう選択肢などあるわけもないですし、しかも今回の2024エディションは、あの白本彩奈さんがヒロイン枠で出演しているということですので、だいぶ放送から遅れてはしまいましたが、覚悟を決めて感想を述べる記事を作らせていただきたいと思います! ま、遅れたって誰も待ってないから問題ないだろうし☆


ドラマ『江戸川乱歩原作 名探偵・明智小五郎 黒蜥蜴』(2024年9月29日放送 92分 BS-TBS)
 『江戸川乱歩原作 名探偵・明智小五郎 黒蜥蜴』は、『黒蜥蜴』の11度目の映像化作品(三島由紀夫による戯曲版の映像化も含める)。
 本作は、昭和四十年(1965年)頃の雰囲気と現代を織り交ぜた架空の時代を舞台に設定している。

 『黒蜥蜴(くろとかげ)』は、江戸川乱歩の長編探偵小説。「明智小五郎シリーズ」の第7長編で、1934年1月~12月に連載された。
 本作、もしくは本作を原作とする三島由紀夫による戯曲(1961年発表)を原作として、これまで映画2本・TVドラマ9本(2024年版を含む)・ラジオドラマ2本が制作された。なお、コミカライズも4回されている(舞台化作品に関しては、多すぎてカウントできず)。


あらすじ
 大富豪で宝石商の岩瀬庄兵衛のもとに、一人娘・早苗の誘拐と、大宝玉「エジプトの星」の強奪をほのめかす予告状が届き、岩瀬は名探偵・明智小五郎に警護を依頼する。明智は、部下である小林芳雄と木内文代と、警視庁捜査一課の浪越警部と共に警備にあたるが、混乱のなか早苗が誘拐されてしまう。
 明智は、岩瀬宝飾店の常連客でもある緑川夫人が犯人の女賊・黒蜥蜴であると確信し追い詰めていくが、互いに心の内を探るうちに二人は惹かれあっていく……

おもなキャスティング
21代目・女賊黒蜥蜴 …… 黒木 瞳(63歳)
84代目・明智小五郎 …… 船越 英一郎(64歳)
42代目・小林芳雄  …… 樋口 幸平(23歳)
19代目・浪越警部  …… 池田 鉄洋(53歳)
14代目・木内文代  …… 唯月 ふうか(28歳)
岩瀬 早苗     …… 白本 彩奈(22歳)
岩瀬 庄兵衛    …… 大河内 浩(68歳)
雨宮 潤一     …… 古屋 呂敏(34歳)
松吉        …… 諏訪 太朗(70歳)
黒蜥蜴の手下(年長)…… 渡辺 隆二郎(56歳)
黒蜥蜴の手下(調理)…… 五明 紀之(52歳)
黒蜥蜴の手下(新人)…… 工藤 秀洋(48歳)
浪越警部の部下   …… 川手 祥太(33歳)
岩瀬家の家政婦   …… 小柳 友貴美(66歳)
遊覧船乗り場の受付 …… 山野 海(59歳)
美青年の剥製    …… 志生(じお 32歳)
※浪越警部は原作小説における「波越警部」、木内文代は原作小説における「明智文代」としてカウントしています。

おもなスタッフ
演出 …… 本田 隆一(50歳)
脚本 …… 入江 信吾(48歳)
制作 …… ホリプロ


 と、まぁそう思いまして、ついにリビングでハリボーグミをかじりながら本作を観てみましたのですが、視聴中に気になったポイントをちょいちょいメモしていきましたらば、なんと以下のように即時的なつぶやきだけでけっこうな文量になってしまいましたので、全体を見通した上での感想文は、また次回にちゃちゃっとまとめようかと思います。長くなって申し訳ない!って、いつものことですか。

 いや、この作品はテイストから言いましても、そんなに長く引っ張ってくどくど申し立てるようなものでもないと思うんですけど……頭をからっぽにして楽しんで、面白ければそれでいいじゃないかという娯楽作ですよね。


≪毎度おなじみ視聴メモでございやす≫
・冒頭から、小林少年との息の合った連係プレイで、なんか死体の上にバラの花びらを散らばす連続殺人犯の逮捕に貢献する明智探偵。定番の滑り出しだが、渋い黒コートに身を固めた船越さんと、ひょろっとしてどことなく頼りない幼さのある樋口くんとの対比がなかなか面白い。がんばれ、ドンモモタロウ!
・事件解決後、探偵事務所のある建物の中でタモさんか古畑任三郎のように視聴者に直接語りかけてくる明智探偵。これはおそらく、あのレジェンド天知小五郎の「あけましておめでとうございます、明智小五郎です。」(『天国と地獄の美女』より)を意識した演出かと思われるのだが、「善悪」と「美醜」を別の問題としてとらえているという視点が、けっこう明智っぽくて興味深い。顔は船越さんなんだけどね……
・宝石商の岩瀬庄兵衛が読む犯行予告状の、「黒蜥蜴」という署名と紋章が画面に映るときに、今どきギャグアニメでも聴かないような中華ドラの「ぼわ~ん!!」という効果音が鳴り響くのが、視聴者の不安感をいやがおうにも高ぶらせてくれる。真剣に演じている大河内さんと白本さんの立場が……
・タイトルロールの前に、ステンドグラスから光の射しこむ教会の礼拝堂のような場所で、金銀財宝や動物の剥製、いかにもな球体関節人形たちに囲まれ、原作通りの「美青年の剥製」を見上げて恍惚とした笑みを浮かべる女賊・黒蜥蜴がさっそく登場! さすが、演じる黒木さんは還暦を超えているとは思えない美貌なのだが、同時に自分の愛するものに夢中になる幼さも持っている、ちょっと脇の甘そうな黒蜥蜴である。
・軽快なジャズのリズムに乗って始まる本作のタイトルロールなのだが、眼帯をしてナイフを持つ諏訪太朗さんがクレジットされた時点で、「あぁ、そういうドラマなのね。」と腹をくくらせてくれる親切設計なのがうれしい。肩の力ぬいて観ようか!
・本作のタイトルの字体が、ハサミで切り取ったようなおどろおどろしい形になっているのが、明らかに天知小五郎の「美女シリーズ」を意識しているようで面白い。調べてみたら、1962年の京マチ子版も、68年の丸山明宏版もタイトルの字体は違うんですよね。どれも違ってどれもいい!
・タイトルロールの終わった瞬間に見えるのが、「東洋のモナコ」こと静岡県熱海市に実在するホテル・ニューアカオなのが素晴らしい。タイアップロケ全盛の TVサスペンスドラマへのハンパないリスペクトがあふれてるぞ! でも……「昭和四十年頃の雰囲気と現代を織り交ぜた架空の時代」っていうか、もろリアルタイムの今なんじゃないの? ニューアカオは昭和四十八(1973)年開業なので四十年ごろにはないし……
・なんで庄兵衛の大事な仕事の商談に娘の早苗がいるんだ……と思ってたら、宝石を着けるモデルとして連れてきてんのか! 単なる親バカではなく、モデル社員を雇わずに家族で代用している庄兵衛のケチ臭い商魂が垣間見える。ま、そんなに美女だったら使いたくもなるでようけどね。
・細かいことを言うようで申し訳ないのだが、黒蜥蜴こと「緑川」夫人が紫色の着物を着ていて、対する早苗が「緑色」のワンピースを着ているという構図がなんだか非常に気になる。いや、別に意味はない偶然なのだろうが、せっかくどっちもステキな衣装なのだから、役の名前にも配慮した配色にしてほしいのですが……
・早い段階で明智探偵と対面する緑川夫人なのだが、本作では船越さんが意外と長身(181cm )だし、居合わせている大河内さん(178cm )と白本さん(170cm )よりも小柄な黒木さん(163cm )のこぢんまり感がチャーミングな方にはたらいている。この時点で出す必要はないのでいいのだが、大犯罪者らしいすごみが全然ないんですよね。ま、仮の姿なんだからまだいいけど。
・まともなセリフなど一言も発していないのだが、父親である庄兵衛にいいようにこき使われて「私(庄兵衛)の命の次に大事なもの」の座も大宝玉「エジプトの星」に奪われてしまっている早苗を演じる、白本さんの表情のかげりの演技がさすがである。いや~、今作でも嘆きの「ハ」の字まゆがいい味だしてるねぇ!! 22歳のみそらででっかい水玉のリボンをつけても許されるのは、白本さん級の美女の特権ですな!
・庄兵衛を囲む食後のコーヒーの席で、なにげなく出したアレキサンドライト「白夜の森」の話をエサに見事に緑川夫人にかまをかける明智探偵! この小ズルいやり口が実に明智らしい。こいつ、出会った瞬間に犯人の目星をつけやがったな!
・白本さんが美人であることには異議の申し立てようもないのだが、やはり物語の流れ上、黒蜥蜴にとりこにされる令嬢が黒蜥蜴よりも大柄というのは、ちと不思議な感じもする。黒木さんもそんなに小さいわけでもないはずなんですけどね……
・これは本作の内容自体からは切り離すべき話なのだが、本放送時にひっきりなしに流れる石破内閣の組閣人事のニュース速報と、CM でバンバン流れる船越さんと黒木さんが共演する本作向け特別仕様の「にしたんクリニック」コマーシャルがものすんごく気にさわる。まぁ、にしたんさんは「このドラマはこういう楽しみ方をしてください」というガイドなので甘受するしかないのだが……TV ドラマって、こういう雑味が入るもんなのよねぇ。のちにソフト商品で観るのとは全然違う印象になりますね。
・犯行予告時刻までサシで酒を飲む明智探偵と緑川夫人との会話が、いかにも同世代の名優同士の演技合戦という感じで魅せるものがある。距離感ちかいな~!
・「人間の闇です……僕は、その闇を暴くことに、たまらない愉悦を感じるんですよ。」という明智探偵のアブない告白に、「はぁ……」と眉をひそめて本気でドン引きする緑川夫人。いや~、本作の黒蜥蜴はほんとに等身大というか、かわいらしいですね。乱歩キャラらしくないな~。
・「僕に言わせれば、黒蜥蜴のやっていることなど、もう滑稽でしかない。どんなに美しいものを集めても、どんなに美しいものに囲まれても……人間本来のドス黒さは薄まりません。そうでしょう?」と、緑川夫人をあおりにあおりまくる明智探偵! う~む、今回の明智小五郎は、見た目は完全に船越さんなんだけど、中身はかなり仕上がってるぞ。いいね!
・寝ているはずの早苗がクッションとマネキン人形の首にすり替えられているというのも、天知小五郎シリーズへのオマージュだと思われる。ベタだな~! でも、そこがいい。でも、エジプトの星を守る庄兵衛はしょうがないとしても、犯罪者の一団が襲撃してくるかもしれない部屋で早苗がグースカ寝ているというのは、どんなもんなのだろうか。余裕ありすぎじゃありませんこと?
・黒蜥蜴のさしがねで早苗を誘拐しようとする雨宮をなんとか阻止する小林と文代の助手コンビだが、本作ではちょっとまぬけな小林と気丈で格闘術にも長けた文代という感じにキャラ分けがはっきりしているのが面白い。小林の方は天知小五郎シリーズでもコメディ要員な感じだったので伝統なのだが、文代がパワー系になっているのは、いかにも令和っぽいアレンジである。
・早苗に変装する黒蜥蜴の描写が精密な CG処理になっているのも令和っぽいのだが、だとすると、明智探偵は黒蜥蜴の変装を見抜けなかったということになってしまう。まぁ、あえて泳がせていたと言われればそこまでなのだが……あと、明智の前に現れた時に早苗(に変装した黒蜥蜴)がエロいバスローブを着ていたのも、紳士たる明智にガン見させず目をそらさせるための作戦だったのかもしれない。やるな黒蜥蜴! 男心をよくわかっとる。
・サスペンスドラマあるあるだと思うのだが、女優さんが男装すると体型がめちゃくちゃ貧相に見えることが多く、今回も黒木さんが扮する老紳士が枝みたいな手足の細さで思わず心配になってしまう。女優さんって大変なんだな!
・黒蜥蜴一味による岩瀬早苗誘拐未遂事件から一夜明けた、明智探偵事務所での明智・小林・文代の天知小五郎シリーズいらい伝統のダベりシーンなのだが、事務所の入っているビルの外観が、まんま東京都中央区日本橋茅場町にある実在の「第2井上ビル」である。このビルは関東大震災からの帝都復興計画の最中、昭和二(1927)年に建設されたコンクリート建築で、非常に貴重な歴史的建造物なのである。いかにも明智探偵事務所がありそうなビルでけっこうなのだが、「架空の時代」とかいう設定はどこへ……?
・黒蜥蜴の異常なまでの美術品収集への執着に興味を深めた明智は、小林助手に過去の黒蜥蜴の被害に遭った強奪品のリストアップを命じる。ここらへんから、明智が原作小説とは全く違うアプローチで黒蜥蜴の正体に迫ろうとする本作オリジナルの展開が始まってきて面白い。緑川夫人が来ていた和服の帯の産地(群馬の桐生織)から、黒蜥蜴のルーツを探ろうとするとは……いかにも、日本全国を駆け巡る旅情サスペンスドラマでキャリアを積んできた船越さんらしい捜査法である。やっるぅ!
・明智のいじわるなディスり発言が確実にボディにきいてきて、ついには自分のこしらえた美青年の剥製が動き出してののしってくるという幻覚にすら悩まされる黒蜥蜴。メンタル弱すぎでしょ!
・いや~、諏訪太朗さんが出てくるとほんとに安心するなぁ。しかも今回は、せむしでびっこをひいて顔半分はやけどで眼帯という、そうとうにデンジャラスなよくばりスタイルだ! バカバカしいな~、だが、そこがイイ!!
・人前では平静な様子を装っているが、明らかに常軌を逸した執念で明智への復讐計画を練る黒蜥蜴に、今までの彼女らしからぬ乱心を感じ取って浮かない顔をする松吉。ここらへんから、松吉が他の雨宮などの手下たちとは全く違う、黒蜥蜴にもっと親密な関係にある人物であることが垣間見えてくる。こういったあたりをセリフでなく諏訪太朗さんの無言の表情で暗示してくる演出が非常に素晴らしい。諏訪さんのポテンシャルをわかってる采配だね~!
・本作は船越&樋口ペアが初めてタッグを組む作品なので仕方がないのかも知れないが、明智と小林の会話がやや堅く、若干パワハラ気味のきつい口調で明智が小林に接しているのが気になる。ここはもうちょとコミカルな感じでもいいと思うのだが……少なくとも今作では、原作小説でただよってくるような倒錯気味なただれた関係なぞ微塵も感じられない、極めてドライな上司と部下の関係である。小林君、辞めないといいんだけど……
・黒蜥蜴に誘拐されかけたあたりから早苗を演じる白本さんの演技が徐々にオーバーになってきて、父・庄兵衛への屈折した感情もあいまって楳図かずおのマンガみたいな顔になっておびえるのが大げさすぎて面白い。白本さんも、わかってんね! それにしても、早苗(22歳)はでっかいリボン好きだな~!!
・ピアノを演奏するタッチが違うことに気づき、早苗の得意だったテニスの話題をエサに黒蜥蜴の変装を見破る明智。いやいや黒蜥蜴さん、また明智の口車に乗って正体ばれちゃってるよ……バカなの? それにしても早苗さん、もしかして通ってた中学校は「ゆめの風中学校」で、そこのテニス部で「お蝶夫人」とか呼ばれてブイブイ言わしてたときに、遠藤憲一さん率いる邪魔邪魔団の魔手に堕ちて怪人になってませんでした? あれからもう6年が経つのか……人に歴史あり!
・二度目の挑戦にしてついに早苗誘拐に成功した黒蜥蜴が、エジプトの星との交換に選んだ場所は、作中では「あおば湖西公園」と指定されているのだが、景観はまんま、神奈川県相模原市の相模湖である。熱海に相模湖と、本作はロケーションもなかなかレトロですばらしい。このこぢんまり感、あぁサスペンスドラマだな~って感じですね。
・唐突に挿入される、謎の少女が児童養護施設の前で同年代の子ども達に「トカゲ!トカゲ!」と呼ばれ忌み嫌われるセピア色の記憶。本作で最も独自力の強い「黒蜥蜴の過去」を象徴するシーンなのだが、少女を罵倒する3人の昭和っぽい恰好をした子ども達のうち、2人目のセーラーの冬服を着た女の子のはやし方が、両手を片方ずつテンポよく「 Yo!Yo!」みたいに突き出して指さすスタイルなので、戦後間もない日本の子どもにしておくには惜しすぎるリズム感覚の持ち主である。生まれるのが年号1、2コぶん早い!!
・ちなみに、現実世界の日本で保護者のいない子どもを主に擁護する施設に「児童養護施設」という名称が使われるようになったのは1998年の改正児童福祉法の施行からであり、それまでは戦前は「孤児院」、戦後は「養護施設」という名称が一般的であった。でもま、架空の時代なんだから、いっか。
・『黒蜥蜴』の映像化作品のご多分に漏れず、紫の着物、どピンクのワンピース、全身黄色コーデのセットアップ、純白のネグリジェと華麗な衣装の七変化を見せてくれる黒木蜥蜴なのだが、明智をとっつかまえたと勝ち誇るアジトでの気合の入った衣装がヒョウ柄のコート風シースルーワンピースなのは、トカゲとしてさていかがなものか。それともこれは、登場する連続殺人鬼の名前が「青蜥蜴」なのに作品のタイトルが思いッきり『夜の黒豹』になっている横溝正史先生へのオマージュなのか? 乱歩なのに!? いや、ここは私としては、船越小五郎シリーズの第2弾が、今まで一度も映像化されたことのない(舞台化はあるけど)、乱歩作品でもとびっきり不遇なあの異色すぎる長編になるゾという隠し予告メッセージであるという説を採りたい! 期待してますぞ!! 文代さん大活躍!!
・「人間ソファ」の中から聞こえる明智の声に勝利を確信し、ソファの上でキャハキャハいってはねたり、恍惚とした表情でソファにしなだれかかり「ねぇ、今どんな気分~?」と問いかけて悦に入る黒木蜥蜴還暦オーバー! この様子を早苗がどんな表情で観ていたのかが非常に気になる。なにやってんだ、こいつ……
・原作通りの展開で、ソファは黒蜥蜴団の手により海へと投棄される。でもシチュエーションが原作とは違うので、ピーカンの陽気の中でおだやかな波間にソファがぷかぷか浮かんでいる画がマヌケである。いや、そりゃ中に人がいたらほっときゃ死ぬんだろうけどさ、投げる前後にとどめとか刺さないの? 相手は明智だよ!? 優しいんだがずぼらなんだか……
・ソファを海に捨てた黒蜥蜴は、自分の心を見透かした唯一の男である明智を失った絶望感から自室で落涙する。そんな彼女に寄り添う松吉は優しくハンカチを渡すのだったが、そのとき屋敷中に鳴り響く非常ベルの音が。このシーンで、気を取り直して自室を出る黒蜥蜴の後に付き従う松吉が、一瞬背筋をぴんと伸ばして立ち上がりかけてから思い出したようにいつものせむしに戻る。ここの細かい仕草、遊び心がたっぷりでいいですね~! 原作を読んだことのある人だったらニヤリとする演出。いいぞ、諏訪太朗さん!
・本作の黒蜥蜴一味の構成は、黒蜥蜴、松吉、雨宮、手下3名(年長、新入り、料理番)の全6名のようである。あくまで黒蜥蜴のアジトに同居している人間の人数ではあるのだが、屋敷のデカさに対してかなり少ない違和感は残る。
・非常ベルを鳴らした犯人を捜して屋敷中を探し回る一味の中で、なぜかひとり早苗を開放して連れ出そうとする松吉。その正体は……? という展開が、まさしく天知小五郎シリーズの衣鉢を継ぐ本作の真骨頂といった感じなのだが、船越さんがつなぎを脱いで黒ずくめのスーツ姿に戻るとき、ちょっとだけ、つなぎが足元にまとわりついて時間がかかっているのが初々しい。まだまだだな~!
・あと、天知小五郎シリーズのテイストの復活を狙っているのならば、やはり「明智死亡!?」のくだりが、車の一台も爆発せずに悲しむ人間が出る暇もない忙しさでかなり淡白なのが、だいぶ物足りない。でも、「美女シリーズ」だって最初っからそういうパターンが定着していたわけでもないですからね。なんにしろ船越小五郎の第1作なんですから、寛大な心で楽しみましょう!
・ヅラだ! 諏訪太朗さんが回想シーンでヅラかぶってるぞ!! 加点6億点!!
・黒蜥蜴の美術品強盗の真の犯行目的は、黒蜥蜴の過去の秘密とともに本作オリジナルの新解釈なのだが、だとするのならば、礼拝堂の柱にこれ見よがしに貼り付けられていたちっちゃめのワニの剥製も、盗まれて心から悲しむ持ち主がいたのだろうか……いや、いても全然いいんだけどさ、もっと他になんかないの、命の次に大切な物がさ!?
・黒蜥蜴がふとももに隠し持っていたシルバーの上下二連装式小型拳銃は、あの峰不二子の愛銃のひとつとしても有名なレミントン・デリンジャーであると思われる。ベタだけど、そこはやっぱりデリンジャーですよね~。
・「すいません、抜いておきました……」も、明智小五郎を語る上で絶対にはずしてはならない特技中の特技である。ちゃんと映像化してますね、いいぞ~!
・クライマックスの大乱闘において、格闘能力のランクが明智・文代>雨宮>小林とはっきりしているのが面白い。文代さん強いな!
・エンドロール中の小林と文代との会話で、明智と小林は小林が少年だった頃からの付き合いであるが文代はその時期を知らないらしいということがわかる。少なくとも今回の黒蜥蜴事件ではほぼ手柄のない小林だったが、有能な文代よりも長く明智と組んでいる理由があるようだ……そこらへんは、是非とも第2作で明らかにしていただきたい! BS-TBS さま、なにとぞよろしくお願い致します!!
・ラストで明智が黒蜥蜴の幻影(?)とすれ違うのは、国重要文化財としても有名な神奈川県庁本庁舎の前である。昭和三(1928)年完成の、非常に画になる歴史的建造物なのだが、お役所の前で堂々と撮影できるなんて、やっぱ横浜はハイカラだずねぇ~。


 細かいメモはこんな感じで。それでは、まとめはまた次回に!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

超ニッチ企画!! 『刑事コロンボ』幻の未映像化事件簿をよむ ~だいぶ遅れた読書感想文その2~

2024年09月24日 22時45分35秒 | ミステリーまわり
『刑事コロンボ』オリジナル小説作品の事件簿!! 各事件をくわしく解析
 ※TVドラマシリーズ『刑事コロンボ』の概要は、こちら
 ※未映像化事件簿の「 File.1、2」は、こちら!

File.3、『クエンティン・リーの遺言』( Shooting Script)ジョゼフ=P=ギリスとブライアン=デ・パルマの共作 訳・大倉崇裕 2004年12月~06年12月
 ≪犯人の職業≫    …… 犯罪心理研究家(映像マニア)
 ≪被害者の職業≫   …… TV番組司会者、一人芝居俳優
 ≪犯行トリックの種類≫…… 動機なき無作為殺人
・アメリカ本国で1973年7月(第2シーズンの放送終了後)に、第3シーズン用として執筆された没シナリオの小説化作品。日本における『刑事コロンボ』シリーズ研究の第一人者である町田暁雄が編集した同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』の Vol.1~3にて連載された。
・シナリオ版では、コロンボをサポートするオリジナルキャラクターとして、メカ小僧のスピルバーグ君ら3人の大学生が登場するが、小説化に当たって日本人映画監督キタカワイッペイに差し替えられている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、コロンボの部下のジョージ=クレイマー刑事とシオドア=アルビンスキー刑事(通称マック)、「バーニーの店」のバートが登場する。

あらすじ
 犯罪心理の研究家であり、常にビデオカメラを手放さない映像マニアのクエンティン=リーは、自身の完全犯罪の一部始終を録画して、自分の死後にドキュメンタリー作品として発表しようと計画した。そのために、自分の住むマンションに数多く暮らす「無益な有名人」のリストを壁に貼り、ダーツで決めた被害者をビデオカメラで撮影しながら殺害する! 事件解決に協力する映画監督くずれの日本人青年とともに、コロンボはこのあまりにも異常な犯罪を打ち砕くことができるのか!?


 私が今回の企画で読んだ、『刑事コロンボ』の未映像化作品8作のうち、唯一、一般書店で流通していた書籍でなく同人誌内での連載という形で小説化されたエピソードとなります。ただし、訳者はプロのミステリ小説家で二見書房文庫の『刑事コロンボ』ノベライズシリーズでも2作担当されている方なので、単行本化していないというだけの違いで内容のクオリティは他のエピソードと遜色ないものであると思います。だって、同人誌の責任編集者が、あの町田暁雄先生なんだもの! わざわざ町田先生に連絡して同人誌を注文購入するだけの価値は十二分にありまっせ。

 非常に不勉強なことに、私はミステリ作家としての大倉崇裕先生の作品をまともに読んだことはなくて、今回の本作と、アニゴジ2作のノベライズでしか存じ上げないんですよね……もうね、ここ20年くらいは新しいミステリ作家さんの作品を開拓してない感じなのです、申し訳ない!
 ただ、本作に大倉先生オリジナルで追加、というかシナリオの「スピルバーグ君」たちと交代で登場することとなった日本人監督「キタカワイッペイ」というキャラクターに関しては、ゴジラシリーズのノベライズを手がけた大倉先生としては許すことのできない実在の人物がいそうなことを予想せずにはいられません。ま、あの人のことだろうな……最近は『シン・ゴジラ』や『ゴジラ -1.0』の大ヒットでシリーズにも余裕が出てきたので、その人が手がけた作品も「いい思い出」みたいな感じになってきてますが、当時は私も「ゴジラシリーズの乗っ取りだ!」と憤慨したものでした。にしても、作中で彼にここまで落ちぶれた生活を強いているのは、大倉先生のそうとうな恨みを感じますね……フィクションだけど!

 さて肝心の内容についてなのですが、本作は何と言っても、かの『スカーフェイス』(1983年)や『アンタッチャブル』(1987年)などで有名な映画監督のブライアン=デ・パルマが脚本を手がけた作品であり、しかもゲスト主人公となる犯罪心理研究家のクエンティン=リーが、「ビデオテープで録画しながら殺人を犯す」という、かなりサイコで倒錯したエピソードとなっております。
 確かにそういう目立つポイントだけを見てみると、同人誌の中で町田先生も解説しているように、執筆された1970年代前半の価値観から「恨みも何もない相手を興味本位で殺す」という点が過激だったがために映像化が見送られたという経緯もあるかも知れません。

 ただ、この作品、今回大倉先生による訳を読んでみて率直に私が感じたのは、単に「他の候補シナリオに比べてパッとしないから」映像化しなかっただけなのでは……? という印象なんですよね。この点、実は大倉先生も小説化にあたってもっと面白くアレンジしようかということも考えられたらしいのですが、これはあくまでもデ・パルマのシナリオを翻訳する仕事なので、極力手を加えずに小説化したと語っておられています。例のキタカワイッペイ青年の登場も、元のスピルバーグ君達の活躍を小説という文章の世界で表現しても面白くなりそうにないという判断からだったとのことです。つまり、デ・パルマのシナリオはやはり映画監督の作品らしく、ハンディカメラを構えながら人殺しをする犯人とか、クライマックスで犯人の目を盗んで「罠」をしかけるコロンボ達のサスペンスとかいう「映像映え」に特化した作品だったということなのです。

 なので、本作は正直、ミステリ作品としてはかなりスカスカな内容になっていると言わざるを得ず、その割にゲスト犯人のリーは冒頭で「自分が死後にバラすまで絶対に解明されない完全犯罪をやってのけるゼ!」と傲岸不遜きわまりないハードル上げをブチあげてしまうので、「お前あんなこと言っといて、結果そのザマかよ~!!」とツッコまざるを得ない醜態をさらしてしまうのです。
 このリーは、ミステリ作品なので具体的には言えないのですが、まず肝心カナメの殺人の決行後に、自分の録画したビデオ内に映っていた「あるもの」を見てとんでもない勘違いをやらかし、それを隠蔽しようとして、やる意味の全く無い第2の殺人を犯してしまうのです。当然、その辺の行きあたりばったりな犯行からコロンボもリーを怪しむわけなのですが、コロンボもコロンボで捜査にはイマイチ精彩を欠き、最終的にリーを追い詰める最後の一手は「リー自身が慌てて決定的な証拠を持ち出す瞬間を押さえるために罠をかける」という定番のやつなので、はっきり言って疑わしい人物の家に火を放つのと同じくらい原始的な作戦で強引に犯人検挙をもぎ取るのでした。犯人がリーだったから良かったようなものの……

 いやほんと、今作のリーは口ばっかり達者なのに実際にやってみようとしたとたんに足元がガタガタ震え出して、疑心暗鬼からいらぬ失敗を呼び込むような典型的な犯罪チェリーボーイくんで、第一、上で言ったリーが誤認した「あるもの」というのも、そこにいくまでにリーは2回はそれを見ているはずだし(被害者が手渡される時と、部屋で放り投げる時)、それ自体A4 サイズに拡大されているものだそうなので、いくらなんでもそれを「生きている人間」のように勘違いしてしまうというのは、視覚認知機能に異常な欠陥のある人間でなければ犯さないミスなのではないでしょうか。でも、リーはビデオカメラを手放せない映像マニアなんでしょ? その彼がこんなミスをやらかすとは思えないんだよなぁ。
 この「あるもの」の要素を読んだ瞬間、私はミステリ映画の世界ではかなり有名なある作品(続編でも何でもないのになぜか日本では『 PART2』呼ばわりされてるやつ!)のメイントリックを連想してしまったのですが、あれもあれで「いや、そうはならんやろ……」と感じてしまうものではあるものの、デ・パルマの本作の方が数段ありえない誤認だし、そもそもそれをサスペンスフルに映像化するのはほぼ不可能だと思います。まともに映像化したら視聴者に笑われたんじゃなかろうか……

 もう一つ、リーは「無差別にダーツで選んだ人間を殺す」という、所さんもビックリの無差別殺人という悪魔の所業を犯して……いるようでありながらも、まずダーツの標的がリーの住むマンションの同居人というアホみたいに近い生活範囲内の人選ですし、選んだ実際の被害者もリーにかなり面識のある人物だったので、「無差別」というのは看板に偽りありで、コロンボにとってイージーな問題になってしまったと思います。

 そもそも、本作最大の「ビデオ撮影する殺人者」というのも、そのまんま「殺人者がビデオで撮影している」という事実以上なんのミステリ的な面白みにもつながっていないので、ここのビデオが「カセット録音」であっても「犯人しか知り得ない情報を記した日記」であっても全然互換可能なのが残念で仕方ありません。ただ目新しいからビデオになったってだけにしか見えないというか。その実、内容はかなり古臭いんですよね。
 せめて、ここのビデオという要素にもうちょっと工夫を足して、「たまたま撮影していたビデオの中に人死にが映り込んじゃった」みたいなていで実は撮影者が計画的に殺人を犯していた、みたいな感じになっていたら、音声や文章では代えられない独自のサスペンスを生んでいたような気もするのですが……これはこれで、松本清張の有名な短編作品を思い起こさせますね。でも、本作よりは面白そうでしょ?

 いずれにせよ、この『クエンティン・リーの遺言』は、「あのデ・パルマ監督が演出したかもしれない幻のエピソード」ということで過剰に伝説化しているきらいがあるのですが、映像化されなかっただけの十分な理由はある凡庸きわまりない作品だと思います。ただ、この「凡庸」というのは、あくまでも異常にレベルの高いエピソードが目白押しの『刑事コロンボ』シリーズの中ではという話であって、この作品が没になってしまうほど1970年代のシナリオ群はとんでもなかったんだなぁと、1990年代以降の『新・刑事コロンボ』を見て育った私なぞは驚愕してしまうのでした。

 映像化しても、評価は低めなエピソードになってたんだろうなぁ。同人誌の解説の中で訳した大倉先生は、もしこの作品が映像化されたら犯人のリー役は1970年代ならピーター=クッシング、1980~90年代ならばジェレミー=ブレットに演じてほしかった、なんて語っておられているですが、いやいや、それは作品の過大評価にも程があるんじゃないかなぁ……こんな、ハンニバル=レクター博士の足元にも及ばない、もしも「シリアルキラー甲子園」があったとしても地方予選一回戦コールド負けレベルのまぬけを、かのレジェンドホームズ名優サマがたに演じてほしくはないですよね。身の程を知りなさいって話ですよ。

 ともあれ、このエピソードの全貌をうかがい知る貴重なチャンスを与えてくださった、町田先生の同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』に大感謝!! ありがとうございました。


File.4、『13秒の罠』( The Dean's Death)アルフレッド=ローレンス 訳・三谷茉沙夫 1988年4月25日刊
 ≪犯人の職業≫    …… 大学の総長(シャーロッキアン)
 ≪被害者の職業≫   …… 大学の学部長(大学演劇部の顧問)
 ≪犯行トリックの種類≫…… テープレコーダーを使ったアリバイ工作
・アメリカ本国で1975年(第4・5シーズンの放送時期)に出版されたオリジナル小説の翻訳。
・のちの映像版第56話『殺人講義』(1990年12月放送 第10シーズン)と同様の展開がある。
・映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)と第36話『魔術師の幻想』(1976年2月放送 第5シーズン)に登場したコロンボ警部の部下フレデリック=ウィルソン刑事が三たび登場する。ただし、名前が「ジョン=J=ウィルソン」となっている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ウィルソン刑事の他にコロンボの飼い犬ワン公、獣医のベンソン院長が登場する。特にワン公は、事件解決に重要な役割を担っている。
・コロンボの行きつけのチリ料理の美味しい店も登場するが、店主の名前は映像版のバートではなく「バーニー」となっている(映像版では第2・5話に登場)。
・本作が翻訳出版された時期は、日本で『刑事コロンボ』シリーズと『新・刑事コロンボ』シリーズとの放送の中間期で、新作の放送は途絶えていた。

あらすじ
 ロサンゼルス近郊にあるメリディス大学から、犯罪捜査に関する講演を依頼されたコロンボ警部は、大学の演劇部をめぐる奇怪な殺人事件に巻き込まれる。舞台公演に使う棺に隠されていた大学学部長の変死体。その惨殺劇を演出する策謀のシナリオの謎。捜査線上に浮かびあがった、緑色の服を着た男の正体とは?


 結論から先に言ってしまうのですが、私、このエピソードはこの企画で読んだ「未映像化八部衆」の中でも、特に面白いと感じた作品でした。

 これ以前に紹介したFile.1~3は、それぞれ「交換殺人」、「ビルまるごとの密室殺人」、「ビデオ撮影しながらの殺人」という、なかなか鮮烈な独自色のあるふれこみこそありはしたのですが、その内実はどれも完全にやり切れてはいない残念な出来のものが多く、せっかく魅力的な食材なのにおいしく調理する腕がなかったとしか言えない結果のものばかりでした。まぁ、映像化されないだけの理由は充分に推し測ることのできる作品が続いたわけです。

 それに比べて本作はどうなのかと言いますと、まず第一に目立つのは、TVドラマの形で提供されるエンタメ作品としての「オチ」がかなりしっかりしている点です。コロンボ警部が、犯人にぐうの音も出させない決定打をはなって事件を鮮やかに解決させるという終幕の切れ味が、それこそ名人落語のサゲなみにスパッと決まるんですよね。この気持ちよさは、映像化されたエピソードの名作群と比較しても、あの『溶ける糸』(第15話)や『だまされたコロンボ』(第51話)にすら匹敵するものがあると思います。いやほんと、言い過ぎではないと思う!
 しかも、その決定的なコロンボの論拠、言い換えれば犯人側の致命的なミスが、「カセットテープを使ったアリバイ工作」というトリックの性質に深く根差したものであるというところが、憎らしいくらいにうまいんですよね。つまり、「音声」という点では完璧に自身の不在を隠しおおせていたはずの犯人の策略が、「音声以外」の死角からの指摘でガラガラと崩壊するというカタルシス! これはいいですよね~。
 さらに言うと、コロンボにこの会心の一撃の天啓を与えたのが、TVシリーズ版において「限りなくレギュラーに近い準レギュラー」として腐れ縁みたいに登場していた「あいつ」なんですから、TVシリーズからの『刑事コロンボ』ファンに喜んでもらおうという配慮も行き届いた余裕を感じさせます。しかもなんとラストでは、長い TVシリーズを通しても全く明らかにされることのなかった、ある衝撃の事実が……!? まぁこちらは本作かぎりの特例サービスのようではありますが、ファンにとっては大満足の幕切れなのではないでしょうか。

 このように本作は、事件解決のスッキリ感が TVシリーズの傑作エピソード群レベルにしっかりしているところが特徴的なのですが、そこにいくまでの展開の中で、「自信家でいけすかない犯人」と「爪を隠して敵の隙をうかがうコロンボ」という典型的な対立構造もまたしっかり提示されているという点でも完成度が高いです。File.1、2のように訳者の作家性を反映させてキャラが立っているのではなく、あくまで TVシリーズの味わいに寄り添った形で犯人とコロンボそれぞれの造形が掘り下げられているのです。
 具体的にそこらへんのディティールを明確にしているのは、本作では「シャーロッキアン」というキーワードでして、犯人はアリバイ工作まで周到に計画して殺人を決行するのですが、そもそもの原因は、犯人が大学学長という社会的地位にありながら大学の学生と不倫関係におちいっていたことであって、それを学長選に際して公表される前に告発者を殺そうというんですから、最早つける薬がありません。最低最悪のクズですね。
 その彼が、ことあるごとにコロンボを小馬鹿にするだしに使うのがシャーロック=ホームズ・シリーズに関する話題で、会話のはしばしでドイルの作品に関する知識(ホームズの名言とか使っていたパイプの種類とか)を披歴しては、「あたしゃまともにホームズの小説なんて読んだことがないんで……」と口ごもるコロンボに、「刑事をやってるのに、そんなことも知らんのかね~?」とからんでくるところも、非常にイヤな犯人の人間性をあぶり出しているわけなのです。

 ところが、物語の終盤におよぶ段になって、コロンボはいきなり犯人が驚くようなホームズに関するマニアックな知識(『海軍条約事件』と『マザリンの宝石』に関するもの)を持ち出してきて自身の推理を展開し、どうやらそこまでのコロンボの態度は完全なフェイクで、犯人の心理的ゆるみを引き出すためのカマトト作戦だったということが明らかとなるのでした。スカッとジャパンか、これ!? でも、このコロンボの、犯人逮捕のためならなんぼでも無能なふりをするし、いくら馬鹿にされても痛くもかゆくもないという姿勢は、TVシリーズに非常に忠実な解像度の高さがありますよね。

 このように、本作はかなり映像化作品に肉薄するクオリティを持った傑作となっていると私は感じたのですが、それじゃどうして映像化されなかったのかと考えるに、まずもともとシナリオでなく小説の形で生まれたものだったということを抜きにしても、テープレコーダーのトリックの他に中盤で提示されていた「緑色の服を着た男」の謎が、ちょっと距離感のある感じになっていたのが問題だったのかな、という気がします。

 要するに、この作品は「コロンボの大学講演を利用して殺人を犯す学長」という部分の他に「大学の演劇サークルで発生した殺人」という側面も持っていて、後者にからんでくるのが緑色の服の男という、それはそれで魅力的な謎なわけなのですが、ちょっとこの2つが有機的に組み合わされているとは言い難い乖離を生んでいるんですよね。なんか、2つの物語を無理やりくっつけたような強引さがあるのです。
 せめて、犯人の学長が殺人の濡れ衣を演劇サークルの学生に着せようとする、みたいな策謀でもあったらさらに面白くなったような気はするのですが、残念ながら本作では犯人にそこまで見通す時間的余裕はなかったらしく、棚ぼた的にたまたま殺人現場に変なやつが来たから捜査が勝手に混乱してくれて助かった~、みたいな関係にしかなっていないのです。もったいないな~!

 あと上にもあげたように、後年に「大学に講演にやって来るコロンボ」という一番おいしい要素だけが『殺人講義』にかっぱらわれてしまった、ということが、本作の映像化を決定的に闇に葬ってしまったような気もします。あわれな……部分的につままないで『華麗なる罠』(第54話)みたいに責任もって全部映像化してくれよ~!! でも、どうせ大学を舞台に映像化するんだったら、犯人は学生そのものの方がインパクトもあって面白いですよね。不謹慎だけど。

 いや~、ちゃんと映像化された本作も観たかったなぁ! 非常に惜しい、不遇の一作でありました。


File.5、『サーカス殺人事件』( Roar of the Crowd)ハワード=バーク 訳・小鷹信光 2003年4月25日刊
 ≪犯人の職業≫    …… サーカスの綱渡り師
 ≪被害者の職業≫   …… サーカスの団長
 ≪犯行トリックの種類≫…… 電波通信による遠隔殺人
・1975年12月(第5シーズンの放送時期)に執筆された没シナリオの小説化作品。ただし、作中で「1967年」のサーカス団結成を「30年以上前のこと」と示唆しているセリフがあるため、物語の時代設定は日本語版刊行時の2000年代初頭に改変されていると思われる。
・映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)と第36話『魔術師の幻想』(1976年2月放送 第5シーズン)に登場したコロンボ警部の部下フレデリック=ウィルソン刑事が、『13秒の罠』に続いて登場する。ただし、名前が「ケイシー=ウィルソン」となっている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ウィルソン刑事の他にコロンボの飼い犬「ドッグ」が登場する。
・本作の冒頭で、コロンボは甥のマイク(10歳)とトム(8歳)を連れてガーニイ・サーカスの興行を観に行く。ただし、映像版のルールにのっとってマイクとトムは登場しない。
・本作が翻訳出版された時期は、映像化新作の放送は無かった(翌2004年に最終第69話が WOWWOWにて吹き替え放送された)。
・本作は、二見書房文庫から出版されたノヴェライズ版『刑事コロンボ』シリーズで最後に出版された作品となる。

あらすじ
 非番の日に、甥たちと連れ立ってサーカス見物に行ったコロンボ警部。その上演中、サーカスの団長がキャンピングカーの中で変死を遂げた。一座のスターである綱渡り師が密かに仕掛けた空中の殺人トリックとは? 猛獣使いとピエロの証言をもとに、コロンボは密室の謎に挑む。


 本作は1970年代に原型となるシナリオが執筆された作品なのですが、同様に小鷹信光さんが翻訳小説化した File.1、2と同様に、日本で出版された時期に時代設定が変更されています。そして何を隠そう本作は、長らく『刑事コロンボ』のノベライズを手がけてきた二見書房文庫からリリースされた最後のタイトルということになります。まぁ、アメリカ本国で最終第69話が放送された時期でもありますので、それに歩調を合わせた花道的な作品ということになりますでしょうか。
 そして、そういう事情も込みで読んでみますと、本作は全国巡業するサーカス団という、時代の移り変わりとともに衰微し消えゆこうとしている娯楽業界を舞台にしていることもあいまって、何とも言いようのない哀愁を漂わせた独特な作品となっているのです。またこれが、ピーター=フォークというジャストフィットすぎる肉体を得てしまったがために、彼の人生と共に終焉を迎える運命を選んでしまった TVドラマ『刑事コロンボ』シリーズと、なんとなくオーバーラップするような気がするんですよね。もちろん、フォークから離れた形で2010年代以降に新たなる『刑事コロンボ』を再スタートさせることも不可能ではないのでしょうが(小説という形での新作もしかり)……前にも言いましたが、少なくとも今現在の私は、フォークでない外見を持った刑事コロンボの活躍は想像がつきません。

 ただし、かといって本作の中でのコロンボが、ノベライズシリーズの最終作らしく何かしらの衰えを感じさせるような描写を見せているのかというと、決してそんなことはなく、いつも通りのコロンボと言いますか、むしろ TVシリーズ伝統のパターンで「物語にいっさいからんでこないコロンボの親戚」が登場したり、サーカス団のトラ4頭に囲まれてピンチに陥ったり、さらに終盤の謎解き場面では、なんと自ら身体を張ってピエロに変装して綱渡り用の高所に登ったりと、サービス満点の大活躍を見せてくれます。

 だいたいにして、「サーカス団興行の最中に発生する不可能犯罪」というテーマが非常に個性豊かなので、これもまた、どうして没になったのかがわからない魅力的な題材のようでもあるのですが、実際に読んでみると、このエピソードの場合はメイントリックに関して「荒唐無稽すぎる」というケチがついたのではないか、という予想が容易に立ちます。
 倒叙ものとは言えミステリ作品なので、ここでメイントリックに関して詳細を語ることは控えさせていただくのですが、本作のそれは、なんちゅうかその……機械トリックの種類に入るものなのですが、読んで真っ先に「そんなに、うまくいく!?」と疑問符がついてしまうものなのです。

 ギリギリの範囲で言わせていただきますと、ほら、よくカセットコンロで使うガスボンベってあるじゃないですか、あのスプレー缶みたいな形のやつね。ああいうのを、ちょっと想像してみてください。

 みなさん、あれの噴射口に取り付けるだけで、人間の手を使わずにガスを噴射させてくれる「マッチ箱大の装置」って、ありうると思います?

 私、プライベートでも仕事でも、よくガスボンベを廃棄することがあるのですが、あれって中のガスをちゃんと全部出し切るためにいろいろ作業が必要でしょ。それをやってみるとよくわかるのですが、少なくとも日本で流通しているそういったスプレー缶って、噴射するためにはそうとうな力をかけて噴射口を押す必要があるんですよ。子どもの指の力だとけっこう難しいですよね。
 あの力を、マッチ箱大の機械ごときで出せるのか……? それ、1970年代にしたって2000年代にしたって、いっぱしのミステリ作品のメイントリックの中心に据えていいような、現実味のあるものなのかな!?

 そうは言いましても、それが無いと話が進まないので「いいから、そういう装置があるの!」といった強引な語り口で押し切られていくわけなのですが、そんな平賀源内の発明品みたいな「ツッコまないでくださいお願いします!!」的な魔法のアイテムを出すのって、私としてはにんともかんとも得心がゆかないものが残ってしまうのです。安易に「バカミス」という言葉は使いたくないのですが、そこを受け流すとなんでもアリになっちゃうと思うんだよなぁ。おそらくは、1970年代の制作スタッフの間でも、そういう常識的な判断が働いたのではないでしょうか。

 なんと言っても、見た目が非常に華やかなサーカス団を舞台としたエピソードで、しかも犯人が専門分野とする綱渡りの演目がさまざまな角度から重要なキーワードとなってくる本作ではあるのですが、やはりその中核に位置するメイントリックにおいて、まるで SFの産物のような異物が混入してしまったことが、映像化を考える時に最後まで引っかかり続ける致命傷となっているような気がしました。いろいろ惜しいんだけどなぁ!

 あと、本作に関してもう一つ気になってしまうのは、前回の File.1のゴルフ関係の交換殺人のエピソードでも触れましたが、実質的には犯人に殺人という極悪非道な選択肢をえらばせた張本人でありながらも、出すのは口ばっかりで自らの手を汚すことがないために、法の番人であるコロンボ警部ではどうしても裁くことのできない「真の悪人」が存在感たっぷりに描かれて、最後までのうのうと暮らしているという点です。そこはなんにも解決しなくていいの!? というモヤモヤ感が残ってしまうんですよね……でも、それが確かに現実の社会ではあるんですけれどもね。
 団員もどんどん高齢化し、世間にサーカス以上に手軽に楽しめる娯楽コンテンツが氾濫している今現在を生き抜いていくために、自分たちのサーカス団をどう変えていけばいいのか。本作の犯人も被害者も、その間にいる犯人の恋人も、同じ問題について日夜真剣に悩みながらも、考え方が違っていたことで殺人という目も当てられない悲劇が発生してしまうわけなのですが、その内輪もめを遠巻きに扇動しておいてなんにもお咎めなしな人物がいるというのは……天下無双の娯楽ドラマ『刑事コロンボ』として一体ど~なのよ!という気はしちゃうんですよね。

 ただ、『刑事コロンボ』の中にそういうビターな要素を入れているのは、アメリカ本国にいるシナリオやオリジナル小説の作者というよりも、File.1、2、5を翻訳(超訳?)している小鷹信光さんなんじゃないかという気もするんですけどね……訳のクセがすごい!!
 「滅びゆくサーカス団の人々」というところにスポットライトを当て、ディティールを掘り下げる着眼点は素晴らしいとは思うのですが、わざわざ『刑事コロンボ』でやらなくても……という気はします。サーカスというパッケージこそ派手ではあるのですが、ある集団の中で古い力と新しい力とが衝突するという構図は、けっこうあるあるなパターンですよね。


 さぁさぁ、こうして今回は『刑事コロンボ』未映像化小説八部衆のうちの File.3~5を扱ってみたわけなのですが、結局、一部分の展開(コロンボの大学講演)が映像化作品に使いまわされてしまった File.4以外の作品は、それぞれちゃんと映像化されなかっただけの「理由」はある、ということがよくわかりました。File.4の鮮やかな推理、映像で観たかった~!

 八部衆のうち、残すは3作品となりましたが、果たして今までの作品を上回る面白さをみせてくれるエピソードはあるのでありましょうか!?
 遅れに遅れている『刑事コロンボ』感想文企画、おそらく次回、最終回!

 遅すぎるわ……待ってる担任の先生も、退職して実家でさといも農家はじめちゃうぞ!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おとぉこぉと、おんんなぁの、あいぃだぁにはぁあ ~映画『悪魔のような女』~

2024年09月22日 09時58分19秒 | ミステリーまわり
 うぇえ~へっへっへっ、どうもこんにちは! そうだいでございます。
 最近、私の住む山形もやっと朝夕が涼しくなってきたような気がします。秋ももうすぐですね~。
 ちょっと紅葉のタイミングからはズレてしまうのですが、個人的に今年一番のビッグイベントと目している、「山形~山梨間を車で往復1泊3日の旅」の日程が、もうすぐ先の10月あたまに近づいてまいりました。ほんと、個人的な話ですんません!
 いや、何が今年一番なのかってあーた、「死ぬ確率が今年一番」なんですよね……片道500km 。せめて、よそさまには迷惑をかけずに楽しんできたいものでございますが。
 この旅程自体は昨年の初夏に始めたもので、前回は山梨県北西部の北杜市を中心にめぐって増富ラジウム温泉というものすんごい秘湯につかってきたのですが、それで味を占めてしまいまして、できたら毎年行きたいなという運びになって。今年はちょっとズレて南アルプス市と韮崎市をメインにさまようつもりです。最大のお目当ては武田勝頼肝いりの要塞・新府城跡の散策かな!?
 ま、とにもかくにも、旅の最中もその前後も、健康・安全第一でまいりたいものでございます。この秋は観たい映画やドラマも山ほどあるしね! いや~、まだまだ死ねませんな☆

 そんなこんなで今回のお題なのでございますが、ちょっと最近の作品ではなくて昔の映画になってしまうのですが、ミステリーやスリラーの好きな方だったら観ないと絶対に損をするゾという、世界映画史上に残る大傑作についてをば。


映画『悪魔のような女』(1955年1月 114分 フランス)
 『悪魔のような女』(原題:Les Diaboliques)は、フランスのサイコスリラー映画。フランスの共作推理小説家ボワロー&ナルスジャックのサスペンス小説『 Celle qui n'était plus』(1952年発表)を原作とするが、登場人物の設定が全く違うものとなっている。
 本作は、アメリカで1996年3月に主演シャロン=ストーン、イザベル=アジャーニでリメイク映画が制作された。
 また日本でも、設定を現代日本にアレンジしたリメイクドラマが2005年3月5日にテレビ朝日系列『土曜ワイド劇場』枠内にて放送された。監督・脚本は落合正幸、主演は浅野ゆう子、菅野美穂、仲村トオル。

あらすじ
 パリ郊外の私立小学校デュラサール学園を運営するミシェルは、病弱な妻クリスティーナがありながら部下の女教師ニコールと愛人関係にあった。粗暴なミシェルに我慢が出来なくなったニコールとクリスティーナは結託し、ミシェルを殺害して校内のプールに沈める計画を決行する。その後、やむをえずプールの水を抜いた時、沈めたはずのミシェルが消えていた。それから2人の周囲には、ミシェルがあたかも生きているかのような現象が次々と発生し、ついにはミシェルの不在に疑問をいだいた警察の捜査介入を招いてしまう。

おもなスタッフ
監督・製作 …… アンリジョルジュ=クルーゾー(47歳)
脚本 …… ジェローム=ジェロミニ(?歳)、アンリジョルジュ=クルーゾー
音楽 …… ジョルジュ=ヴァン・パリス(52歳)
撮影 …… アルマン=ティラール(55歳)
編集 …… マドレーヌ=ギユ(41歳)

おもなキャスティング
ニコール=オネール      …… シモーヌ=シニョレ(33歳)
クリスティーナ=デュラサール …… ヴェラ=クルーゾー(41歳)
ミシェル=デュラサール校長  …… ポール=ムーリス(42歳)
私立探偵のフィシェ      …… シャルル=ヴァネル(62歳)
ドラン先生          …… ピエール=ラルケ(70歳)
レイモン先生         …… ミシェル=セロー(27歳)
用務員のプランティヴォー   …… ジャン=ブロシャール(61歳)
エルボウ夫人         …… テレーズ=ドーニー(63歳)
エルボウ氏          …… ノエル=ロクヴェール(62歳)
ガソリンスタンドの給油係   …… ロベール=ダーバン(51歳)


 ほんと、なんで今、この映画なの!? いやいや、面白い映画はいつ観たっていいんですよ。
 ご存じの通り、本作のメガホンを執ったクルーゾー監督はフランス映画界において「サスペンス・スリラー映画の巨匠」と讃えられる天才監督で、当然ながらほぼ同時代にイギリスとハリウッドでブイブイ言わせていた「サスペンス・スリラーの神様」ことアルフレッド=ヒッチコック監督としのぎを削る存在となっていた方でした。実年齢的にもキャリア的にもクルーゾー監督はヒッチコック監督よりも後輩なのですが(8歳年下で監督デビューも12年あと)、『恐怖の報酬』(1953年)と本作『悪魔のような女』を撮ったという時点で、ヒッチコック監督に十二分に伍する才覚を持った映画監督であることは間違いないでしょう。クルーゾー監督が生涯で完成させた長編フィクション映画は11作ということで、さすがにヒッチコック監督に比べたら寡作ではあるのですが、フランスから遠く離れたジャポンに住む私達も、少なくとも上に挙げた2作は必ず観ておいたほうが良いのではないでしょうか。『恐怖の報酬』なんか、あらすじ1~2行で充分だもんね! セリフすら必要のないサスペンス超特化型エンタテインメントです!! でも、私はやっぱりクルーゾー監督のオリジナル版よりも、死のかほりが濃厚にただよう1977年リメイク版(監督ウィリアム=フリードキン!)のほうが好きかなぁ。

 ちなみに、クルーゾー監督がこの『悪魔のような女』を世に問うた1955年前後にいっぽうのヒッチコック監督はハリウッドでどういった作品を撮っていたのかといいますと、『ダイヤルM を廻せ!』(1954年5月公開)、『裏窓』(同年8月)、『泥棒成金』(1955年8月)、『ハリーの災難』(同年10月)という天下無敵のキラキラマリオ状態でありました。え、2~3ヶ月のスパンで新作出してたの!? ジャンプコミックスじゃないんだから。

 ……まぁ、この時期のヒッチコック監督とは比較するだけムダという感じなのでスルーしますが、それでもクルーゾー監督の『悪魔のような女』は、荒唐無稽でファンタジックですらあるヒッチコックワールドではついぞ描写が避けられていたような「男と女のじめっとした関係」を、これでもかというほどにバッチリとフィルムに収めた、唯一無二の黒々とした輝きを放っています。ヒッチコックが陽ならばクルーゾーは陰、ヒッチコックがヒマワリならばクルーゾーは月見草ときたもんだ! まさに、この『悪魔のような女』がモノクロ作品であることには意味があるのです。この物語に、色彩は必要ない。必要なのは、夜の闇の深さなのだ……


 ここで、映画の内容にいく前に、本作の原作とされるボワロー&ナルスジャックのサスペンス小説『 Celle qui n'était plus』について触れておきましょう。
 この小説は、映画公開の3年前に発表された作品なのですが、日本で翻訳されたときは映画がすでに公開されていたので、映画のタイトル『 Les Diaboliques』の直訳である『悪魔のような女』がそのまんま、小説の邦訳タイトルに逆輸入されています(現在でもハヤカワ文庫版が手に入りやすい)。ただし、もともとの小説のタイトルは日本語訳すると「いなくなった人」という意味になるので、映画版で言うと殺したはずのミシェル校長の死体が学校のプールから消えてしまった謎のことを指しているようですね。

 そして、これは言わずにはおられない事実なのですが、小説版と映画版とでは、その内容がビックリするくらいに別のものとなっているのです。これはねぇ、後発の映画版がかなり大胆に小説をアレンジしちゃった、って感じですよね。そして、それが結果的に大成功している!

 具体的に言いますと、小説版は映画版と同じく「三角関係にある人間のうちの2人が共謀してもう1人を殺すが、殺したはずの死体が消える」という展開と、その真相だけが共通しているのですが、それ以外は人物設定から何から、全てがまるで別のお話となっています。
 すなはち、映画版では女性2人が共謀して男性を殺そうとするのですが、小説版は男と女(愛人のほう)が共謀して正妻の女性を殺そうとする発端となります。小説版ではなんと、ミシェル校長にあたる男性が主人公なんですね!
 その他にも小説版は、「男はセールスマンで正妻は専業主婦、愛人は女医」だったり、「夫婦はパリ近郊の都市アンギャン=レ=バン在住で、愛人の女医はフランス北西部の都市ナント在住(両都市間の距離は約350km )」だったり、「映画の終幕直前の展開(探偵と生徒のくだり)がない」といった大きな違いが目白押しとなっています。あと、ご丁寧に登場人物の名前もぜ~んぶ違いますね。ざっと見ると夫ミシェル→フェルナン、正妻クリスティーナ→ミレイユ、愛人ニコール→リュシエーヌ、探偵のフィシェ→メルランといった感じで、だいたい夫と正妻の役割が逆転している以外はキャラクターはほぼ同じなのですが、全員名前が変わっています。その他、映画版でいい味を出していた学園の先生方は学園ごと登場せず、その代わりに正妻ミレイユの兄夫婦が登場します。

 小説版の内容を見ていきますと、主人公であり主犯でもある男性の犯行動機は単純な「愛人への執着&嫉妬深い正妻への嫌悪」となっており、映画版に比べるといささかありきたりで凡庸な印象になっています。当然、男性が正妻に「おびえつつ」殺そうとするという力関係も発生していません。

 かいつまんで申しますと、映画の原作となった小説『 Celle qui n'était plus』は、かなり読みやすくあっさりとした味わいの犯罪小説だったのです。ただし、港に濃密にたちこめる夜霧の描写や、正妻の死体が消えてしまったことで疑心暗鬼に陥り精神がゴリゴリに削られてゆく男性の心理描写は非常に読者を引き込むものがあり、決して単なるイロモノ小説とはあなどれない雰囲気に満ちています。
 完全な余談なのですが、私、この小説をハヤカワ文庫版(1996年のイザベル=アジャーニ版が表紙のやつ)で読んだんですが、何にびっくりしたって、小説の内容よりも小説家の皆川博子先生の解説にビックラこいちゃいましたよ。小説の内容にほとんど触れてないんだもの! 先生、小説読んだ!? それどころか、クルーゾー監督の作品でもないフランス映画『しのび泣き』(1945年 監督ジャン=ドラノワ)の話で盛り上がっちゃってるし……先生、ご機嫌ななめですね~!!


 さて、いよいよ話を本題の映画版の方に向けていきたいのですが、以上のような、タイトル通りに「消えた死体の謎」に焦点を絞って可能な限りシンプルな構成に徹していた小説版と比較してみますと、本作がいかに苦心して物語を「よりリアルでより陰湿なもの」にブラッシュアップし、なおかつサスペンス・スリラー映画として見どころたっぷりな作品に仕上げようとしていたのかがよくわかります。ほんと、創意工夫の見本市みたいな総リニューアルっぷり! でも、お話の骨格「三角関係と消えた死体」だけには全く手を加えずに肉付けだけを変えてるんですよね。だから小説版と映画版は、どこまでいっても双生児のように同じ「夜の闇のかおり」をはなっているのです。粋だね~! このへん、ホントに自分のやりたいように強引にアレンジしまくっちゃいがちなヒッチコック監督とは手つきがまるで違いますよね。おフランス~♡

 映画版の変更点として見逃せないのは、やはり「主人公が正妻」になり、「三人とも同じ職場にいる」という2点でしょう。修羅場だ! 小説版はなにかと配慮して350km もの物理的な距離さえ作っていたのに、映画版は思いッきり近づけて一つ屋根の下にしちゃったよ!! 修羅場、ら~らばんば♪

 このアレンジは強烈だ……しかも、監督のマジの正妻のヴェラ=クルーゾーさんが主人公の正妻を演じてるんですから、ここにリアルすぎる三角関係のギスギスが発生しないわけがないのです。クルーゾー監督は、ノンフィクション映画のつもりでこの映画を撮ってるのか!?

 具体的な人間関係を見ていきますと、映画版の主人公の正妻クリスティーナは夫ミシェルが校長を務める寄宿制の私立学園の教師なのですが、もともと学園を立ち上げる資金を持っていたのはクリスティーナの実家だったようで、校長としての権力をかさに学園を私物化するミシェルに対して彼女は強い反感を持っており、夫婦としての倦怠期も相まってかなり冷え冷えとした関係になっています。教育の現場はクリスティーナらに任せてミシェルは何をしているかというと、腐りかけの食材を安く買いあさって給食に使わせたりする強引な経営を推し進めているために、生徒や教師陣の不満はたらたらで、もっとひどいのは教師の一人であるニコールと、周囲にもほぼバレバレの不倫関係を続けていることです。これは当然のように、同じ現場で働いている妻のクリスティーナも知っている事実なのですが、ニコールもニコールでミシェルにはすでに飽きているという頭打ち感になっていて、本来憎らしい同士であるはずのクリスティーナとニコールが互いに「あいつほんとサイテーよね……」と慰め合っている始末です。教育の現場にふさわしくねぇ~!!
 さらにミシェルは、まるで周囲に見せつけるかのように妻クリスティーナに対する暴力、パワハラ、モラハラを日常的に繰り返しており、ニコールとの不倫も、もしかしたらニコールへの愛というよりはクリスティーナへの嫌がらせが第一の目的なのではないかと思われるふしがあるほどです。

 こういう、ただれにただれまくった三角関係を見ていますと、なんでこんなサイテー男にクリスティーナはさっさと見切りをつけないんだ、家庭の財布を握っているのはクリスティーナ(の実家)なんだし、別れたって困ることもないじゃないかと思ってしまうのですが、ここが原作小説には無かった映画版のすごいところで、もはやクリスティーナとミシェルが、好いた腫れたや金の切れ目どうこう程度では離れられない「共依存」の関係になっていることが、映画を見ているとじわじわ伝わってくるのです。もう理屈じゃないの! これぞ、リアルすぎる男と女の関係……
 すなはち、ほぼ常に暴れまくっているミシェルではあるのですが、9割がたクリスティーナやニコールに対して粗野で愛情のかけらもない態度を取り続けていながらも、残りの1割で唐突に、「お前が嫌いなわけないじゃないか……わかってるだろう?」みたいな猫なで声で肩に手をかけたりしてくる時もあるのです。
 これよ! この、憎ったらしいまでに狡猾なアメとムチ!! これにクリスティーナは完全に洗脳されてしまっているのです。さすがにニコールにその手は通じないのですが、客観的に見れば明らかにミシェルの思うつぼであるしらじらしい素振りに、ひとりクリスティーナだけはだまされ続けているわけなのですね。

 これは、こわいですね……この映画の場合は男女の愛憎関係という話ですが、こういう心理的な支配と隷属の力関係って、世の中にはどこにでも転がっている風景なのではないでしょうか。学校、職場、家庭……性別も年代差も関係なく、この映画版におけるクリスティーナの苦しみは、21世紀の今現在でも全く消えていない日常的な「よくあること」なのです。映画から半世紀以上経っているのに全然改善していない……クルーゾー監督がオリジナルで盛り込んだエグすぎる要素は、いささかもその鋭さを劣化させずに観る者に突き刺さってくるのです。こわ~!!

 映画『悪魔のような女』は、短く言えば「非常に怖い映画」です。しかしよくよく見てみると、その怖さはいくつもの違った種類の恐怖が集合しているものであることがよくわかります。
 そもそもの原作小説の怖さというものは、その原題が示す通りに「殺したはずの人がいなくなった」というもの一つに絞られており、それが「殺人がバレて逮捕されるのではないか」という怖さから、徐々に「殺したはずの人が生きている!?」という別の恐怖へと変容していく様子が丁寧に描かれていくのでした。
 それに対して映画版は、物語の中核にその恐怖を据えることは変わらないながらも、クリスティーナとニコールによるミシェル殺害計画決行の前段には、ミシェルによるクリスティーナの精神支配という「人間関係の怖さ」をしっかりと描き切っているのです。つまり、映画なの流れで言うと怖さの種類は「人怖(ひとこわ)サスペンス→犯罪サスペンス→心霊ホラーサスペンス」へとぐんぐん変容していくわけなのです。そして、そのどれもがちゃんと全力投球で怖く、ハラハラドキドキする! こういうねちっこくてこだわり抜いた構成は、あのヒッチコック作品でもなかなかない精密さなのではないでしょうか。う~ん、さすがおフランス!!

 そして、この「怖さの種類のめまぐるしいジェットコースター」は、これ以上はネタバレになるので申し上げにくくなるのですが、死んだはずのミシェルの影がクリスティーナに迫る!?という映画版のクライマックスの後のわずか数分間で、また猫の目のようにコロッコロ変わっていくのです! ここも原作小説では「1回」のどんでん返しがあって終わるのですが、映画版では私の数え方で言うと「3回」驚きの展開があって、最後に有名な「この結末は誰にも言わないでください。」というテロップが流れて終幕となるのです。え、どれ? どの結末を言っちゃいけないの!?

 いや~、この、イヤすぎるサービス精神の旺盛さね。クルーゾー監督は本当にやらしいお人ですよ! 映画を通して、観る人全員の感情を手玉にとる……やはりクリスティーナを演じたヴェラさんの夫でもあったクルーゾー監督は、ある意味でクリスティーナの夫であるミシェルと同等かそれ以上に狡知に長けた異能の人だったのでしょう。

 やらしいと言うのならば、まず三角関係の人物全員を「一つ屋根の下」に集合させて、しかもその場が「青少年の教育の場」であるという不謹慎きわまりないシチュエーションを考えつくのがやらしいし、ミシェルのハラスメントの不必要なまでの引き出しの多さも、やらしいことは間違いありません。
 でも、もっとやらしいのは、あの大傑作『恐怖の報酬』のごとく、ただでさえ心臓が弱いと言っているクリスティーナを痛めつけるように配置されていく「犯罪がバレるかも知れない」ハラハラ障害のラッシュですよね。あんなもんほぼ全部、原作小説になんかありません!

 ニコールの部屋のバスタブに水が貯められる時刻を正確に記録する同じアパートの住人とか、ミシェルが入ったつづらを入れたトラックの荷台に入ろうとする酔っ払いとか、ミシェルが着ていた背広がなぜかクリーニング店に出されている謎とか、もう観客の心臓にも悪い演出のオンパレードですよね。ミシェルの寝室に調査に来た探偵のフィシェがなにげなく扉を閉めると……のところなんか、別に幽霊とかモンスターがそこにいるわけでもないのに、閉めた時に見えるアレにビクッとしちゃうんだよなぁ! 怖いっすよ!!

 ただ、何といっても一番やらしいのは、ミシェルを沈めたプールがクリスティーナの授業している教室から丸見えってところなんですよね~!! これは嫌だ!!
 生徒が遊び時間中に投げたボールが入ってもビクッ! 用務員のおじさんが浮かんでいる枯れ葉を拾ってもビクッ! ニコールが投げた鍵が落ちてもビクッ! いやこれ、絶対捨てる場所間違ってるって~!! クリスティーナ、やる前に「プールはダメでしょ……」ってちゃんと言わないと!
 いやホント、この映画って最初っから最後までこんな調子で、「観客をハラハラドキドキさせるネタがあればガンガン投入していこうぜ」というアグレッシブスタイルなのです。この引き出しの充実っぷりがすごい! 映画というよりも、もはやお化け屋敷を楽しんでいる感覚に近いサービスっぷりですよね。

 ただ、ここまで言うとなんだかクルーゾー監督のアイデアだけがこの映画の見どころであるかのように感じられるかもしれないのですが、やはり本作は、その演出意図をしっかり受けとめて見事に演じきる俳優さん方がいて初めて実現するものなのです。
 この映画に登場する俳優さんは、小学校の生徒を演じる子役たちにいたるまで全員達者なのですが、やはり特にと言うのならば、クリスティーナを演じるヴェラさんと憎々しいミシェルを演じるポール=ムーリス、そして、いぶし銀の存在感でいいところをかっさらっていく探偵フィシェ役のシャルル=ヴァネルの3人が素晴らしいと思います。フィシェって、よれよれのコートを着て常に猫背というパッとしない外見だけを見るとあきらかに「刑事コロンボ」の大先輩とも言うべき人物なのですが、ダーティながらも抜けたところが全然ない眼光の鋭さが常にあるので、コロンボ的な愛されキャラではないですよね。
 ムーリスもまぁ……外ヅラだけはフランス人みが強くなった高田純次さんにしか見えないのですが、やることなすことほんとに最低で。でも、序盤での「こいつは殺されても当然かな」と観客に感じさせる素行の数々もまた、クルーゾー監督が仕掛けた無数のトラップの中のひとつなんですよね~!! 本当にこの映画は114分間、頭からしっぽの先まで無駄なところが一瞬たりとも、無い。

 あと、俳優さんの魅力と言うのならば、クライマックスとなる深夜の小学校の場面で、灯りの点いたミシェルの部屋にこわごわ近寄るクリスティーナを演じるヴェラさんの肌が恐怖のあまり汗びっしょりになってネグリジェが透けるぐらいになっている様子が、可哀そうでありながらも同時に非常にセクシーだというところも、見逃すわけにはまいりません。興奮するとかいう方向性ではないのですが、他人が追い詰められるさまを観てドキッとしてしまう背徳感がものすごいショットだと思います。これを計算して撮影してるからね……しかも、実の嫁にやらせてるという! こういうところ、仕事(映画)とプライベートをしっかり分けようとしている(けど公私混同もある)ヒッチコック監督にはできない芸当だと思います。クルーゾー監督こわすぎ!!


 とまぁこんな感じで、この映画『悪魔のような女』はほんと、すごいと思うところを数え上げたらキリがない大傑作であるわけなのですが、本ブログの常で字数もいい加減にかさんでまいりましたので、最後に、ホラー映画が大好きな私としては絶対に無視することのできない「最後の最後のどんでん返し」に触れておしまいにしたいと思います。

 いやこれ、言うのはやめてネと、先ほども申した通りにクルーゾー監督からじきじきに字幕で止められているので具体的な説明は控えるのですが、「え! そこまで来ておいて、最後にそのオチ!?」と唖然としてしまうくらいの大転換がくるんですよね。本編終了の数秒前に映画のジャンルが変わっちゃうんだもん、そりゃビックラこきますよね。
 いや~、この豪胆さよ。でも、ここでの「しょっちゅう罰を受けさせられるダメ生徒」の発言のくだりは伏線として張られてるんですよね。うまいんだよな~! 全然唐突な感じはしない、「やられた!」みたいなフィニッシュなんですよ。

 あと、デジタル撮影全盛となった2020年代ではほぼ死滅した文化といっても良い、薄らぼんやりとした荒い画像の中に「なにか」が見える心霊写真の恐怖を取り入れた「集合写真」のくだりも、またいいですよね。忍びよる幽霊の恐怖とはまた違った、当時最新モードの恐怖も盛り込んでいる貪欲さは、さすがはファッションの本場おフランスの映画といった感じでしょうか。導入に迷いがない!


 私、個人的なことになるのですが、この映画を見ると必ず思い出すのが高校時代のエピソードでして、当時ものすごく怖がりな友達と一緒に夜道を帰っている時に私が、灯りの消えたビルに50個くらい並んでいる窓のどこかを指さして「あっ。」と言っただけで、その子がギャー!!と叫んで私をバンッバン殴ってきたものでした。

 そうなんですよ、この映画、やっぱりモノクロで撮影される古い校舎という舞台設定からして怖くて、そこもまた、クルーゾー監督は見逃さずに最後の最後にひろって、ふつうに並んでいる窓さえもが勝手に怖く見えてくる魔法をかけておしまいにしてしまうのです。

 ほんと、お金なんか大してかけなくても、アイデアと演出の腕だけでむちゃくちゃ怖い映画は、いくらでも作れるのよねぇ。人間の想像力は無限大なんだから、作り手も、見る側も。男も女も!

 いや~何度見てもすごい映画だ。でも、クルーゾー監督みたいなお人がプライベートで近くにいるのは、カンベンかな~!?

 あいだに深くて暗い河があるくらいの距離で、お願いしま~っす!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

超ニッチ企画!! 『刑事コロンボ』幻の未映像化事件簿をよむ ~だいぶ遅れた読書感想文その1~

2024年09月10日 20時52分02秒 | ミステリーまわり
『刑事コロンボ』オリジナル小説作品の事件簿!! 各事件をくわしく解析
 ※TVドラマシリーズ『刑事コロンボ』の概要は、こちら

 と、いうわけでありまして、『刑事コロンボ』のお話でございます。

 今まで我が『長岡京エイリアン』では、さんざんっぱらミステリー作品が大好きということを言ってきたのですが、たぶん『刑事コロンボ』について触れたことはあまりなかったのではないでしょうか。
 確かに、私は「『刑事コロンボ』全話観ました!」という程のファンでもありませんので完全なる門外漢なのですが、いちおう1980年代の日本に生まれた人間である以上、コロンボ警部といえばだいたいああいう感じの「能ある鷹は爪を隠す」系の名探偵キャラだな、ということは存じ上げておりました。ただ、私がもっぱらリアルタイムで視聴できたのは『金曜ロードショー』枠内での『新・刑事コロンボ』だったんですよね。もう、石田太郎さん以外に声をアテてた人なんていたの?みたいな感じで。

 思い起こせば、私がビデオで録画してコロンボ警部の事件簿を追っていたのは、第49話『迷子の兵隊』から第58話『影なき殺人者』までの2、3年ほどでした(日本での吹き替え放送は1993~95年)。

 当時はブラウン管の世界(死語)でも明智小五郎や金田一耕助がまだ定期的に活躍していた時代で、マンガの世界でも金田一少年やコナン君が名を挙げていた時期でした。アニメ化はもうちょっと後のはず。いちいち挙げませんが、ミステリー小説界もそりゃもう大にぎわいでしたよね~。
 そんなミステリージャンルの中でも、「のっけから犯人がわかっちゃってる」という倒叙ものミステリーの代名詞的存在だった『刑事コロンボ』は、ひときわ異彩を放つ存在だったわけです。
 ただ、たぶん『刑事コロンボ』が大好きな方が上の視聴歴をご覧になったら「あぁ……そうね。」とご納得なされるかも知れないのですが、私はもうとにかく第58話『影なき殺人者』のメイントリックが衝撃的すぎて、そのショックのあまり、以降の視聴をぱったりやめてしまったのでした。
 いや、ひどくないですか、あれ!? 金田一少年でも却下するでしょ、あんなの! 実現可能か不可能かとかいう以前に、地球最高の知能を持つと自認する霊長類として50年前後生きてきたプライドを持つはずの人間が、果たして自分の人生を賭けた一大トリックにあんな手段を選択するのかって話なんですよ。それを真剣に実行してる犯人の絵づらがバカすぎる! 私が法廷であの経緯を全世界に言いふらされたら、情けなさすぎてその場で憤死しちゃうよ!!

 まぁ、こんな衝撃体験もありましたし、ちょうどそのころ日本で同じ倒叙ものの『古畑任三郎』シリーズの放送も始まったので(1994年4月~)、『刑事コロンボ』とはかなり疎遠な時期が長らく続いていたのでした。

 そして時は流れて2020年代。NHK BSプレミアム(当時)で2021年から再放送していた『刑事コロンボ』を、小池朝雄さんの旧シリーズからやっと視聴することができたのですが、これがあーた、んまぁ~面白い面白い!! さすがに全話残さずチェックとまではいかなかったのですが、これが伝説の真価なのかと楽しませていただいておりました。当時は『シャーロック・ホームズの冒険』も『名探偵ポワロ』も楽しめたわけで、もう BSプレミアムはまさしくプレミアムなチャンネルとなっておりました。『ウルトラセブン』の4K 版もやってましたよね? もう最高。
 さらに、ちょうどそのころ私が書店をほっつき歩いていましたら、『別冊宝島 刑事コロンボ完全捜査記録』(編集・町田暁雄)というものすごいガイドブックを見つけてしまいまして、伝統シリーズの悠久の歴史と重層的な魅力、そして何よりも、このシリーズを愛する日本人ファンの熱量の高さに瞠目してしまったのでした。さすがは1960年代から続いた長期シリーズ、ファンも全話を調査し尽くす執念と、ダメエピソードも差別せず愛する度量の広さのレベルが違うゼ!!

 まぁとにもかくにも、2020年代になってやっと『刑事コロンボ』シリーズの醍醐味を知るという、あまりにも遅すぎる出逢いではあったのですが、このシリーズの素晴らしさ、世界ミステリー史上に残る偉大なる足跡を、少しでもこの『長岡京エイリアン』で紹介させていただきたいと思いはしたのですが、1時間以上あるエピソードが70本近くありますし、だいたい、映像化された各エピソードの魅力を語っているブログ記事や解説動画なんてすでに山ほどありますので、今さら最近ポッと出で好きになった私がどうこう口をはさめる状況でもないのよね……
 ちなみに、映像化されたコロンボ警部の事件簿で私が好きなエピソード1位は、第8話『死の方程式』(第1シーズン)です。2位は第15話『溶ける糸』(第2シーズン)で、3位は第51話『だまされたコロンボ』(第9シーズン)でしょうか。ロディ=マクドウォールいいよな~。

 ですので我が『長岡京エイリアン』では、この広大なるネット宇宙の隅っこに這いつくばるゼニゴケのような超零細ブログのこの身にふさわしく、長い『刑事コロンボ』の歴史の中で「映像化されなかった」事件簿だけをさらってみようという、一体どこの誰が喜ぶのか見当もつかないひねくれ企画にいたしました。う~ん、これぞ個人ブログ!!

 そこで注目したのが、日本では主に二見書房文庫から1980~2000年代に発刊されていたノヴェライズ版『刑事コロンボ』シリーズのうち映像化されなかったエピソード、すなはちアメリカ本国で発刊された「オリジナル小説」の翻訳か、もしくは TVシリーズで映像化するために作成されたものの、諸事情により没になってしまった「シナリオ or シノプシス(シナリオ化の前段階であらすじと要点をまとめたもの)」を日本で小説化した作品、このいずれかとなります。

 なつかしいな~、二見書房文庫版! 私ももちろん、1990年代に買って読んでました。
 読んだ中には、買った当初は「未映像化事件!」というふれこみだったのに、発刊された後になって第54話『華麗なる罠』として映像化された『カリブ海殺人事件』なんていう作品もありました。第8シーズン以降の『新・刑事コロンボ』時代のシナリオ不足問題は深刻だったようですからね……

 今回、私が読むことができた未映像化小説は全部で「8エピソード」あったのですが、これはあくまでも日本で小説の形になった作品の数でありまして、これ以外にも邦訳されていないオリジナル小説(例:『 COLUMBO and the SAMURAI SWORD』)や、小説の形になっていない没シナリオ or シノプシス(例:『 Murder in B Flat』や『 Hear No Evil』)はもっと存在しているのですが、今回は割愛させていただきます。『コロンボ警部とサムライ・ソード』て……真田広之さんがブチ切れそうなかほりが……
 あと、これらの他に『刑事コロンボ』シリーズの原作者の一人であるウィリアム=リンクが著した短編集『刑事コロンボ13の事件簿 黒衣のリハーサル』(2012年 論創社)などもあるのですが、今回はあくまでも映像化された正統エピソード群と同等のボリュームを持った長編作品のみを扱わせていただきます。あと、これは完全な私見なのですが、やっぱり映像化にあたってコロンボ警部の血肉そのものとなっていた名優ピーター=フォークの没年2011年をもって、コロンボ警部の事件簿にも区切りをつけるべきな気もするんですよね。そうじゃないと、ルパン三世みたいにきりがなくなっちゃうでしょ……私に言わせれば、1995年3月19日以降に世間を騒がせているルパン三世は、全員一人残らず偽物ですよ、あんなもん。

 ごたくはここまでにしておきまして、早速、この精鋭たる「未映像化8つの事件簿」の各話を読んだ感想をつらつら述べてまいりたいと思います。
 ちなみに8エピソードの順番につきましては、「原型となったシノプシス or シナリオ or 小説が古い順」となっております。ですので、最終的に日本で小説化した段階で、もっと新しい時代設定に改変されているエピソードもあるのですが、あくまで原型が生まれた早さを優先しておりますので、ご了承くださいませませ!


File.1、『殺人依頼』( Match Play for Murder) 小鷹信光 1999年6月2日刊
 ≪犯人の職業≫    …… 不動産会社の社長(ゴルフの元アマ・チャンピオン)、金融会社社員
 ≪被害者の職業≫   …… 金融会社社員夫人
 ≪犯行トリックの種類≫…… 動機を隠蔽し完璧なアリバイを作るための交換殺人
・没シノプシスの『 Trade for Murder』を元にした小鷹信光によるオリジナル小説。
・「刑事コロンボ生誕30周年記念長編オリジナル作」として、二見書房から単行本の体裁で刊行された。
・原典シノプシスの作成時期は不明だが、別小説作品『サーカス殺人事件』(作者は同じく小鷹信光)にて、コロンボが部下のウィルソン刑事に対して「おまえさんが配属されてきた前の年にゴルフがらみのちょいとした事件があって、あたしゃ、ベルエア・カントリークラブまでなんども足を運んだよ。」と語っている。この事件が本作のことを指しているとするのならば、ウィルソン刑事が殺人課に配属されたのは映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)のことなので、本作は1971年に発生した事件ということになる。ただし、映像版に登場したウィルソン刑事の名前は「フレデリック」で、『サーカス殺人事件』に登場したウィルソン刑事の名前は「ケイシー」である。
・作中で、登場人物がレクサスの自家用車を運転している描写がある。レクサスの販売開始は1989年であるため、本作は1971年を舞台としていない作品であると解釈できる。また、登場人物が携帯電話を使用している描写もある。
・さらに本作には、映像版で第28話『祝砲の挽歌』(1974年10月放送)から数エピソードにわたり登場したコロンボの部下のクレイマー刑事が登場する(ただし名前が「ジョージ」でなく「ジョン」)のだが、本作の時点でロサンゼルス市警殺人課からシカゴ市警に転勤した上でロサンゼルス市警鑑識課に転属している。このことからも、本作が1971年を舞台にしていないことは明らかである。
・映像版に登場したキャラクターとしてはクレイマー刑事の他に、ジョージ=フォーサイス検死官、「バーニーの店」のバーニー(バートではない)、コロンボの飼い犬「ドッグ」が登場する。
・本作オリジナルのコロンボの部下として、太鼓腹で大柄なルイス部長刑事が登場する。ちなみにルイス刑事は、本作のクライマックスでも重要な役割を担う「ある特技」を持っている。
・内容に類似性はないが、プロゴルファーが重要な役として登場する TVドラマ第6シーズン用の没シナリオ『 Murder in B Flat』(1976年10月執筆 作ロバート=F=メッツラー)がある。

あらすじ
 ゴルフの元チャンピオンが仕掛けた殺人トリック! 王者の誇りを賭けた死のマッチプレイ……
 絞殺された人妻の喉元にくっきりとついた5本の指の跡。犯人とおぼしき夫を追うコロンボ警部を惑わす、完璧なアリバイと動機なき殺人。「魔法のクラブ」はどこへ消えたのか? ゴルフ狂の大物フィクサーとの禁じられた賭けに端を発した殺人契約。全ては、あの「忌まわしきショット」から始まった……


 1本目から時系列がごちゃごちゃになってしまい申し訳ないのですが、別作品で「1971年の事件」と語られておきながら、どこからどう見ても1990年代後半の時代設定になっている作品です。まぁ、『サーカス殺人事件』でコロンボ警部がふれた「ゴルフ関係の事件」が本作だとは限らないとも解釈できるのですが。
 ここまで語ってきた経緯からもわかるように、日本における「海外映像作品のノヴェライズ」文化の先駆けとなったと申しても過言ではない二見書房の『刑事コロンボ』シリーズにおいて、訳者という立場は単なる翻訳者に留まらず、かなりのパーセンテージで作品を「超訳」している自由度の高いポジションであるようで、特に本作の訳者である小鷹信光さんは、かの松田優作の『探偵物語』の原案者&ノヴェライズ作家であることからもわかるように、作家性の高い方だったと思われます。でも、『探偵物語』の魅力って、ぶっちゃけ話の本筋から俳優陣がどれだけ脱線するのかってところにあるような気もするので、原作って言われましても……実際に小鷹さんの小説版『探偵物語』シリーズを幻冬舎文庫で読んだ時も、「これが工藤ちゃん……?」感が否めませんでした。
 なので、本作の時代設定と、後年に発刊された『サーカス殺人事件』での言及が矛盾しているのも、小鷹さんなりのファンサービスなんだろうなとは思うのですが、正直、言い出しっぺは小鷹さんなんだから、そのくらいはちゃんと筋を通してくれよという気はします。

 話を作品の内容に戻しますが、さすがは「刑事コロンボ生誕30周年記念作品」といいますか、テーマが「交換殺人」ということで犯人も被害者も2人ずついることになりますので、通常のエピソードの2倍の複雑な人間関係でお話が進んでいくぶん、けっこう読み応えのある作品となっております。小鷹さんが本作執筆のためにロサンゼルスで現地取材をしたと語るあとがきからもわかるように、ロス市内の様々な名所を行ったり来たりする展開も、情景の書き分けがはっきりしていて非常にわかりやすいです。

 ただ、この事件における「交換殺人」は、一人の犯人がもう一人をかなりの強引さ(酔った勢い!)で犯罪計画に引き込んで決行しているため、やる気も真剣度もかなり低いパートナーをフォローするために生じる手間やポカがぼろぼろ出てきてしまい、とてもじゃないですがあのコロンボ警部の追撃を逃れる余裕などできるわけもない自己崩壊を招いてしまうのでした。なんか、勝手に自滅してますけど……
 だって、交換殺人って、互いに殺したい相手が死ぬ時間にアリバイを作ることができることと、殺された人間と殺した人間との間に接点がないというところが、捜査をかく乱するという視点からすると大きな利点なんじゃないですか。
 でも本作の場合、主人公的な役割の犯人のほうが頑張って事前準備&事後処理し過ぎちゃうので、発生する2件のどっちの背景にもちらほら見え隠れしちゃうのよね! 意味ないじゃ~ん!! じゃあ勝手にあんた一人でやってくれよぉ!!
 せっかくの交換殺人ネタが……これじゃあ、どだいコロンボ警部の相手になれるわけがありませんよね。まず、泥酔してる人間を犯罪計画に引っ張り込むっていう初動からして、世の中をナメてますよね。うまくいくわけねぇだろ……

 あと、小説としての本作のウィークポイントとして言えるのは、主人公の犯人と、犯人が命を狙っている被害者の、どっちもが同情しづらいクズ人間であるというところでしょうか。殺されようが逮捕されようが、どっちがどうなっても爽快感がないんだよなぁ!
 相手の弱みを見つけてほじくり返し恐喝の道具にするという被害者の最低さは、あの『金田一少年の事件簿』の被害者たちの「殺されても当然」パターンに通じるものがあるのですが、本作の場合は犯人のほうも割とホイホイ不倫する上にその不倫相手を自分の都合で躊躇なくぶっ殺すし、さらにそれを利用して不倫相手の夫に「不倫したお前の嫁さんを殺してやったんだから、お前も誰か殺せよな!」と詰め寄るという、閻魔大王も思わず世をはかなむ自己中クズっぷりなので、もうホント、「勝手にしやがれ」って感じです。主人公の犯人にいいように操られた挙句に結局死んじゃったもう一人の犯人が哀れすぎる……

 さらに言うと、犯人を恐喝していた被害者の末路に関しても、詳しくは言えないのですがモヤっとした感じの終わり方なので、あくまでも遵法者であるコロンボ警部では裁けない「悪」もあるという部分が露呈してしまい、本来、名探偵というヒーローであるはずのコロンボ警部の魅力もかなり減じてしまう、ほろ苦い読後感になってしまいます。
 ただ、この爽快感の無さというか、ビターな味わいが図らずも『刑事コロンボ』のオリジンであるレヴィンソン&リンクの小説『愛しい死体』が「犯罪小説」だったという事実を呼び覚ますものがありますし、小鷹さんがハードボイルド作家だったという、その属性をありありと見せるものになっている気がします。

 結論から言いますと、読みごたえはあるんだけど『刑事コロンボ』である必要はないかなって感じ?

 なんかこの感じ、特撮ファンの私としては映画『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)を彷彿とさせるものがあるんだよなぁ……あれも「ゴジラ生誕50周年」の記念作品だったんですよ。なのに、あれほどゴジラっぽくない映画もないんですよね。監督の北村龍平の濃度99%、ゴジラ1% の映画でしたよね。
 ……ん? キタムラリュウヘイ……?


File.2、『人形の密室』( A Christmas Killing)アルフレッド=ローレンス 訳・小鷹信光 2001年3月25日刊
 ≪犯人の職業≫    …… 服飾デザイナー
 ≪被害者の職業≫   …… 同僚(服飾デザイナー)
 ≪犯行トリックの種類≫…… 密室殺人工作
・アメリカ本国で1972年(第1・2シーズンの放送時期)に出版されたオリジナル小説の翻訳。
・1975年12月に二見書房新書サラブレッド・ブックスで翻訳出版された『死のクリスマス』( Crime in Christmas)の改題・改訳版で、内容も初訳版の1.5倍に拡大されている。
・本作が初訳された時期は、日本では NHK総合で第3・4シーズンが吹き替え放送されており、改訳された時期は WOWWOWで新作が吹き替え放送されていた。
・本作の殺人事件の捜査主任として、本作オリジナルのキャラクター・ロサンゼルス市警殺人課のベンジャミン=ワトキンス巡査部長が登場する。ワトキンス刑事は「警察学校を卒業して2年経っていない」という設定なので23~4歳の若手刑事なのだが、事件発生時にコロンボがカリフォルニア州南部のサンタカタリナ島に夜釣りに出かけていたため主任となった。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ジョージ=フォーサイス検死官が登場する。しかし彼が映像版に登場するのは第54話『華麗なる罠』(1990年4月放送)からなので(名前は最初の2話分では「ジョンソン」だったが3回目の登場から「ジョージ」に)、1972年に出版された本作への登場の方が早い。

あらすじ
 ロサンゼルスのダウンタウンにある七階建ての老舗デパート「ブロートン」で、クリスマスシーズンを控えた閉店後の夜に若い女性デザイナーが殺害された。被害者は頭部を凶器で殴打されマネキン人形の間に倒れていた。捜査に当たったコロンボ警部の部下ワトキンス刑事は、犯人にとって逃げ道の無い状況から密室殺人の可能性を推測するが、コロンボは遺体の握っていた奇妙な遺留品に目をとめた。クリスマスのショーウィンドウを飾る人形の謎を追って、コロンボは被害者の住んでいた雪のシカゴに急行する。


 没シノプシスの小説化作品だった『殺人依頼』と違って、こちらはオリジナル小説の邦訳作品となっております。
 訳者は『殺人依頼』と同じ小鷹さんなのですが、本作は小鷹さんによって2回翻訳されているようです。でも、いくら翻訳の習熟度が違っているといっても、同じ原作を翻訳しておいて文量に1.5倍の違いがでるなんてこと、あんのかね……私が読んだ2001年改訳版(二見文庫版)に出てくるフォーサイス検死官も、1990年の映像版初登場よりも後に改訳したバージョンから小鷹さんが登場させた独自サービスのような気がします。そりゃ、映像版シリーズを知っている読者にしたらうれしい登板なのかもしれませんが、それは果たして「翻訳」なのか……?

 犯罪自体よりも犯人の心理描写や行動に物語の重点が置かれていた『殺人依頼』と違って、本作は純粋にコロンボ警部の地道な捜査によるトリック解明に焦点を当てた、よりミステリー寄りのエピソードとなっています。確かにこちらの方が『刑事コロンボ』シリーズっぽいですね。
 ただ、タイトルにでかでかと「密室」とぶち上げている割には、事件発生時からコロンボ警部が密室殺人の可能性を「信じない」ところから捜査を始めていますし、密室でないとするのならば、密室のように仕立て上げる工作ができるのは誰?というポイントから考えてみると、ほぼ選択の余地なしで疑惑の焦点が本作の犯人だけに絞られてしまうので、『殺人依頼』の交換殺人と同様に、本作の密室殺人もまた、そのテーマをちゃんと実現しているとはとてもじゃないけど言い難いアラ目立ちまくりの事件となっております。ま、そこらへんが実にリアルといえばリアルなのですが……
 だいたい、被害者が殺された部屋とか階じゃなくて、七階建てのデパートビル全体をひっくるめて「密室」とするという方便も、かなり無理がありますよね。ろくに防犯カメラもないし、監視してる人間も一階の固定された場所に詰めてる守衛さん一人なんだもんなぁ。

 そして、密室と並んでタイトルで強調されている「人形」に関しても、物語のキーワードとしては犯人の生い立ちを語る上でかなり重要な要素となっていて味わい深いものではあるのですが、そりゃ、そんな大事なものを犯行現場で見失ったままトンズラしちゃったら、コロンボ警部が見逃さないわけがないんだよなぁといった感じで、事件解決の難易度を劇的に下げている手がかりとしてしか機能していないのが残念でなりません。

 結局、本作の犯人も、コロンボ警部の同情を買いこそすれ、決してコロンボ警部を苦しめるような難事件を出来せしめる印象的な犯罪者にはなり得ていないのでした。所詮はゆるゲーであったか……
 ただ、本作の犯人は最終的な証拠となり得る「凶器」を隠滅することには成功していたので、状況証拠は山ほどあっても、なんとしても「私はやってない!」といい抜ければ逃げ道はあった気はするのですが、そこは百戦錬磨なコロンボ警部のこと、完全にルール違反なミスリード芝居をうって犯人の心を折るという、かなり黒よりのグレーな戦法で自白をもぎ取るのでした。これ、映像化のエピソードでもけっこう多用されるコロンボ警部のかなり強引な最終手段なのですが、その悪魔のような狡知に長けた采配こそが、ふだんはあんなに人畜無害な風貌のコロンボ警部が、ほんとにちらっとだけ「裏の顔」を垣間見せるという魅力の源泉なんですよね。きったねぇ!! でも、そこがいい……

 この『人形の密室』は、物語の構成自体はしっかり映像版の文法にのっとっており、おそらく映像化しても一応『刑事コロンボ』らしくなるかと思うのですが、やはり大看板で「密室」という割にはトリックとして甘々な部分もあり、最終的なコロンボ警部のチェックメイトもさほどのサプライズ感がないので、もし映像化してもかなり地味で目立たないエピソードになってしまうような気がします。これもまた、映像化されないだけの理由はあるかな、という感じでしょうか。

 ただ一点、この作品で長じているのは、やはり主人公である犯人と被害者との因縁の関係の生々しいディティールだと思います。
 主人公と被害者とは幼なじみの同業者なのですが、子どもの頃から華やかな娘だった被害者に主人公はコンプレックスを持っており、彼氏を被害者に盗られるという典型的な遺恨もありました。その上に、主人公が何とかキャリアを築き上げてきた老舗デパートのデザイン部に、シカゴの大手デパートから都落ちした被害者が転職してきて……という、主人公の首を真綿でじわじわと締めてゆくような犯行までの経緯は、ちょっと辻村深月先生の作品にでも出てきそうなエグみのある関係のような気がします。
 しかも、被害者の死後に、彼女が主人公たちに送るつもりだったクリスマスプレゼントが見つかるというくだりも非常にインパクトが強いのですが、それを見つけた主人公が同僚たちに「さっさと開けちゃって、次に気持ちを切り替えよう!」と言い放ってしまう決定的な「変貌」もちゃんと描いているあたり、さすがはハードボイルド小説家・小鷹信光の真骨頂といった感じですよね。やりおるわい!!

 『刑事コロンボ』の映像化されたエピソードの中で「傑作」と讃えられるものの魅力が那辺にあるのかと考えてみますと、犯行トリックの秀逸さは実のところ4割ほどで、やはり犯人を演じるゲスト俳優さんの演技力が6割のような気がするのです。そこはドラマですからね~。
 そう考えてみるとこの『人形の密室』も、たとえば『古畑任三郎』の中で橋本愛さんあたりが犯人を演じていれば、かなり視聴者の心に残る名作になっていたかも知れません。ちょっと、中森明菜さんにイメージがかぶるでしょうか。


 ……という感じに、刑事コロンボ「幻の未映像化事件簿」8つのうちの、まずは2つについてくっちゃべってみました。
 いやまぁ~、この2作に関しましては、正統的なエピソードとして映像化しないだけの理由はあるといいますか、TVドラマ化を想定していない冒険や登場人物の深めの掘り下げがあったと見ました。ていうか、『刑事コロンボ』じゃなくて小鷹信光さんの独立した小説としてやってくんないかな!? 面白いからさ!

 こういったあんばいで、残り6エピソードも次回以降、取り扱っていきたいと思いま~っす。
 さぁ、果たして映像化されても遜色ないような名エピソード、あのコロンボ警部を苦しめるような脅威のトリックは出てくるのでありましょーか!?
 
 いやぁあああ! 『刑事コロンボ』って、ホンッッッットに! いいもんですねェエエ!!
 それじゃあまた、ご一緒にたのしみましょ~。ぼんちゃ~ん♡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最高傑作 or 黒歴史!? 未来の巨匠のほろ苦いハリウッドデビュー作 ~映画『レベッカ』~

2024年09月02日 22時46分28秒 | ミステリーまわり
 ハイどうもこんばんは! そうだいでございます~。みなさま、夏も終わりに近づいてまいりましたが、あんじょうやっとりまっか?
 いやぁもう、実感は全然わかないのですが夏が終わったら秋ですよ。秋が来るってことは、今年ももう後半戦なんですよ! 早いですね~。
 ほんと、日々あくせく働いておりますと時間なんてあっという間に過ぎてしまうのですが、楽しく生きてはいるものの、家にゃ積ん読な本も山ほどありますし、世間にゃ観たい映画やらドラマやらアニメやらもゴロゴロある、外を歩きゃあ行きたい温泉も城跡も無尽蔵にあるしで……仕事に疲れてすぐ眠くなってしまうこの身がにくい~! 私に残された人生時間がどのくらいあるのかはわからないのですが、一日にやれることが限られている中、どう取捨選択して楽しんでいくのかも大事ですよね。もう大学生時代みたいに時間と体力があるわけでもないんだし。なにごとも健康第一よぉ。目が悪くなれば本も読みにくくなるし、足が痛くなれば遠出も難しくなっちゃうわけですからね。今日も野菜ジュースあおって運動だ!!

 それはそれとして、今日も今日とて恒例の「ヒッチコックの諸作を古い順に観ていく企画」の続きでございます。新しいエンタメを楽しむのもいいですが、温故知新も大切よ~! 特に、今回取り上げる作品は、ヒッチコックの映画人生を通観していくにしても非常に重要な作品であります!
 さっそくいってみましょう、ヒッチコック新時代の幕開けを告げる、この一作!


映画『レベッカ』(1940年3月公開 130分 アメリカ)
 『レベッカ』(Rebecca)は、アルフレッド=ヒッチコック監督によるサイコスリラー映画。イギリスで活動していたヒッチコックの渡米第1作。ダフニ=デュ・モーリエの小説『レベッカ』(1938年)を原作とし、制作はセルズニック・プロ、アメリカでの配給はユナイテッド・アーティスツが担当した。第13回アカデミー賞にてアカデミー賞最優秀作品賞と撮影賞(モノクロ部門)の2部門を獲得した。ヒッチコックは監督賞にノミネートされていたが、結局受賞できなかった。ヒッチコックにとっては生涯唯一のアカデミー最優秀作品賞であるが、のちにフランソワ=トリュフォーとの対談でヒッチコックは「あれ(作品賞)はセルズニックに与えられた賞だ」と語っている。ヒッチコックはその後4度も監督賞にノミネートされたが結局受賞することはなく、壇上でオスカーを手にしたのは1967年にアーヴィング・タールバーグ記念賞(功労賞)を受賞した時の一度きりであった。
 製作費は約130万ドル、アメリカ・カナダでの興行収入は約600万ドルだった。

 ヒッチコックは小説『レベッカ』の発表時から映画化を検討していたが、版権を取得できずに断念した経緯があったため、この作品を手がけることには乗り気だったと思われる。しかし、ヒッチコックはこれまで常に自作の脚本に関与してきていたが、今作のシナリオ制作には参加できず、しかも撮影中にプロデューサーのデイヴィッド=O=セルズニックから多くの横やりが入っており、ヒッチコックにとってはおおいに不本意な制作環境であったという。ヒッチコックはセルズニックが撮影現場に押しかけるのを拒み、そのためにラッシュを見たセルズニックから膨大な指示メモを受け取るようになったという。
 男性側の主演を務めたローレンス=オリヴィエは、当時の自身の恋人ヴィヴィアン=リーとの本作での共演を望んでいたため、撮影中はフォンテインに冷たい態度をとった。オリヴィエの態度にフォンテインが恐れを抱いたことに気付いたヒッチコックは、撮影スタジオにいる全員に対して、フォンテインに対してつらく当たるように伝えた。これによって、フォンテインから恥ずかしがりで打ち解けられない演技を引き出したのであった。

 セルズニックは、本作のロケ地としてアメリカのニューイングランド地方を中心に探したが条件に合う場所がなかった。そこで遠景はミニチュアで撮影されたのだが、これがこの世ならぬ雰囲気をかもし出すためにはかえって効果的であった。またヒッチコックは、屋敷の立地を示すような映像を意図的に描かず、屋敷の存在をさらに神秘的なものにしている。
 セルズニックは、ラストシーンで燃えさかるマンダレイ邸の煙突から「R」の文字の煙を出させたかったが、ヒッチコックは技術上の困難さを理由に断った。その代わりに、レベッカのベッドの枕の「R」のイニシャルが炎の中に消えていく演出に差し替えた。

 ヒッチコック監督は、本編開始2時間6分23秒頃、駐車禁止を巡査にとがめられたジャックの後ろを通り過ぎるコートを着た通行人の役で出演している。


あらすじ
 アメリカ人の富豪ヴァン・ホッパー夫人の付き人として地中海モナコ公国のモンテカルロのホテルにやってきた「わたし」は、そこでイギリスの貴族であるマキシムと出逢い、2人は恋に落ちる。マキシムは1年前にヨット事故で前妻レベッカを亡くしていたのだが、彼女はマキシムの後妻として、イギリスの大邸宅マンダレイへ赴く決意をする。多くの使用人がいる邸宅の女主人として、控えめながらも暮らしていこうとする彼女だったが、かつてのレベッカ付きの家政婦で今も邸宅を取り仕切るダンヴァース夫人にはなかなか受け入れてもらえない。次第に「わたし」は、死んだはずの前妻レベッカの見えない影に追いつめられていく。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(40歳)
脚本 …… ロバート=エメット・シャーウッド(43歳)、ジョーン=ハリソン(32歳)
製作 …… デイヴィッド=O=セルズニック(37歳)
音楽 …… フランツ=ワックスマン(33歳)
撮影 …… ジョージ=バーンズ(47歳)

おもなキャスティング
わたし          …… ジョーン=フォンテイン(22歳)
マキシム=ド・ウィンター …… ローレンス=オリヴィエ(32歳)
家政婦長ダンヴァース夫人 …… ジュディス=アンダーソン(43歳)
執事長のフィルス     …… エドワード=フィールディング(65歳)
ジャック=ファヴェル   …… ジョージ=サンダース(33歳)
フランク=クロウリー   …… レジナルド=デニー(48歳)
ベアトリス=レイシー   …… グラディス=クーパー(51歳)
ジャイルズ=レイシー少佐 …… ナイジェル=ブルース(45歳)
浮浪者のベン       …… レオナルド=キャリー(53歳)
ジュリアン署長      …… チャールズ=オーブリー・スミス(76歳)
船大工のジェイムズ=タブ …… ラムスデン=ヘイア(65歳)
ベイカー医師       …… レオ=グラッテン・キャロル(58歳)
イーディス=ヴァン・ホッパー夫人 …… フローレンス=ベイツ(51歳)


 いや~、ついにここまできましたよ、ヒッチコック、新天地アメリカに上陸!!

 本作は、ヒッチコック監督の長編映画第24作となるのですが、今まで15年間母国イギリスで制作してきた23作までを「第1部・ヒッチコック立志編」とするのならば、この『レベッカ』からは「第2部・ヒッチコック黄金時代編」と言えるのではないでしょうか。
 無論、先のことを言うとヒッチコック監督はここから35年以上、監督最終作にいたるまで基本的にはアメリカで活動し続けていくので、『レベッカ』以降をぜんぶひっくるめて論じることはできないのですが、まずここが、ヒッチコック監督にとってのかなり大きなターニングポイントとなっているのは間違いないでしょう。
 ちなみに、ここまでのイギリス時代の中でもヒッチコック監督のキャリアの中では「サイレント映画時代」と「トーキー映画時代」という大きな区別があったわけなのですが、過去の記事でもふれたようにサイレントからトーキーへの世代交代に関しては、けっこうグラデーションのある感じで徐々にシフトしていくものでしたので、今回の「渡米」ほどにかっちりした転換点は無かったかと思います。トーキー初期はサイレントのセリフを使わない演出も引き続き多用されていましたし。

 でも、ほんとに今回の『レベッカ』は、明らかにヒッチコックの映画制作環境が変わったんだろうな、と察することが容易な雰囲気に満ちているんですよね。つまり、今までのヒッチコック作品とは毛色がまるで違った作品。それがこの『レベッカ』なのです。まぁ、それが「面白いのか」どうかは別の話なんですけど……

 まず、作品の内容に入る前にヒッチコック監督の長いキャリアの中での『レベッカ』の存在感を考えてみたいのですが、何と言っても無視できないのは、本作がヒッチコックの生涯の中で唯一、アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞した作品であるということでしょう。
 つまり、ヒッチコックを知らない人が彼について知ろうとするときに、とりあえず賞レースの観点から言えば、53作ある監督作品の中でもいちばん高く評価されたのがこの『レベッカ』ということになるからです。
 なんか、サスペンス・スリラーという映画のジャンルの中で「最低限この人の作品は観てないと……」とよく引き合いに出されているヒッチコックという神監督がいるぞ、と聞いた時、興味を持った人はとりあえず「どの作品がおもしろいの?」と調べると思うのですが、まずはネット上の評判を見るというのが手っ取り早い手段でしょう。そして、ぱっと見ですぐわかる基準として「賞とってる作品は?」という見方も当然あるのではないでしょうか。そうした場合、はっきりと他作品と区別できるアドバンテージとして、『レベッカ』のアカデミー作品賞受賞はひときわ輝くものがあるかとは思うのです。実際、30年以上前に紅顔のビデオ少年だった私も、『サイコ』だ『鳥』だ『裏窓』だとは言われてますが、やっぱり関口宏さんとか西田ひかるさんとかが出ていたヒッチコックに関する伝記番組みたいなものを観てみても、イギリスからハリウッドに跳んだヒッチコックが『レベッカ』で大いに名を挙げたというくだりは必要不可欠な重大トピックになっていたものでした。

 ところが、ひるがえって振り返ってみますと、我々は『レベッカ』の何を知っているのか……ぶっちゃけ、ちゃんと『レベッカ』観てる人って、どのくらいいんの?と疑問に感じてしまうのです。
 例えば、TV番組で『レベッカ』が紹介される時に数秒流れるダイジェストカットと言いますと、代表的なのはやっぱり、「豪華な時代もののドレスを着こんだわたしが登場して夫のマキシムの表情が凍りつくシーン」と、「ダンヴァース夫人が窓際でわたしに身投げするよう詰め寄るシーン」の2つでしょう。
 この2つ、どちらもマキシム夫婦の住むマンダレイの大邸宅を舞台にしているシーンですし、特に前者はその場にいる人物全員が古めかしい衣装に仮装しているパーティ上でのやり取りですので、おそらくこれらの紹介映像を見ただけの人のほとんどは、『レベッカ』って、『風と共に去りぬ』(1939年 ヴィクター=フレミング監督)みたいな歴史劇なんじゃなかろうかと勘違いしてしまったのではないでしょうか。プロデューサーもおんなじセルズニックだし。

 実際にかくいう私も、だいぶ後年になってほんとに『レベッカ』をちゃんと観たら、歴史劇どころか何の変哲もないメロドラマみたいな現代劇設定だったので、なんというか、ぶっちゃけ肩透かしを食らった気になってしまった記憶があります。あれ、これ、他のヒッチコック作品と大して変わんないスケールじゃん、みたいな。そうなんだったら、モノクロだし歴史劇っぽいしで先入観で警戒せずに、さっさと気軽に観ておけばよかったのにな~と。

 ところが……この『レベッカ』って、ミョ~にヒッチコックらしくないんですよね。よく言えば「重厚」というか、物語が展開もテンポも非常に丁寧な進行になっていて、ハリウッドデビュー作とは思えない落ち着きに満ちたつくりになっている、とも言えるのですが……


ない、ない! ヒッチコック作品のトレードマークともいえる、観客をいきなりドキッとさせる斬新な映像演出が、どこにもな~い!!


 不思議なんですよね~。これ以降の作品と比較してももちろんなのですが、はっきり言ってこれ以前のイギリス時代の過去作品のどれと比べても、あの古色蒼然たるサイレント時代の諸作を引き合いに出してさえも、この『レベッカ』ほどに保守的な撮り方の作品はどこにもない、と思ってしまうほど、『レベッカ』は古臭いのです。なんか、ヒッチコック監督とクレジットされなかったら誰が撮ったのか全然わからないくらい。

 いや、もちろんそのことをもって、『レベッカ』をつまらないという気はさらさらありません。面白いです、この作品はさすが、ある賞のグランプリを獲得するだけあって一定のレベルはゆうに超えている傑作ではあるのですが……先ほどにあげた作品情報でご本人がそう明言しておられたように、『レベッカ』の面白さはヒッチコックの面白さではない、としか言いようがないのです。
 じゃあなんの面白さなのかと言えば、そりゃもう言うまでもなく原作小説の面白さですよね。デュ・モーリエの小説『レベッカ』に実に忠実な映像化。まぁ、おそらくは当時の倫理的な問題から後半に微妙な改変はあるのですが、映画版の大半の面白いシーンは、小説ですでにしっかりと、より詳しく描写されているのです。

 そう言われてみると、この「かなり忠実な映像化」という部分も、ヒッチコック作品らしからぬ非常に珍しいもので、イギリス時代のヒッチコック作品の多くは、映画化される前にすでに有名な原作小説や戯曲があったものが大半なのですが、『下宿人』(1927年)しかり『第3逃亡者』(1937年)しかり、原作小説を読んでみると「どこ見て映画化しとんねん」とツッコみたくなってしまうような「超訳」アレンジ作品がざらだったような気がします。
 そういった大胆な改変の根底にあったのは間違いなく、ヒッチコックのプロの映像作家としての「映像化するなら絶対こっちのほうが面白い」という確信であったわけなのですが、今回の『レベッカ』にいたっては、まるで借りてきたネコのようにおとなしくなって、かなり従順に淡々と小説の展開を映像化しているな、といった印象の仕事になってしまっているのです。なので、あのヒッチコックの作品だと意気込んで『レベッカ』を観てしまうと、特に原作小説を読んだうえで観ると「あれ?」な感じになってしまうのです。フツーだなぁ、みたいな。

 というか、今回にいたってはあのヒッチコックをもってしても、映画版『レベッカ』は原作小説の「わかりやすい映像化」という評価しか得られないような気さえして、判断は人それぞれだとしても、映画と小説を比較した時に、面白さで軍配が上がるのは圧倒的にデュ・モーリエの小説の方なのではないでしょうか。
 いや~、今回この記事をつづるために、こちらもほぼ30年ぶりに小説『レベッカ』を読み直してみたのですが(新潮文庫の茅野美ど里2008年訳版)、こんなに面白い作品だとはねぇ。なんか、私の大好きな辻村深月ワールドに通じる人間描写の鋭さと遠慮の無さがあるんですよね。
 特に、主人公のわたしがマンダレイで暮らしていくにつれて、徐々に亡妻レベッカの幻影をぐいぐいと押しのけてマキシムの新たな「支配者」になっていこうとするしたたかさというか、何も知らない娘が政治的な富豪夫人に変貌してゆく心理的な過程が克明につづられていくのには、レベッカの死の謎なんかどうでもよくなる勢いで戦慄させられてしまいます。今風の言い方で言うと「人怖系サスペンス」の古典なんですよね、これ。

 ただ、そこらへんをハリウッドの娯楽映画というコンプライアンスにのっとってビックリするくらいに「健全」にしてしまっているのが、映画版『レベッカ』の改変点なのでありまして、このために、小説の中でかなり存在感のある主人公として確実な成長(豹変?)を見せていたわたしは、レベッカの幻影やその死の真相におびえるか驚愕し続けるだけのかよわい目撃者の役割だけしか与えられず、真相を知る夫マキシムもまた、レベッカの死への関わり方はずいぶんとマイルドなものに変えられてしまっているのでした。極端な話、小説では各登場人物が平等にかかえていた「罪」が、映画版では「ぜんぶレベッカかダンヴァース夫人のせい。」と押しつけられてしまった感がありますよね。こういうわかりやすさは……面白さを減らす方向にしか機能していないような気がします。
 あと、映像化される際に原作に出ていた登場人物が数名カットされてしまうのは仕方のない事かとは思うのですが、マンダレイでのわたしの数少ない共感者であるドジっ子メイドのクラリスや、わたしを前にして「あんただれ? 私の好きなレベッカはどこ?」と気まずい発言をしてしまうマキシムのボケた祖母といった魅力的な面々が活躍しないのは、もったいないとしか言えません。

 特に、小説ではあんなに切れ味が鋭かった「ラストの幕切れ」が、映画版ではごくごくふつうのスペクタクル展開になってしまったのは、これこそまさに「蛇足」の好例といった感じですよね。ただ、あそこでスパッとおしまいにしてもいいのが小説の良さで、その一方、野暮であることは承知の上でも、観客のためにマキシムが危機におちいったわたしを必死で救うという通過儀礼はちゃんと描かないといけないという映画の、エンタメとしてのつらいところなのかな、という気はしました。そこはまぁ、お金をかけてやらなきゃいけないお約束だったのでしょう。大邸宅を出したからには火ィつけろというプロデューサー様のお達しが~!

 ただ、今回のように内容の簡略化に舵を切った映画の場合、確かにラストに大邸宅の炎上を持ってきたのは判断として正解というしかなく、小説のようなリアルで生々しいわたしの心理描写をさっぴいてしまうと、この作品はマキシムしか知らないレベッカの死の真相をめぐる法廷劇や、レベッカの主治医をまじえて辛気くさい顔をしたおっさん達が集まって話し合うやり取りがクライマックスになっちゃうので、そんなんで終われるわけないやろがい!!とばかりに、小説に無いカタストロフィを持ってこさせたセルズニックの剛腕は正しかったのではないでしょうか。でも、この手も『風と共に去りぬ』の二匹目のどじょう感が強いし、それなのに『レベッカ』はモノクロだし邸宅もミニチュアだしで……後発なのに、あんまし勝ててないんだよなぁ。

 ほんと、あの巨匠ヒッチコックにも、ハリウッド駆け出しのころはこんな使いっぱしりな日々があったのねぇ、という感じで。
 でも、けっこう当時としては斬新すぎて変な撮り方も多かったけど、いざやろうとしたら、このくらい真っ当で正統派なメロドラマも撮れるんだぜとばかりに、ヒッチコックの奇才なだけでもない万能選手っぷりをハリウッドにアピールできたという意味では、この作品を世に出した効果もマイナスなばかりではなかったのではないでしょうか。実際、ここからしばらくヒッチコックは、受注した作品をノンジャンルで器用に映画化していく堅実雌伏なコツコツキャリアアップ期に入るので、この『レベッカ』という豪華すぎる名刺をちゃんと作れたことは、ヒッチコックの映画人生において大きな利点をもたらしてくれたと言えると思います。

 いかな天才ヒッチコックといえども、自分の好きな作品ばっかり撮っていたわけではないんだなぁ。あえて自分の牙を隠しておとなし~く撮った映画『レベッカ』の存在意義は、その地味すぎる無個性さにこそ、逆にしっかりと刻み込まれているのです!

 でもまぁ、この作品はほんと、睡眠を充分に摂って心の余裕がある時にゆ~ったりと観るべき作品だと思います。そのぐらいハードルを低くして臨めば、この「減点も加点もない、毒にも薬にもならない良品」の世界を楽しめるのではないでしょうか。いや~、ヒッチコックらしくねぇ!!
 だいたいこの作品、物語の重要な転換ポイントを長ったらしい説明ゼリフとか登場人物の表情の演技のどっちかで押し通し過ぎなんですよ! そりゃ主人公ペアは名優オリヴィエと、美貌よりは演技力の方が目立つフォンテインなんですから、その実力を使わないのは損なわけなのですが、ヒッチコックの俳優に頼らない演出テクニックは相対的に沈黙しちゃいますよね。う~ん……だったら映画じゃなくて演劇でやったら!?
 マキシムの大邸宅も、イングランド南西端の英仏海峡に面した海辺の風光明媚な地所で、濃霧にむせぶ海の描写もけっこう出てくるのですが、とてもじゃないですが前作『巌窟の野獣』であれだけエネルギッシュで生命力あふれる大海原の躍動を描き切った映画監督と同じ人とは思えないほど、無機質でスタジオ撮影っぽい平々凡々な「海でーす。」タッチにとどまっています。えっ、前作と同じコーンウォールの海ですよね!? なんでこんなに熱量が違うの? まぁ、メロドラマの世界にいかつい難破船荒らしが出てきてもいけませんけど。いやいや、アカデミー賞獲った『レベッカ』よりも『巌窟の野獣』のほうが断然面白いって、どういうこと!?

 あともう一つ、この映画はのちに、性的マイノリティにスポットライトを当てたドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』(1996年一般公開)でもプッシュされたように、亡きレベッカへの恋慕に近い想いをわたしにぶつけるダンヴァース夫人の妖しげな魅力を語られることも多いのですが、これも「あぁ、そう見ればそうかなぁ」みたいな程度で、特にそれほど先見の明のある映像には見えず、ただひたすら無心に小説をなぞったという印象しか残りませんでした。やっぱり、ヒッチコック監督は百合にはご興味はござらぬご様子……ブロンド美女一直線!!
 ま、小説版のダンヴァーズ夫人は「ガイコツみたいに痩せた女性」とこっぴどく描写されているので、映画版のような艶っぽさもありそうにないんですけど。ホラーですねぇ~、Love is over ですねぇ~!!


 かくいうごとく、この『レベッカ』という作品は、「ヒッチコックらしさを極力排除」という異常すぎる内容でありながらも、おそらくはそのために当時のアメリカ大衆の大評判と映画界の高評価を勝ち取って、その後のハリウッドにおけるヒッチコック無双時代の礎を築いた尊い犠牲、人柱のような重要作となっております。「ここは耐えろ……!」と歯を食いしばって撮影を続けたヒッチコックの鉄の意志が伝わってくるような平凡作なんですね! 売れるって、大変なんだな。

 おそらく『レベッカ』が公開された当時、主にイギリスにいたヒッチコックのコアなファン層は、「なんてつまんない映画を撮ってるんだ! おれ達のトンガりまくったヒッチはどこに行った!?」と落胆し、嘆く声も多かったのではないでしょうか。わかるわかる、私も思春期の時に、大好きだったインディーズバンドがメジャーデビューして『ジャンプ』あたりの大人気マンガのアニメ版の OPか EDを担当して一躍有名になった時は、うれしい反面、「なんて毒の無いつまんねぇ歌を唄ってるんだ……!!」とガッカリしたものでした。あれ、単にファンがいきなり増えたことが癪にさわってるだけなんですけどね。
 でも、この時の落胆が完全なる杞憂に過ぎなかったことは、その後のヒッチコックの仕事が如実に証明しているわけなのであります。ヒッチコックはファンの期待を裏切らなかった!!

 繰り返しますが、くれぐれも勘違いしないでいただきたいのは、本作は決して駄作ではないということなのです。あくまでもヒッチコックのキャリアの中で言えば決して印象深い傑作には選ばれなさそう、というだけなのであって、観て損をするような失敗作では絶対にないです。本編時間だって130分と、2020年代現在の2時間30分越え当たり前のひどい状況から見れば、むしろ良心的なほうなんですからね! まぁ、だからって退屈しないわけでもないんですが……

 本作、決して「おもしろいぞ!」とか「ヒッチコックの代表作だぞ!」とは言えないのですが、メロドラマのお手本のような作劇術と、小説の世界を映像化するとはどういうことなのかを考えたい方にとっては、恰好の教科書になるのではないでしょうか。
 こういう作品をてらいなくちゃんと作れるのも稀有な才能ですよね。もしかしたらヒッチコックの「職人」的才能の最高峰が、この『レベッカ』なのかも?

 天才ヒッチコックの新天地ハリウッドにおける本領発揮は、まだまだ先のことなのであった!
 がんばれヒッチ、負けるなヒッチ~!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする